今昔木津川物語(009)

西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)

◎大海《だいかい》神社 (住吉二)

 生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉|《しんみち》新道に出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安《へいあん》の昔にかえっている。

浦島《うらしま》太郎のモデル

 大海神社の祭神は海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話《しんわ》で知られる豊玉彦命《とよたまひこのみこと》と豊玉姫命《とよたまひめのみこと》の親子で、私の小学生のときには教科書《きょうかしょ》に挿《さ》し絵《え》つきでのってあった。
 兄の海幸彦が大切にしていた釣針《つりばり》を失ってしまった弟の山書は、海底《かいてい》にさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟の争《あらそ》いはその後も激しくなり、山幸が危《あや》うくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠《しおみちのたま》」で海潮《かいちょう》を呼び寄せ難《なん》を逃《のが》れる。
 その珠《たま》を沈《しず》めたところということでこの辺りを玉出島《たまでしま》とよび、住吉でも古来《こらい》より最《もっと》も早くひらけたところといわれている。仁治《にんじ》二年(ーニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連《こつまおおむらじ》が勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
 大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大《どうけいどうだい》の住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主|津守氏《つもりし》の氏神《うじがみ》で、かって境内は藤《ふじ》と萩《はぎ》の名所であった。永年の間住吉大社の陰《かげ》にかくれていたので、浮世離《うきよばな》れしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木《じゅもく》がうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
 海幸・山幸の神話はお伽話《とぎばなし》「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱《たまてばこ》」という地名があったというのもおもしろい。

まぼろしのご本尊は天下茶屋へ

 ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛《ひぶつ》阿弥陀如来《あみだにょらい》が安置《あんち》されていたが、明治初年の廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》で廃寺《はいじ》となった。本尊は天下茶屋の安養《あんよう》寺に移転されたが、空襲《くうしゅう》で焼失《しょうしつ》してしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
 大海神社を南に出ると通称「桜畠《さくらばたけ》」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
 仮装《かそう》して踊る人もあり、敗戦の悲惨《ひさん》さと終戦の喜びとが交《ま》ざりあった複雑な雰囲気《ふんいき》のなかで、踊りの輪《わ》が幾重《いくえ》にもふくらんでいった光景《こうけい》を今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
 実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字《てんぴょうほうじ》二年(七五八)に創建された豪壮《ごうそう》な寺院が存在していたのである。
 本尊には薬師如来《やくしにょらい》が祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集《こんせきちょぶんしゅう》」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師《いっきゅうぜんじ》も応仁《おうじん》の乱《らん》を避《さ》け住吉に八年間居住した頃によく参籠《さんろう》したという。

廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》は住吉大社にも

 この寺も明治の廃佛毀釈で堂宇は《どうう》破壊《はかい》され廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社《まっしゃ》のひとつである招魂社《しょうこんしゃ》が元神宮寺の唯一《ゆいいつ》の遺物《いぶつ》で「旧護摩堂《きゅうごまどう》」であったという。その廂《ひさし》に葵《あおい》の紋《もん》が刻《きざ》まれているのが、神宮寺が天台宗《てんだいしゅう》東叡山《とうえいざん》に属していたことを物語っているといわれている。
 ちなみに廃佛毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道《しんどう》中心主義を採用《》さいよう、これにより政府《せいふ》の権威《けんい》を高めようとしたもの。神仏混淆《しんぶつこんこう》を排し神社からの仏教的|要素《ようそ》の一掃《いっそう》をはかるため、日吉《ひえ》神社、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》をはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙《ぼうきょ》を行ったのであったが、住吉大社でも例外《れいがい》ではなかったというわけである。

大阪きづがわ医療福祉生協総代会開催!

 2024年6月23日、第13回通常総代会が開催されました。その中で、がもう健さんの郷土史エッセーを紹介する機会がありましたので、掲載します。

 今までの総代会の討議をお聞きして、このきづがわ医療福祉生協が、以前にも増して、一段と高いところに立っているととひしひしと感じますので、私の発言はいささか蛇足に過ぎない感もありますが…
 とりあえず、今日は私のためにかくも盛大にお集まりいただき(笑い)ありがとうございます。こうした機会で皆さんにお話できるのも最後になるかもしれませんので、心してお聞きください。今日の総代会のテーマとほとんど違う話で、こちらもご了解ください。
 さて、さる3月に事務の人にビデオを撮ってもらいながら、大阪きづがわ医療福祉生協の初代理事長のがもう健さんのインタビューをしました。以下、インタビューのハイライト(再掲)です。


