南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(005)

◎紹鴻(じょうおう)の森

二月三日午後五時より、関西芸術座の新稽古場落成記念パ—ティ—が、岸里東二丁目三番地の住吉街道に面した新築ビルで行われるとのことで、少し早めに出掛けていった。
関芸は西日本を代表するプロの新劇の劇団で、永年阿倍野区の文の里にあったが、今度阪和線高架化の予定に伴い、西成区へ移転して来たのである。新稽古場は三階建で二・三階吹き抜けのステ—ジには二〇〇席の観客席もつくることが出来て、前のより約二倍の大きさだという。そして新稽古場の東側には有名な紹鴎の森と天神の森天満宮がある。

武野紹鸥の銅像は堺にある

天満宮を勧請した武野紹鷗は文亀二年(一五〇二)生まれ。父は堺の豪商、子供を何とか武士にしようとしたがむしろ学芸を好み、特に茶道には熱心でその才能抜群、二十九オのとき茶道に専念したいため惜し気もなく地位を捨て剃髪。その後住吉大社の北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道は、この付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鷗は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの杜を紹鴎の森と呼ぶようになった。
紹鴎は茶の眼目に「和敬静寂」の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた。しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名茶人・武野紹鴎ゆかりの紹鴎の森と天満宮(岸里東2丁目)器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五才病没するが、その場所は定かでないという。(西成区史)
大阪府保存樹の大楠をはじめ、巨老木が天満宮の境内にうっそうとし、菅原道真公が現れ出ても不思議でないふんいき。私は少し夢をみてみる。

西成のロビンフッドか

まず武野親子は時の暴君らが無理難題をふっかけてくるのは予想済ではなかったか。むざむざと名器をすべて差出し、しかも追放を受けるのなら、偽物を提出し本物は秘匿する抵抗を行なったのてはないか。紹鴎の鑑識眼は最高のものだったはずである。宗瓦はこの紹鴎の森の奥深く、住民に守られながら権力者共の有為転変を冷やかに見て、案外気楽に生涯を送ったのではないか。そう思えば先日の地震で落ちた瓦のガレキにまじつていわくありげな古茶碗のかけらが足元にある。
私の夢はここで終わって、もう五時、そろそろ関芸のパ—ティ—に出席せねばと思ったとき、阪堺線天神ノ森停留所からこちらに二人の「刑事」が歩いてくる。雰囲気でわかる。ぼんやりと見ていると足早く過ぎて行った。
関芸の稽古場ビルは本当に立派なものだった。これだけのものを民間の力でつくり上げたことに敬意を表したい。そして、私達を入口に並んで迎えてくれた劇団員の幹部の中に先程の二人の「老刑事」も居たことにびっくりした。かってのテレビドラマ「七人の刑事」の出演者であったのだ。これで西成の新劇の劇団が「潮流」に続いて二つになった。私の理想である「文化・スポ—ツの盛んな街、西成」に一歩近づいたことになるように、みんなで協力しなければと思った。
(ー九九五・ニ)

付記1】今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。
付記2】2024年4月号の、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に紹鴻の森の紹介が載っていますのでお読みください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(004)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(四)

◎阿倍野王子神社と晴明神社 (元町九)

 十一|世紀《せいき》前期以来|盛《さか》んになったものに、王朝《おうちょう》貴族の四天王寺詣《してんのうじもうで》、住吉《すみよし》神社詣、高野山《こうやさん》詣および熊野詣がある。
 その中でも最も遠路《えんろ》を行く熊野《くまの》詣は、淀川《よどがわ》を船で下り、天満八軒屋《てんまはちけんや》辺りで上陸し、四天王寺、住吉、堺、泉佐野《いずみさの》を経て田辺《たなべ》から山《やま》の辺《べ》の道を通り熊野本宮へ向かう、往復百七十里、約三週間のコースが一般的《いっぱんてき》であった。
 この熊野街道の沿道《えんどう》には「熊野|九十九《つくも》王子」と称《しょう》せられている多くの神社があり、熊野詣をする人々はこれらの王子を巡拝《じゅんぱい》しながら本宮へ詣でた。現大阪|市域《しいき》で元の位置にある王子社は安倍野王子神社のみで、他は合祀《ごうし》や移転《いてん》させられている。

