今昔西成百景(010)

◎南海天下茶屋工場跡地

跡地は緑地公園と震災時の避難場所に

 明治十八年十二月、難波〜大和川北岸の両駅間に開通した南海本線は、わが国最初の私鉄であった。南海鉄道の前身阪堺鉄道は当初大阪堺鉄道会社の名のもとに、藤田伝三郎ほか十八名の有志が発起人となり、大阪南区難波新地を起点とし天下茶屋・住吉を経て堺に至る鉄道敷設を計画し当局に願出、十七年六月その許可を得た。同社は資本金二十五万円で、間もなく社名を阪堺鉄道会社と改め、十八年二月より藤田組の手により起工、同年十二月まず難波・大和川北岸が竣工した。そして十二月二七日に盛大に開業式を挙行し、翌日から営業を開始した。
 以後つぎつぎと路線が延長され、社名も紀摂鉄道、南陽鉄道から南海鉄道となり三十六年三月、紀ノ川橋梁落成を最後として待望の難波〜和歌山市間の全通をみるに至った。当時一般に鉄道電化の声が高まり、南海も三八年六月出力五〇〇キロの火力発電所を新設し、難波〜浜寺間天王寺支線の電化を完成、従来の蒸気鉄道を電車併用に改めた。同時に天下茶駅に電車車庫を設置、逐次電化の区域を広め、四四年十一月ニー日には和歌山市駅までの全電化を完成した。
 また蒸気鉄道時代難波から天下茶屋、住吉と駅数も少なかったが、漸次今宮戎、萩之茶屋、岸ノ里、玉出、粉浜などが新設された。

天下茶屋駅は元来拠点駅

 天下茶屋車庫については、当初の車庫であった難波仮車庫および難波機関庫が焼失したので、三四年五月に天下茶屋西側に天下茶屋客車庫(建坪四五〇坪)の設置をみた。その後三六年六月難波工場を廃止し、天下茶屋工場を開設した。昭和十一年九月、天下茶屋での車庫業務は住之江区に移転され、それ以来工場業務のみとなった。その後名称は車両部工場課・工務部などと改められたが、昭和四十一年六月現在では従業員約四〇〇名、在籍車両六九三を有し、車両の検査と修理を行なっている。(敷地三万七・七九二平方メ—トル)(以上は西成区史より)
 「尚玉出駅設置については、地元勝間村から熱心な希望があり、明治三九年駅舎設置の際には駅敷地八四〇坪が村から南海に寄付されている。また岸ノ里駅についても同村北部の発展上必要であるとし、付近地主が六〇〇〇余円を会社に寄付している」(西成区史)
 今は玉出駅も岸ノ里駅も駅舎ごと消え去り、高架上の新駅が「岸里玉出駅」という名前で横たわっている。

跡地利用は住民本位で

 南海天下茶屋工場跡地が、平成八年三月頃には約四へクタ—ル(甲子園球場位)の更地となって出現するが、跡地利用はあくまでも地元本位でやられるべきで、絶対に南海の営利本位にさせてはならない。その根拠となるものは、今日の南海があるのに、西成区民の貢献と公共の支援が決して少なくないということである。例えば、南海の高架工事の費用は、その九三パ—セントまでが税金でまかなわれ、南海が出しているのは七パ—セントにすぎない。
二、昭和二十年六月という敗戦ニヶ月前に、南海天下茶屋工場隣接の多数の民家に工場を空襲から守るためという口実で、国家権力による家屋の強制撤去(建物疎開)が行われ東皿池町が戦車によつて取りこわされてしまった。
三、先にかいた、「玉出駅」、「岸ノ里駅」設置の経過である。
 西成区にとっては、区民のいこいと安全な街づくりの最後のチャンスでもある。「南海天下茶屋工場跡地は、花見の出来る緑地公園と震災時の避難場所に」という公約実現のためにもがんばろう。
(ー九九五・六)

がもう健の郷土史エッセー集(特別編)

◎3月のある日、蒲生健さんへ特別インタビューをしました。

-西成医療生活協同組合時代と大阪きづがわ医療福祉生活協同組合の理事長を歴任されてきた蒲生健さん。これまで地域の歴史を綴っている郷土史は、地域の歴史や過去のできごとに深く触れており、学びや発見などが多く得られる記事になっている。読者も多く、今回インタビューを行う執筆者もその一人である。郷土史の誕生秘話や蒲生健という人物に迫る-

―なぜ郷土史を書こうと思ったのですか?
 自治体など権力側が編纂した地方史には矛盾が見受けられ、歪曲、削除された部分がある。戦争、災害、貧困などの負の面も含めて、庶民の視点での地方史編纂がしたかった。歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つ。大阪市は他の自治体に比べて特に地方史、郷土史が軽視されているように思えて、現状を変えたいと考えている。

―いつから郷土史を書き始めたのですか?
 府会議員時代に、府政ニュースを発行していた。
 そこに雑談を書くような形で始めた記事が今の郷土史になる。当時、連載で書いているうちに少しずつファンが増えていき、好評だったので、まとめて発行した。

―若い頃の蒲生さんはどんなことをしていたのですか?
 小さい頃は自転車も乗らず、遠くまで歩いて遊びに行っていた。幼い頃から読書が好きで、小説家を目指していた。佐藤紅緑、サトウハチローに憧れて、ユーモア小説が書きたい、何か作品を残したいと思っていた。兄の助言で、働いてから小説家になることにし、臨時工として造船所に勤め、社会運動にも精を出した。出版に必要だろうと、兄がお金を援助してくれた。小説は2本書いている。

―ご自身の両親との思い出は?
 父は浪速警察の副署長になったが、商才もあり、戦後は飛田で串カツ屋を営んでいた。母は保険会社の営業職をしていた。苦労は多かったと思う。

―郷土史を書いていて印象に残ったもの(人、出来事) は何ですか?
 たくさんの人とふれ合い、たくさんのことがあった。今も色んな人と史跡めぐりをしたり、講演会を年に1、2回開催したりしている。

―これから若い人に郷土史を通して何を期待しますか?
 地方史編纂として自分がやってきたことを継ぐ人がいてほしい。幸い息子が興味を持ってくれている。 息子も含めこれからの人たちには、郷土史に限ったことではないが、歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つと考えている。過去にもしっかり目を向け、広い視点でこれからの未来をつくっていってほしい。