◎大和川の川|違《たが》え(その一)
大和川で小魚を釣っては空缶に入れて持ち帰り、母にコンロで焼いてもらったり、土手でトンボとりをしていて、気が付けば夕日が川口に沈みつつあり、あわてて友達と別れて帰宅したことなどがよくあった。
川の中ノ島のようなところで砂遊びに夢中になっていると、いつのまにか潮が満ちてきて、ずぶぬれになって岸にはい上がってきたこともあった。
子供の頃の大和川の思い出は、なぜか少しこっけいでそしてちよつぴり淋しかった。
青春の川は清流だった
高校は大和川を南へ渡ってすぐの、南海電鉄高野線浅香山駅の前にあり、毎日車窓から川の流れと、砂地や堤を見ていた。
体育祭の応援の練習にクラス全員で川原にやってきて授業に遅れておこられたり、親友と人生や文学について議論するなど、私にとってその頃の大和川は矢張り「青春の川」、であったような気がする。
そして当時の大和川はけっこう清流であった。
「浅香の千両曲り」という呼び方は後から知るのだが、大きな川にしてはかなりの急カーブで、私達の学校の北側に入りこんで来ていた。裸足になって川に入れば底はこまかい砂で心地よく、膝の辺りをさざ波がしげきし、太陽の光が川面に反射してまぶしかった。両岸には桜の樹が適当な間隔で立ち並び、四月には満開で祝ってくれた。土手には野の草花が咲き乱れ、しかし蓬(よもぎ)の葉を摘み取る人もいない。川の水はほとんど無臭である。堤防の分も入れると幅は約三百㍍もあり長さは見渡せるまで、見上げれば青空ははるか彼方。川の中に立てばこれらの風景がすべて一人で独占できた。
時たま小鳥のさえずりと鉄橋を渡る電車のひびき。それも瞬間のもの。私はこんななんでもない大和川が大好きだった。
その大和川がその後三十年たって、全国一汚れた川として一躍有名になっていようとは、「諸行無常」としか言いようのない、なんともやりきれない気持ちになる。
「大運河」をめぐる争い
そしてこの大和川にかって「元禄の川違(たが)え」という一大公共事業をめぐって五十年間に渉る住民間の激しい争いと、権力者達の策謀が逆巻く濁流があったことを、今となっては知る人も少ないのではないか。
大和川は奈良県は初瀬川上流の笠置山地のつげ高原を源とし、奈良盆地の水を集めて大阪府と奈良県の間にそびえる、生駒山地と金剛山地の境目にある亀ノ瀬を通って、大阪平野に流れだし、南からの支流を合わせて上町台地を横切り、西に流れて大阪湾に達する一級河川である。
昔の大和川は「暴れ川」
この川は今でこそ大阪府下では柏原市・藤井寺市・堺市・大阪市と流れているが、実は元禄十七年(一七〇五)までは、現在の八尾市・東大阪市・大東市を横切り、大阪城の北で淀川に合流していた。
当時の大和川は流れがゆるやかで曲がりくねっているために、川底に砂がたまりやすく、洪水を繰り返す大変な天井川であり、暴れ川でもあった。
そのために今から千二百年位前、地方長官であった和気清曆呂が大和川の水の一部を上町台地を割って海へ流す大工事を行なったが成功せず、「河掘口」「堀越」という地名だけを今に残している。
甚兵衛が幕府に対策を要求
永年の懸案であった大和川の付け替えによる抜本的な治水対策を行なえと、幕府に対して要求して立ち上がった人物が、河内郡今米村(今の東大阪市今米)の庄屋をしていた甚兵衛である。
旧大和川の川筋一帯は元々低湿地で水はけが悪く、大雨の降るたびに洪水の被害を受けていた。幕府は堤防を高くするだけで、ついには川底が周囲の田地より三㍍もたかくなってしまっていた。
甚兵衛は二十オ前に父が亡くなってからその遣志を受け継ぎ、川違えの具体的な調査を行い、これによって多くの新田が生まれ、ひいては幕府も大増収になることなども提案し、江戸幕府や大阪町奉行所に五十年近く願い続けた。地元でも促進運動をした。
当然のこととして、新川の予定地になる村や字や田地が潰されるところや、旧大和川で生活していた多くの船頭や漁師達は猛反対をした。
川違え賛成派,反対派と親子二代にわたるたたかいに終止符を打ったのは、貞享四年(一六八七)に大阪町奉行所代官に万年長十郎が任命されたことによる。
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