皇族《こうぞく》の道中《どうちゅう》は農民への重税《じゅうぜい》

 延喜《えんぎ》七年(九〇七)宇多上皇《うだじょうこう》から始まつた熊野|御幸《ぎょこう》は、弘安四年《こうあん》までの三百七十余年間に白河《しらかわ》・鳥羽《とば》・崇徳《すとく》・後白河・後鳥羽・後嵯峨《ごさが》・亀山《かめやま》の上皇《じょうこう》や法皇《ほうおう》によって百回近くも行われたが、特に後白河法皇などは三十四回、後鳥羽上皇も三十ー回という記録《きろく》をつくっている。彼等の御幸は所々《ところどころ》の王子社で供奉《ぐぶ》の公卿《くぎょう》に和歌の詠進《えいしん》をさせるなど華《はな》やかでぜいたくな道中であった。
 源平《げんぺい》の争乱《そうらん》に加《くわ》えてこれら皇族の遊興《ゆうきょう》や旅行は、摂河泉《せっかせん》の農民に重い負担《ふたん》をかけ、このことが頼朝の死で元気付いた後鳥羽上皇が、院政《いんせい》を復活して幕府《ばくふ》を押さえようとした、承久《じょうきゅう》の乱の失敗《しっぱい》にもつながっていった。

庶民《しょみん》の熊野詣は幸福《こうふく》への悲願《ひがん》

 庶民にとっての熊野詣は苦しくて厳《きび》しいものであった。それにもかかわらず、華厳経《けごんきょう》による補陀落浄土《ふだらくじょうど》こそは熊野であるとして、「蟻《あり》の熊野詣」といわれる程、えんえんと行列をつくつて詣でたということは、うちつづく天災《てんさい》、大火《たいか》、疫病《えきびょう》そして戦火《せんか》を何とか逃《のが》れたいという、切《せつ》なる気持ちによるものであったのだろう。

空海《くうかい》ゆかりの阿倍野の氏神《うじがみ》

 阿倍野の氏神として今も親しまれている王子神社は極《きわめ》めて古い創建であるが、天長二年(八二六)のとき全国的に疫病《えきびょう》か流行《りゅうこう》した際《さい》、空海《くうかい》が一千部の薬師経《やくし》を読経《どきょう》し、一石《いっせき》に一字《いちじ》を書写《しょしゃ》して祈《いの》ったところ疫病がやみ「痾免《あめん》寺」の勅号《ちょくごう》と勅額《ちょくがく》を受けたとある。この痾免寺は当神社の神宮寺《じんぐうじ》として、今も印山寺《いんざんじ》と改称《かいしょう》しその法灯《ほうとう》が継《つ》がれている。
 阿倍野王子神社の祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオノ、ホンダワケノ命《みこと》、阿倍野王子そして男山八幡宮《おとこやまはちまんぐう》を合祠《ごうし》している。境内のくすのき三本が市指定保存樹《ししていほぞんじゅ》として往時《おうじ》の面影《おもかげ》を残している。
 阿倍野王子神社北側に阿倍晴明神社がある。祭神は平安中期の天文博士《てんもんはかせ》で阿倍|臣《おみ》の子孫。天慶《てんけい》七年(九四四)に当地で誕生し、陰陽道《おんようどう》にすぐれ天文博士、太膳太夫《だいぜんのだいぶ》、左京太夫《さきょうだゆう》、播磨守《はりまのかみ》を歴任《れきにん》寛弘《かんこう》二年(ー〇〇五)に没《ぼつ》した。
 境内に「産湯《うぶゆ》の井戸」があり、晴明の産湯《うぶゆ》を汲《く》んだところといわれている。また「恋しくば訪ね来てみよ和泉《いずみ》なる、信太《しのだ》の森のうらみ葛《くず》の葉」で有名な葛の葉|子別《こわかか》れの像もあり、都会の中にひとつ忘れられたような、こじんまりした静かな神社である。

塔心礎《とうしんそ》は出土の地へ

 往昔《おうせき》、四天王寺|庚申堂《こうしんどう》の巽方《たつみかた》に、大化の改新の際左大臣に任ぜられた阿倍内倉梯磨《あべのうちくらのはしまろ》建立《こんりゅう》の阿倍寺という広大な寺院があったという。
 この寺は阿倍寺|千軒《せんげん》といわれ極《きわめ》めて広大な地域を有《ゆう》していたらしいが、昭和十年松崎町二丁目の松長大明神の境内から古瓦《ふるかわら》(複弁八葉連華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦)、塔心礎が出土し、その塔心礎の大きさから、相当《そうとう》大きな堂塔伽藍《どうとうがらん》が存在《そんざい》したことが裏《うら》づけられ、白凰《はくおう》・天平《てんぴょう》時代(六四四―七九四)のものだろうと云われている。この塔心礎、現在はなぜか西成区の天下茶屋公園にあるが、貴重《きちょう》な大阪府指定の文化資料としても、本来《ほんらい》のしかるべきところへ移《うつ》すべきではないだろうか。