 がもうさんは、西成をはじめとする、医療福祉生協の定款地域でもある大阪市南部を中心とした郷土史を探求・研究し、2冊の冊子を出版されています。いみじくも、その一冊が、この会場のある阿倍野区の図書館にも収められていると聞きます。そこでは、大阪きづがわ医療福祉生協の南北をつなぐ木津川に寄せるがもうさんの思いから始まり、ここ阿倍野にゆかりのある安倍晴明神社‐大河ドラマ「光る君へ」では、少し山師ぽく胡散臭く描かれていることが興味を引きますが‐のがもうさんらしい紹介もあります。更に印象深いことに、先代の西成民主診療所も、きちんと「郷土史」のなかに位置づけられていることです。私事にわたることながら、写真の診療所に赴任して30年近くにもなり、今更ながら不明を恥じるばかりですが、大袈裟に言えば、遠く古代の昔からここに暮らす人々の願い、希望に寄り添ったものであることを身に沁て感じるところです。決して悲観的になるわけではありませんが、こうした願い、希望も達成できなかった、叶わなかったことのほうが、叶ったことよりずっと多いことでしょう。でも、そのことは、今日の総代会を期に、必ずや次の一歩の踏台になることも同時に確信します。その中では、「西成民主診療所」という名称も、愛着は重々あるとは思いますが、新しい名称に変更することも検討の必要性があると個人的には思っています。今後のご討議に期待します。
 最後に、がもう健さんの「今昔西成百景」のあとがきから引用して、発言を終わります。ご静聴ありがとうございました。

「地獄極楽この世にござる」「神も仏もないものか」と云いたくなるような話が、 每日のようにとびこんでくる今日この頃。遠い祖先より人々はこの地で、一体 何をしてきたのか、またそれが歴史上どうなのか。このことを探求する以外に確信のもてるものはないのではないか。戦争とか災害とか貧困とかが、「暗い話」としてその資料が抹殺され、記録が歪曲され、人々の記憶からも消し去られようとしているときに、 あえて「後向き思考」でいろんなことを再検討してみることでこそ、本当の意味での「明日への展望」が生まれる。郷土史がただ単なる「故郷自慢」ではなく、地方史として真剣な再検討がもし全国で始められたならば、 世直しのうねりと必ずなりうる。こんな大きな希望をもつて、 こんな小さな本をまた出した次第です。

今昔西成百景(012)

◎天津橋

 一九七〇年の大阪での万博開催にむけて、阪神高速道路堺線が突貫工事で十三間堀川を埋め立てて、一本足スタイル、全部セメントでつくられた。今、阪神大震災での阪神高速神戸線の崩壊で、全く同じ条件でつくられた堺線の安全性が問題になつている。
 十三間堀川は、元禄十一年(一六九八)河村瑞軒の設計になるという長さ四四町(約四・八キロ)、幅十三間(約二三・七メートル)木津川の水を引いて堺の北で海に注がしめた。南大阪における唯一の運河として、二百数十年の間治水と運輸交通に大きな役割を果たし、南大阪発展に奮闘した西成の名物のひとつであった。


十三間堀に十四の橋

 かって十三間堀川には、数多くの橋が東西に架けられていた。西成区内のを北からあげてみると、万才・浜津-豊津,長橋・鶴見・梅津・松栄・中津・汐津・国勢・南津・天津・育栄・長崎・回生橋となる。
 その中でも、命名の由来が推測しがたいもののひとつに、「天津橋」がある。千本通と南津守を結ぶところであるが、かつては主要道路が交叉する交通の要所であった。私の記憶では、幅も広い道路の延長のような、頑丈なコンクリ—卜づくりの橋で、自動車もよく通っていた。

「天津橋」の跡、今は阪神高速の真下に

 千本と津守から一字づつ取れば「千津」になるし、地元の勝間村を飛び越えて、天王寺村や天下茶屋の名を付けることはなかったはず。まして当時は徳川の時代、宿敵豊臣秀吉を持ち上げるような、「殿下茶屋”天下茶屋」をわざわざ借りてきたとはとうてい考えられない。謎は益々深まるばかり。
 そこで、以下は私の大胆な推測になるが。「天つ風 雲の通ひ路吹きとじよをとめの姿しばしとどめむ」、これは小倉百人一首に出てくる、舞姫を天女にみたてた僧正遍昭の歌であるが、「天津乙女」とは、静岡県の三保の松原に舞い下り、羽衣を忘れた天女のことである。羽衣伝説は、この他にも全国の美しい松原のあるところには多く在り、堺市の「羽衣駅」も、かつての白砂青松の地であった泉州の海辺から生まれたものである。それでは、西成に天女が舞い下りて来るようなところがあったのか、ということであるが、それがあったのである。

