南大阪歴史往来(002)

◎大和川の川違《たが》え(その二)

 川違え賛成派は河内・讃良・茨田・若江・渋川の農民たち。反対派は舟橋・太田・若林・瓜破・木本・淺香山・住道・植木等新川予定筋の農民と大和川、石川筋で舟運にたずさわる二百十一隻の船仲間とその問屋筋である。

万年代官が甚兵衛と現地へ

 後世「人情代官」と呼ばれた万年長十郎は、うずたかく積まれた請願書の中から幾通もの川違え関係を発見し、さっそく甚兵衛らを呼び出してくわしく聞いた。その後代官は甚兵衛と共に大和川筋を新川予定地も含めて再三視察した。反対派は田地が川底になる地域の総代庄屋西村市郎右衛門をせきたてて、奉行所への強い交渉を求めた。
 元禄十四年(一七〇一)二月、万年長十郎は甚兵衛を伴なって江戸表へ旅立った。これまでも再三、老中まで甚兵衛らの請願を取次ぎ、自分からも意見書を送り川違え促進を努めてきたが、今度は老中と直談判してでも決定させようという決心からだった。
 二月末江戸に着いたが、勅使下向で幕府は忙しくその上三月には赤穂の殿様の殿中での刃傷事件で、川違えどころではなくなっていた。

幕府川違え決定反対派敗北

 甚兵衛は江戸で万年長十郎からの連絡を待って二年目に入った。その間に大和川の堤防決壊、河内またもや大洪水の報が届いた。これでは年貢米も取れない。ここにきて幕府はやっと大和川の川違えを決定した。世間では赤穂浪士の吉良邸討入り、その後の四十七人の全員切腹などがさわがれていた。
 元禄十五年十一月、反対派の総代庄屋西村市郎右衛門は奉行所に呼ばれ、かねてより提出していた川違え反対の請願書が全て返された。

姫路藩に工事の金も人も

 元禄十六年十月二十八日、大和川川違え工事の人事が現地に正式に伝えられた。大目付大隅守忠香、小姓組伏見主水為信、大阪奉行所代官万年長十郎、以上三名を普請奉行に、姫路藩主本多中務大輔忠国を国役お手伝いとしてであった。
国役とは、江戸時代に幕府が諸大名の財政力を弱化させると共に忠誠心を示させ、あわよくば取りつぶしの口実を見付ける一種の謀略で、そのうち最も重要なものが河川の治水工事で、国役普請とよばれた。
 大和川川違え工事費の総額七万一千五百三両の内、幕府が出すのは三万七千五百三両で、残りの三万四千両を姫路藩が支出するのだが、実際はもっと多額の金が必要であった。幕府は工事完了後に、新田の権利金としてその何倍もの金が入ってくるし、その上今後の年貢米の増収を考えると、全く笑いが止まらない。しかも諸大名の力を弱めることができる。万年長十郎らもその利点を大老らに十分て説得したことであろう。

藩主急逝し藩の危機を救う

 一方、姫路藩にしてみればまさに寝耳に水で、何の関係もない他国の河川修理に藩命をかけさせられる。大変な貧乏くじを引いたものである。
 藩主忠国は国家老と共に先ず大阪の豪商で後に旧大和川跡地の新田で最大の地主になり大儲けする鴻池家に多額の借金をして工事を始めた。藩主政武は名も忠国と改めて、この重責を全うし藩の危機を救わんと陣頭指揮をとるも、姫路藩に割り当てられたところは浅香山の丘陵地で、堅い岩盤を打ち砕いて進む最大の難所、後世の人のいわく「浅香の千両曲がり」であったのだ。有効な道具や機械のないままに工事が遅れてくる。気疲れからか藩主忠国が病に倒れ三月下旬に急逝してしまうのである。二月十五日からエ事が始まったばかりであるのに、余程の無理難題を幕府から押しつけられていたのであろう。しかし、この藩主の突然の死によって、結果として姫路藩は救われたことになるわけで、自刃説も出たところである。
 幕府では改めて国役工事の大名を追加した。岸和田藩主岡部美濃守宣就・三田藩主九鬼長門守隆雄・明石藩主松平佐平衛直常・姫路藩主本多忠孝。計七十九丁(約九㌔)の再分担を藩主の死亡とはいえ幕府がよくやってくれたことだ。当時の権力者柳沢吉保に姫路藩から大金が運ばれたのではないかと、様々な噂がながれたという。
 新大和川は淺香山丘陵などの難所以外は掘らずに堤防を積み上げていくやり方をとっので、工事は工期八か月という早さで完了した。宝永元年(一七〇四)十月十三日式典後新大和川に通水した。

明暗分けた義民

 数年たったある旱魃の年のこと。今までの川が新大和川で切断され一滴の水も流れてこない地域が出てきた。総代庄屋西村市郎右衛門らは、毎日のように代官所や奉行所へ新大和川の堤防より水を引いてくれるように嘆願したが許してもらえなかった。ついに西村市郎衛門は近郷二十数ヵ所所の庄屋と相談の上、自分ー人が責任を負って、新大和川に水門を掘って水を引き入れた。稲田は正気をとりもどしたが、市郎右衛門は捕らえられ大坂城内で処刑され家族は離散した。
 万年長十郎は異例の抜擢を受け堤奉行に就任し、甚兵衛は川違えの功績により名字帯刀を許され、特別に新田づくりの権利を与えられ九十ニオで天寿を全うした。

付記】
 今日3月20日には、がもう健さんへのインタビューの準備にために、話をうかがいました。最近の「郷土史」では、官製の「市史・区史」を始めとして、本当の史実がどんどん削られゆく現状に憤りを感じること、例えば明治天皇が二度も「天下茶屋公園」に「行幸」に来た事実など、日露の戦いに「国威高揚」のためではなく、その頃近くで「隠居生活」を送っていた、自分の乳母に遇うためだったのではなど、興味深い話を聞かせていただきました。「郷土史」「地方史」は古臭い「逸話」に終わることなく、特に若い人が、明日への希望を培う寄《よ》す処《が》にしてほしいと熱っぽく語られました。最後に、まだまだ書きたいところが山程あるそうで、ご一緒に訪《たず》ねることを約して、プレインタビューを締めくくりました。インタビュー本番では、思ってもみないお話が飛び出すかもしれません。どうぞ、お楽しみにしてください。


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南大阪歴史往来(001)

◎大和川の川|違《たが》え(その一)


 大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
 川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
 子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。

青春の川は清流だった

 高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
 体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
 そして当時の大和川はけっこう清流であった。
 「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
 時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
 その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。

「大運河」をめぐる争い

そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
 大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。

昔の大和川は「暴れ川」

 この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
 当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
 そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。

甚兵衛が幕府に対策を要求

 永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
 旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
 甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
 当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
 川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。

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