 今回も、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(002)

◎鉄砲町

 天文十二年(一五四三)三人のポルトガル人が暴風にあい、薩南諸島の一つ種子島に漂着した。彼等は二本のニ~三尺の鉄筒を持っていて、その用法と威力を領主に教えた。鉄砲が日本に入ってきた最初である。
紀伊根来寺の杉坊妙算、これを求めるため種子島に渡って帰ってきた。当時根来寺のふもとにいた堺生まれの鍛工芝辻清右衛門が、その製法を学び堺で製造した。

戦国の日本は鉄砲保有大国

 戦国大名にとって、馬と槍による従来の戦いが、鉄砲伝来で完全に塗り替えられることとなった。
芝辻らは商人でもあったので、鉄砲の製造と販売に力を注いだ。そのため鉄砲は全国的に一挙に普及し、たちまち日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。
織田信長は武田勝頼との長篠合戦で、三千挺の鉄砲を有効に使って勝利している。
 芝辻文書によれば、明暦三年(一六五七)諸国諸大名からの注文の合計は四千五百三十五挺で、これが最高であったという。もちろん堺以外にも製造していたので、当時全国での年間の鉄砲製造数は、相当なものであったと想像できる。

大坂の陣は堺製の鉄砲合戦

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に芝辻は豊臣方より五百挺、徳川方より千挺の注文を受けており、大坂の陣は堺の鉄砲の打ち合いであったことになる。
 冬の陣は徳川方が二十万人の大軍で大坂城の周りを取り囲んだが、その前に立ちはだかったのが、秀吉の怨念の固まりのごとき「惣構」とよばれる、大河なみの外堀であった。秀吉はわが子秀頼のために晩年、大坂城を名実共に難攻不落の要塞にしようと思い立ち、外堀を広げ延ばし、堀の底にはさまざまな仕掛けをして、完全なものに仕上げていた。惣構工事の結果大坂城の面積は一挙に四〜五倍となり、冬の陣の最中にも城内では商人はいつものように商売をし、野菜は自給自足ができたという。

冬の陣では徳川方も大苦戦

 当時の鉄砲は未だ七~八十メートル位しか弾は飛ばず、何千挺という数の徳川方の鉄砲もいくら射っても城内には達しない。手柄をあせって堀の中に入っていけば、底には妨害物が置かれており動けない。堀の中であがいていると、二階矢倉から狙い撃ちされる。徳川方の二十万の軍勢がひと月半の間、大坂城をびっしりと取り囲んだのはよかつたが、結局その間、一兵たりとも攻め入ることは出来なかった。
 季節は真冬、二十万人の食糧も底をついてくる。掠奪ばかりしていると、背後に敵をつくることになる。しかしこのままでは、徳川方から先に、凍死・餓死者を出さないとも限らない。すでに各隊とも逃亡兵が続出している。

家康「まさか…」と動揺?

 地下にトンネルを掘って本丸の下で爆発させる作戦も、山から人夫を呼び寄せやらせているが、これはあくまでも心理作戦で、二重三重の堀をくぐって行けるはずがない。
 徳川方の圧勝という予想で始まった戦いだけに、もたもたしていると情勢が一変レ)しまうこともありうる。これは現代の選挙戦でも同じことが云える。「矢張り家康は城攻めは下手」との声も聞こえてくるようで、家康はふるえが止まらない程動揺していた。
 そこで家康はさかんに和睦案を出して、豊臣方をゆさぶり出した。最終的には秀頼と淀殿はもとより、城内の浪人共の責任も一切問わない。条件は外堀の埋め立てのみという、本音をさらけだしたものとなった。