かつては景勝の地

 「今の木津川千本松渡船場あたりは東に津守新田が拓け、景勝の地であった。天保三年(ー八三二)、八七〇余間(一六〇〇メ—トル)の堤を築いて松を植え列ね千本松と称し、船や汐干狩りに多くの人々が遊んだ。丹後の天の橋立、駿河の三保の松原にも比せられる名所であった」と物の本には書かれている。昔の人は、西成にもロマンがあるということを、後世の私たちに伝えるために、「天津橋」と言う命名でメッセージを送ったのではあるまいか。
 十三間堀川についても、「明治の初年頃までは両岸に松や柳の並木が在り頗る風情に富み、大阪より楼船を浮かべ、道頓堀川より船で住吉に遊ぶものが多かった」と伝えている。
 今、「天津橋」の跡地は、振動・騒音・排気ガスの阪神高速の真下になる。公害だけでなく、交通事故の多発地点でもあり、先日も知人が死亡事故に遭い痛恨の想いをした。かつて先人がこの地に「天津乙女」を夢みたとしたら、この百年間は住民にとって一体何であったのか。区役所はさかんに「好きやねん西成」とキャン・ペーンをはるが、止まらない人口の減、特に子供のいる若い世帯が少なくなっている現実をみれば、今の西成は決して住みやすい街ではない。子供の笑い声の絶えない、老若男女のバランスのとれた西成の街づくりのために、先人に負けず、草の根運動でがんばろう。
(ー九九五・五)

南大阪歴史往来(008)

◎浅沢神社(上住吉二ノ十ー)

 住吉大社境外末社、祭神市杵島姫神。祭神は本来は海神であるが、女神から弁財天と神仏習合し、芸能の神として崇敬されている。


昔は浅沢小野の風情の名勝

 かつては清水のわく大きな池があり、奈良の猿沢の池、京都の大池と並ぶ近畿の名勝地であった。特に美しく咲き乱れる杜若(かきつばた)は有名であった。
 しかし、明治維新以後は無格社となり、ほとんど民有地となり荒廃していた。その後大阪松島の人清水某氏が当社を深く信仰していたところ家運隆昌し、松島でも屈指の資産家となったとして、明治三十四年池を浚浚渫、社殿の修復を行い灯籠を奉納するなど面目を一新させ、現在見るように堀の小島に鎮座するようになった。明治四十一年五月には改めて境外末社となった。
 松島の清水某氏が何の商売で大金持ちになったかは不明だが、大阪の松島といえば大歓楽街であり、いわゆる遊廓の関係ではなかったかと思ってしまう。

広島の厳島神社と同じ神様

 堀の小島に本殿があるというのも祭神をみれば当然のことで、市杵島姫社とはあの有名な安芸の宮島、海の中の神社広島県の厳島神社の主祭神「市杵島姫」のことで、今ではイツクシマと発音しているが、昔はイッキシマといわれていた。
 民間の歴史研究家原田常治氏が七十ニオになってから、日本書紀の八割、古事記の五割以上はウソだという立場から書いた古代史によれば、市杵島姫は日向の大日霊女貴尊(ひみこ・後の天照大神)の第五子で父は日向に攻略に来た素佐之男尊である。
 市杵島姫がなぜ海の女神になったかと云えば、西暦二百三十年に大和に養子として東したひみこの孫伊波礼彦尊((後の神武天皇)が、暇乞いのあいさつに来たときに、航路の平安を祈願したことによるもので、初めは一人であったものが後に二人の姉が加わって海の三女神となり全国のとくに海、航海に関係のあるところに祭られるようになった。

杜若と和歌の名所は今は区花

 住吉大社は海上守護の神という抽象的な神に対して浅沢神社の神は、実在していた人物を女神にしたであろうという点で、また杜若の名所でもあり、古来より多くの和歌が
ここでよまれている。
 すみよしの
   浅沢水に影みれば
   空行く月も草がくれつつ
     津守国助
 いかにして
   浅沢沼のかきつばた
   紫ふかくにほひ染むらん
     藤原定家
 いざや子ら
   若菜摘みてん根芹生ふる
   浅沢小野は里遠くとも
     藤原俊成
 この杜若は、現在地元住吉区の「区花」になっている。

人身御供が海をしづめる

 日本の古代交通はほとんど船であった。海が荒れ出したら、何か魔物でも住んでいるのではないかと思われた。その魔物の怒りをしずめるため場合によっては女性が船から飛び込んで、人身御供になり海をしずめることもたびたびあった。
 伊波礼彦が生駒で長髄彦に追われ、大阪湾を逃げて熊野へ向う途中でも、海が荒れてだれかが海へ飛び込んで人身御供になっているはずだ。
 戦前の日本では、女性が親の借金や家族の病気の治療費のために苦界に身を沈めた話が多い。大阪松島の歓楽街でも、そんな話は山程あったはずだ。果たして女神は守ってくれたのかどうか。
 先日、久しぶりに浅沢神社を訪れ、玉垣を調べてみたがほとんどが最近新しく造り替えられていた。ただ一本特に太く古いのがあって、そこには深々と「松嶋清月楼」と彫りこまれていた。