まぐれ弾が和睦案をのます

 この和睦案を豊臣方が受け入れることになるのは、それまで一貫して徹底抗戦を主張し、高齢の家康が死ぬまでの籠城を云っていた淀殿の心変わりであった。手の平を返すように淀殿が態度を変えた謎を解くカギは堺にあった。
 当時すでに鉄砲以上のものとして大筒がつくられていて、徳川方により大坂城のまわりにも数多く配備されていたが、約三センチ位の弾が飛び出すだけで、幕でも張っておけば、被害はあまりないという代物であった。
 そこで攻撃の最後の手段として徳川方は、かねてより堺の芝辻に命じてつくらせていた、砲身一丈、口径一尺三寸、一貫五百匆の砲弾を打ち出す大大筒と、これ以外にもイギリスやオランダから本物の大砲を技術者付きで十数門買い入れ、京橋口の片桐且元の陣地から打ちまくった。これらの弾丸も城内には達せず、ただ万雷のごとき音響だけははるか京都にまで届いたというから、城内ではさぞや鳴り響いていたことであろう。しかし、内戦に外国の力を借りた徳川方のやり方は、今も就任後ただちにアメリカ参りをする、日本の首相に引継がれているというのであろうか。
 ところが十二月十六日の朝、突然サッカーボール位の鉄の弾が、本丸内の淀殿の居間の櫓を打ち破って突入、侍女二人を死亡させてしまった。当時の弾丸は爆発するまでにはまだなっておらず、ただ打撃を与えるだけだが、直撃を受ければ被害は大きい。
 このまぐれ当たりの一発で淀殿はびっくり仰天、一度に和睦論者に転向した。
 その後徳川方は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで一気に埋めてしまい、裸になった大坂城はあわれー年後の夏の陣では、たったの三日間で落城、炎上してしまうのである。
 日本の歴史を変えた大砲をつくった堺には今、鉄砲町という町名は残っているが、現地には鉄砲についての見るべき資料等を展示した施設もなく、本来はその役割を果たさなければならない高須神社が、早々と商売繁盛の稲荷神社に変身するなど、何か訳があるのか知りたいところである。

(二〇〇四.五)

今昔西成百景(004)

◎千本通りの桜

 千本通りには桜がよく似合う。
 千本と桜と書けば「吉野の千本桜」を連想してしまうが、千本という地名の元となった木津川の堤に植っていた木は、桜でなく松であった。
 千本通りの桜は、主に小学校と幼稚園とお寺である。
 二十三才で党の常任となった当初は、「赤旗」新聞を自転車に積んで、主な党員宅へまとめて下ろし、そこから配達してもらっていた。部数が少なかったので、東京で印刷し旧国鉄で送られてくるのを、毎朝大阪駅まで取りに行っていた。
 十三間堀川に沿ってあった植野ガラス店から、千本通りをアカシ薬局へ向かうのは、いつも昼前の時間になる。
 桜の花びらが舞っている中を、歩いている母の姿を見たことがあった。母はそのころ、生命保険の外交員をしており、千本通り一円を担当していた。
 三十年も前のことだが、当時千本通りは商店も多く、区内でも屈指の商店街であった。
 今、戦後最大の不況といわれる中で、みんな必死に店を守って頑張っている。消費税の税率大幅アップなど、正に「殿ご乱心」である。細川首相は、肩寄せ合って春を待つ庶民の心など、しょせんわからない「天上の人」なのだろう。母は、この一月に鬼籍の人となった。小春日和のような日の昼前、見送ったのは千本通りのお寺であった。
(ー九九四・三)

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(003)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(三)


阿部野神社《あべの じんじゃ》と大名塚《だいみょうづか》 (北畠三-七・王子町三-八)

 阿部野神社の雰囲気《ふんいき》は皇国史観《こうこくしかん》まるだしで、いつ来ても抵抗を感じる。参道《さんどう》両脇の石柱に「大日本《だいにほん》は神国《しんこく》なり」と刻《きざ》まれているが、戦後《せんご》の昭和四十八年の建造《けんぞう》で、時代|錯誤《さくご》もはなはだしい。
 正門《せいもん》の鳥居《とりい》近くに北畠《きたばたけ》顕家の等身大《とうしんだい》の銅像《どうぞう》が立っている。私は天下茶屋史跡めぐりのガイドをするときには、いつもこの前で次のように説明をする。

貴族《きぞく》の犠牲《ぎせい》となった顕家《あきいえ》

 「この神社の祭神《さいじん》は南朝《なんちょう》の重臣北畠|親房《ちかふさ》と顕家の父子です。二十ーオで戦死した顕家は、十六オで陸奥守《むつのかみ》兼|鎮守府《ちんじゅふ》大将軍に任ぜられるほどの秀才で、奥州《おうしゅう》を平定《へいてい》し、足利尊氏《あしかがたかうじ》が叛《そむ》いたのではるばる奥州から出動してこれを追撃《ついげき》し撃退《げきたい》。あと再び東下《とうか》するも、留守の間に尊氏が勢いを盛り返して反撃《はんげき》、楠木正成《くすのきまさしげ》が湊《みなと》川で戦死し、吉野に逃げた後暇醐《ごだいご》天皇が再度顕家を呼び返した。顕家は不利な戦いを各地でやりながら河内《かわち》へ到着《とうちゃく》したが、ついに堺石津《さかいいしづ》で戦死しました。天皇《てんのう》中心の政治を復活《ふっかつ》させて、再び甘《あま》い汁《しる》を吸《す》おうとした貴族たちの犠牲になったとしかいいようのない、二十一年の短い人生でした」

顕家も正成も諌言《かんげん》して戦死

 「しかしわずかに救《すく》いとしていえるのは、顕家が戦死する一週間前に後醍醐天皇に、戦争で疲弊《ひへい》した民の租税《そぜい》を減免《げんめん》すること。誤《あやま》った中央集権《ちゅうおうしゅうけん》を改めること。みだりに行幸《ぎょうこう》や宴会《えんかい》をつつしみ、愚劣《ぐれつ》な輩《やから》に政道《せいどう》へのさしでぐちをさせないこと、などの堂々とした諌言を行っていることです。これは顕家が決して天皇や父親のロボツトではなかったという立派な証《あかし》ではないでしょうか」
 「ちなみに楠木正成も戦死直前に、朝廷《ちょうてい》に厳しい内容の諌言の手紙を送っています。これらは『建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》』や『王政|復古《ふっこ》』の実態《じったい》が阿部野神社の境内《けいだい》に掲示《けいじ》しているような立派なものではなく、逆にいかにひどいものであったかを歴史的に証言するものではないでしょうか」と。

大名塚は神社とは別の評価《ひょうか》

 阿倍野区北畠公園内に大名塚という塚があり、北畠顕家の墓《はか》なりと伝えられ、江戸時代の学者並川|誠所《せいしょ》の提唱《ていしょう》で享保《きょうほ》十八年(一七二四)に墓碑《びほ》が建てられた。
 明治になり半ば埋没《まいぼつ》しているものを再建し、昭和十五年に大阪市の史跡公園となり現在に至っている。しかし顕家が戦
死したのは堺の南、石津川《いしづがわ》という説が有力であり、大名塚が果たして本当に顕家の墓であったのかは今も疑問である。
 北畠公園内の案内板をみておどろいたことは、顕家の諫言問題を高く評価し詳《くわ》しく説明しているという点であった。私は文献《ぶんけん》で知り独自に述べていたのだが、ここでは地元|顕彰《けんしょう》会の人々が、平成三年に新たに案内板をつくり顕家を再評価してしらせている。
 阿部野神社では北畠親房らの「神皇正統記《じんのうしょうとうき》」の立場が激越《げきれつ》な調子で押しつけられてくるが、阿部野神社創建のきっかけとなった大名塚では違っている。

つくられた「忠臣」や哀れ

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが、鎌倉時代よりも重い年貢《ねんぐ》、課役《かえき》、税金《ぜいきん》で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児《ちょうじ》たちは、富貴《ふうき》を誇《ほこ》り、贅沢《ぜいたく》な暮《く》らしをし、酒宴《しゅえん》、蹴鞠《けまり》、歌舞遊山《かぶゆうざん》にあけくれていることを、具体的《ぐたいてき》に厳しく諌言した顕家が支持《しじ》されている。
 政権の腐敗《ふはい》を知り、激《はげ》しくそれを批判しながらも、結局《けっきょく》は人心の離れた朝廷を保持《ほじ》するために、負け戦と知りつつはるばる奥州から再度出陣せざるを得なかった「忠臣」顕家の哀れさが、後世《こうせい》の人々の心を打つのだろうか。
 楠木正成も正行《まさつら》の場合も同様である。

 今回は、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(001)

【はじめに】「今昔堺物語」「南大阪歴史往来」は、今まで刊行された二冊の冊子-「西成百景」「木津川物語」-には収録されなかった部分で、おもに日本共産党西成区委員会(当時)発行の「がもう健府政ニュースに連載されました。その記事を適時掲載してゆきます。

◎高須神社

 先日、 私は大阪市内から堺市内にかけて走っている阪堺電車(チンチン電車)の大和川から南へ堺市内に入って二つ目の、高須神社駅に降り立っていた。
「駅」といっても、駅舎も屋根とベンチがあるだけの、 囲いもなにもないもちろん駅員もいない、昔の市電の停留所とあまり変わらないところだが、最近はこれらもみな「駅」と呼んでいるようだ。
 時は平日のお昼前であったが、降りたのは私一人で乗る人もなく、たった一両の路面電車は、街の裏通りの感じの専用軌道部分を、ガタゴトと自己主張をしながら遠ざかって行った。

五十年ぶりに通学路を訪問

 実は私は、このもの静かな場所に立つのは五十年ぶりのことになる。私は南海電車高野線浅香山駅前にある、堺市立商業高等学校に通学していた当時、登校は天下茶屋駅から高野線の各停に乗り、下校は友達の関係でよく阪堺線を利用していた。学校から西へ直線コースで約十五分位か、化学工場が垂れ流す汚水の異臭が漂うドブ川を渡ってしばらく行くと、高須神社駅に.到着する。
 このドブ川を埋め立てて一九七〇年開催の大阪万博に向けて、高速道路が突貫工事で建設され今日に至っているわけだが、なにを隠そうこの川こそ「自治都市堺」の平和と安住を守るために、室町時代につくられた由緒ある環濠そのものでように感じられるのだ。
 貴重な史跡をじやまもの扱いにして、どさくさまぎれに破壊して開発してしまうという行政のやり方は、私の地元で十三間堀川を高速道路に変えさせたのと同じだ。

危険な情勢は変わってない

 さて「五十年ぶり』と表現したが、実は私にとってごの五十年は、まだ昨日のように感じられるのだ。
 今も「坂の上の雲」を追っている私が変なのか、それとも最近同窓会がひんぱんにもたれ、永年会わなかった友人達の顔を見る機会か多くなったからか。いやそうではなく、十代の当時「再軍備反対」や「原水爆禁止」の運動を行いながら「もう五十年もすればこんなことは昔話になるだろう」と人類の英知と進歩を確信していたのに、最近自衛隊のイラク派兵、憲法改悪、徴兵制復活の動きが強まるなか、危険な情勢は昔とあまり変わっていないと痛感していたからではないか。「歴史は繰り返す」は許してはならない。

昔の看板が残る不思議な街

 その日、駅前でまず最初に私の目を引いたのは、目の前にぽつんと一軒だけある商店のガラス戸である。その店は元は埋髮店であったようだが、永年営業してないどいうことは一目でわかる。しかし、私が目を皿のようにして見つめなおしたのは、ガラス戸の内側からぶら下げられた数枚の大きなブリキの看板だ。右側に浪花千恵子左側に大村昆がそれぞれオロナミンCドリンクと軟膏の宣伝をしている顏写真。真中には赤い分厚いふちのメガネをかけた少年が「赤影とゆけ」とさけんでいる。いずれも四十年位前のものであることにまちがいない。通行人をおどかすためにマニアがわざとやっている様でもなく、四十年間そのままというのも信じられない。

タイムスリップで堺めぐり

 あぜんとして視線を他に移すと、どうもこの辺は空襲を免れたようで、家は密集しているが、ほとんどが古い二階建で、全体に落ち着いた雰囲気があり歴史を感じさせる。まるでタイムスリップしたような奇妙なわくわくする気持ちで、私の「今昔堺史跡めぐり」は始まった。

高須神社は鉄砲鍛冶が創建

 さて、髙須神社であるが元々この神社は、「鉄砲鍛冶」の繁栄を祈願して、鉄砲鍛冶年寄の芝辻理右術門が創建した神社。理右術門は慶長十四年(一六〇九)徳川家康の命令を受けて銃身ー丈(約三メートル)ロ径ー尺三寸(約三十九センチ)砲弾一貫五百久(五・六キログラム)の大筒(大砲)を製造。これはわが国で造られだ最初の大筒である。さらに大阪冬の陣では五百丁の鉄砲を直ちに製造納入した。その功績によりこの地を拝領した」と、堺により神社外の東側に掲示されているが、正面の鳥居から入れば意識的に探さないかぎり目に付かない。
 徳川幕府と堺市の特別なつながりを示す重要な神社であり、境内にかっての大筒を展示しておいてもよい位なのに、なぜか今は鉄砲とのかかわりを避けているように、私には思えた。
 北側の拝殿では、現世利益の神々が八社も軒をつらねておられた。
(2004.4 府政ニュース No.202 から)

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今昔西成百景(003)

◎住吉街道

 「西成区史」によれば、西成区は天王寺区、阿倍野区などの高台に展開された 集落とは異なり上町台地西側の低地帯に属し、中世時代まではおおむね海浜とみ られた地であった。すなわち北部の旧村今宮の古名といわれる津江の庄にしても、南部の旧村玉出の別名古妻浦、さらには隣村粉浜などの村名をみても、ある いは最近まで町名に残っていた入船町・ 今船町・曳船町・甲岸町・海道町などか らみても、昔海浜であったことが容易にうかがえる、となっている。

わが町も昔は海浜

 昔海中または、よくあしのしげる浅州 であったものが、玉出については、仁治年中(―二四〇~―二四三)里長某がこ の地を開さくして住吉神社の神領とした にはじまるとされている。万葉集などで 詠まれた名児之浜、奈呉の浦ないし敷津の浦などは西成区一帯の海とみられる。

住吉之名児之浜辺に馬立てて玉拾いしく常忘らえず

もしほ草敷津の浦に船とめてしはしは 聞かん磯の松風

 こうした海浜に点々とした漁農村状態 であったのが、足利時代(一三三八)よ り陸地化が進み、大坂に入る軍事上要衡 の地として今宮・木津.勝間等の名が盛 んに史書に出るようになった。
 足利時代末期に上町丘陵を走る阿倍野街道に代わって、新たに大坂より堺に至る往来路として低地を走る住吉街道(紀州街道)の出現を見たことは、西成区内の発展に多大の影響を与えた。この道は 堺筋を南へ日本橋を渡り長町をすぎ、行き当りを西ヘ一丁行き、今宮札の辻(現在の恵比寿町交差点の西、一番目辻)から南へ今宮新家、天下茶屋、住吉新家(現在の西成警察署、北天下茶屋市場、塚 西交差点辺り)、安立を経て堺•紀州にるものである。豊臣秀吉も住吉神社ある いは堺政所往還の途中、利休その他の臣下を従え天満宮紹鴎社(現在の岸里東二 丁目)付近の茶屋に休憩し、このために 太閣殿下が憩われたとの故事から殿下茶屋、さらに天下茶屋の名が出たといわれる。
 摂津名所図会には「その頃は街道沿い は未だ海岸線に近く、白砂青松の風景を愛でながら住吉の詣人は道草に時をうつ し、堺の魚荷は徒歩はだしにて宙をかけり、浪華より紀泉両国の新通路として旅人の往来絶ゆることなし」と伝えられている。
 恐らく紀州の殿様徳川吉宗も、この街 道に馬を走らせ胸踊らせて江戸城に入り、八代将軍に成ったことであろう。

住吉街道ゆかりの人

 私にとって住吉街道と言えば、故西口喜代松氏につながる思い出が数多い。天下茶屋一丁目一番地(旧今船町)で、戦後いち早く日本共産党の看板を掲げて活動を始めた氏の自宅は住吉街道に面していた。十年位前まで、三十年以上も共産党の事務所や赤旗新聞の販売所として、表の間を使わせて貰っていたが、地元だけでなく車からもよく見えるので、知る人も多かった。

 西口氏は一九七七年六月、七〇オで亡くなるまで、選挙の時は中心になって今宮小学校の講堂を満席にする位の力があ り、誠実・率直・ユーモアに富んだ人柄は党派を越えて支持されていた。元大阪 市会議員四方棄五郎氏の西口氏追悼文の一節を次に紹介する。

 「西口氏のモーターパイクで赤旗新聞を配る、あの颯爽とした姿はもう見られなくなりました。かつて重税と差し押え の嵐が吹き荒れた時、自殺した業者の抗議の葬儀を西成税務署前で行い、責任者 として逮捕されたこともありました。戦後三〇年間、西口氏は西成のこの町で 人々のよき相談相手とし、また環境を守るための住民運動など、様々な問題に取り組まれ、その足跡は極めて大きなもの があります。遺志を受け継ぎ前進を誓います。」

(一九九五・九)

追記】
「四方棄五郎さんを偲んで」でのがもう健さんの追悼文です。

「真実一路」の由来をさぐる

 四方さんに座右の銘をきけば、必ず「真実一路」という答えが返ってきた。しかし、 その選んだ訳はききそびれてしまった。
 一九三六年刊行の山本有三の小説に「真実一路」というのがあるが、 少年義夫をめぐって作中の各人物がそれぞれ真実に生きていくという内容で、 男女の愛憎劇が中心であり、 当時十四才の四方少年にはどうであったろうか。
 一九三セ年より朝日新聞に連載を始めた山本有三の小説「路傍の石」は、成績優秀なのに貧しさゆえに中学へ進学できない吾一少年が主人公で、全国の少年少女の心をつかんだと云われている。当時、叔父さんの元で緘灸師の修業に励んでいた四方さんもきっと愛読していたにちがいない。
 しかし、「路傍の石」は吾一少年が奉公先をとびだし上京後、資本主義・出世主義・社会主義にさまざまな登場人物を通じてふれていき、労働者の団結事件にぶっかった時点でついに作者が官憲の弾圧を受け、話の筋を変えるくらいならと、山本有三は「ペンを折る」の声明を出して未完となったのである。この年は大政翼賛会が発足し、「紀元二千六百年祭」が全国で大々的にやられた。
 どうやら「真実一路」「路傍の石」での二人の少年の姿が重なって、弾圧後の吾一少年の生き方を四方さん自身になぞらえて座右の銘が決まったのではないか。「勝手な推理をするな」と四方さんの声がきこえてきそうだが…。

真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり、思い出す
白秋「巡礼」

「四方棄五郎さん追悼文集」(1998.8.30発行)から

今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

◎天下茶屋|跡《あと》と紹鴎《じょうおう》の森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下《でんか》茶屋が天下茶屋になったという 、至極《しごく》おめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発《てきはつ》し、家・納屋《なや》の敷地にまで年貢《ねんぐ》をかけたという。米二俵を納められなかった農民《のうみん》夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人|宣教師《せんきょうし》が書き残している。
 その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡|勝間《かつま》村|新家《しんけ》の一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺ではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興《ちゃどうちゅうこう》の祖《そ》武野《たけの》紹鴎

 この地に天文《てんぶん》年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目《がんもく》に「和敬静寂《わけいせいじゃく》」の理念《りねん》を説いた反面、雪舟《せっしゅう》や一休《いっきゅう》の筆墨《ひつぼく》はじめ高麗茶碗《こうらいちゃわん》などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休《せんりきゅう》など茶道史《さどうし》の傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業《いぎょう》をなしとげていた。そのため今日に至《いた》るまで、紹鴎の勧請《かんじょう》した天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶《せこうちゃ》、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理《すいり》するのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋の称《しょう》は、あるひは秀吉の堺|政所《まんどころ》へ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭《さてい》より出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運《ひうん》の人武野|宗瓦《そうが》

 武野家は紹鴎が五十四オで没《ぼつ》してからは数奇《すうき》な運命《うんめい》をたどる。長男の武野宗瓦は茶道《さどう》の才能も父|優《まさ》りといわれ気骨と品位《ひんい》にも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長《おだのぶなが》に父の遺品《いひん》「紹鴎|茄子《なす》」と「松島茶|壷《つぼ》」の名器を取り上げられたうえに追放処分《ついほうしょぶん》となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家《そうけ》を継いだものの、天正《てんしょう》十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前《びぜん》水こぼし」「茄子|盆《ぼん》」など父の秘蔵《ひぞう》物約七十点すべてを没収《ぼっしゅう》され再び追放となる。宗瓦は不遇《ふぐう》のままその後|病没《びょうぼつ》するが、その場所も定《さだ》かでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康《いえやす》のもとに妻子《さいし》と共に身を寄せ北野大茶会《きたのだいちゃかい》に欠席し、秀吉に大恥《おおはじ》をかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器《ちゃき》ーつで城《しろ》一つに匹敵《ひってき》するといわれた程のものであり、現在《げんざい》ならいずれも国宝級こくほうきゅう佳の逸品《いっぴん》であったろう。
 地元の尊敬《そんけい》を受けていた武野家を白昼強盗《はくちゅうごうとう》のようにして抹殺してしまった秀吉に、世間の厳《きび》しい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作《いんぺいこうさく》

 徳川《とくがわ》家康に絶《た》えず厳重《げんじゅう》な警戒を払《はらい》いながら、諸大名には褒美《ほうび》をおくりやっと天下人《てんかびと》になった秀吉にとっては、大坂《おおさか》での悪評《あくひょう》のどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛《めきしょうべい》にたいして、井戸には「恵水《けいすい》」の名と毎年米三十俵を与えるとのお達《たつ》しが華々《はなばな》しくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋|発祥《はっしょう》劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識《じょうしき》ではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

 突然《とつぜん》太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑《ふくざつ》であったろう。恩人武野家のことを思えば胸《むね》ははりさけんばかりである。
しかしそれは絶対に表《おもて》には出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志《いし》を残しておきたい……。
 南北朝《なんぼくちょう》の「忠臣《ちゅうしん》」楠木|正成《まさしげ》の子正行《まさゆき》の十代目、正長《まさなが》の三男|昌立《まさたて》としての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居《とりい》から入るとすぐ右手に、子供の背丈位《せたけぐらい》の表面《ひょうめん》がぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍《ろぼう》の石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感《ばんかん》の思いをこめて、四代目小兵衛|昌包《まさほう》に「紹鴎の杜《もり》」と深々と刻ませた歴史の証人《しょうにん》なのではないだろうか。石に手を置けば頭上《ずじょう》高くで、樹齢《じゅれい》六百年の楠《くすのき》が風でざわめいていた。

【注記】
ルビ(ふりがな)の表記は、青空文庫の基準に準じています。すなわち、ルビ部分は《》で囲み、二字以上の漢字などには、区切りとして、「|」を用いています。
本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

急告-2月13日(火)と14日(水)のデイケアを中止します。ー再開しました。

コロナ感染症の拡大防止のため、2月13日(火)と14日(水)の西成民主診療所デイケアを中止します。大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
配色サービスなどの代替えサービスは、担当のケアマネージャにご相談いただきたく存じます。また直接、西成民主診療所に、電話をいただいても結構です。

2月15日(木)から、デイケアは再開しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。