今昔西成百景(011)

◎出城通り

 出城通りという地名は、天正年間、本願寺の一向一揆の門徒が織田信長と戦ったとき、木津川口の防衛のために城を築いたのが由来であるという。

権力とたたかった一向一揆

 天正四年(一五七六年)五月七日、信長は出城通りの戦いで、足に鉄砲を受け、天王寺にかけ入っている。もし、本願寺の門徒の射撃がもう少し正確であれば、出城通りで日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 大阪では東西の道路を「〇〇通り」とよび、南北の道路を「〇〇筋」とよぶ、ということは、四十年前に、関目の自動車教習所の教官より聞いた。この教皆所では同時に、警察官である試験官に賄賂を贈らなければ合格をしないことも公然と教えられ、一人反発して退所した思い出がある。
 出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通、潮路通、新開通、千本通、田端通、玉出新町通、玉出本通、姫松通、などが西成にあるが、地名の由来からして出城通りが、相当古いのではないかと思う。
 柳通りから浪速区までの北半分は、大正時代にはすでに碁盤の目のように区画整理がされていて、地名も梅、松、桜と華やかで、まるで「小京都」だという人もあれば、その辺に花札の「いの、しか、ちょう」がひそんでいないかと茶化す人もいる。

木津城を築いて織田勢を撃退する

 次に願泉寺(浪速区大国二)に伝わる古文書より、出城砦に関する部分を紹介しておく。
 「信長の本願寺と出入りの節は敵勢を紀州鷺の森の御堂へ推寄せ申さぬ様木津総門葉老若男女は各我家を棄てて西の海の浜に四方八町の埒を結び門戸厳しく小屋建て籠居す高櫓の石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き取りて石垣とす昼は男子は田畑に出でて耕作す其時は刀或は槍を以て用心をす夜は女子番を勤む月の夜は竹の末を切りとぎりて水にひたし立て掛けて城内を守るに月の光に映じて槍と見ゆ夜戦にて其竹にて寄手のもの多数を殺す其他陥穴を以て数百名を殺す寄手は天王寺茶臼山に陣を取り出でて戦ふなりある夜葱び者木津城に入り来る其時大将定龍之を知りて夜半の鐘を明け七つ寅刻に撞きしにより忍びのものとく帰るこの鐘持ち帰りたるに寛永年中火災の早鐘によりて破れ損ず件の城今は畑となれり宇して出城という」
 その後、この辺りより墓石が掘り出されることがあると、木津川城を築いたとき、飛田墓地より運び来て石垣に利用したものではないか、と云われてきていたと伝えられている。

南大阪歴史往来(007)

◎住吉行宮正印殿(墨江二ノ七)

 軍服姿で馬に乗った明治天皇の姿を見て、女官たちは嘆いたという話が残っている。勇ましく荒々しい天子というのは、朝廷の歴史では不吉な記憶につながるからである。

忠臣顕家・正成も犠牲者

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが鎌倉時代よりも重い年貢、課役、税金で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児たちは、富貴を誇り、贅沢な暮らしをし酒宴、蹴鞠、歌舞遊山にあけくれていることを、厳しく指摘し諫言した北畠顕家は堺の南石津で戦死した。
 同じ頃、楠木正成も、民衆の苦しみを省みず大内裏造営を強行したり、愛妃阿野廉子の云うことばかりをきいて政治の公平性を損なうことをやめよと諫言し、足利尊氏と和睦し以前のように公武一統の政治を行なえば平和になると献策を行なっているが、後醍醐天皇に一笑にふされ、敗北必至の戦いに追いやられ戦死している。
 後醍醐の目指したのは「天皇こそ最高にして唯一の権力者である」という構図による日本国家の改造にあったのだが、北畠顕家や楠木正成という「大忠臣」にさえ、それが認められていなかったという点に、私たちはもっと注目すべきではないだろうか。

後醍醐の横暴で全て失う

 まさに後醍醐の一生は、多数の女子に数十人の子供を生ませ、珍玉、王位に妄執したものであり、臨終に立合った忠雲僧正から「天子の位などはあの世に持っていけませんよ」とさとされても、尚「決してあきらめるな、戦って京都を回復せよ。さもなければわしの子ではない」と言い残した。この遣言により、その後南朝は「死ぬまで」戦うことになり、後醍醐の死後も半世紀にわたり戦争が続き国土は荒廃し、民衆は塗炭の苦しみをなめるのである。
 南北朝内乱の末、今までまがりなりにもあった天皇の統治諸権能は根こそぎ幕府に奪われ、足利幕府は南朝を解消して、北朝の天皇を唯一のものとし、これを自己の王権の一環にとりこんだ。それは後の秀吉・家康に継承されていく。

住吉大社津守氏は南朝支持

 さて、後醍醐の子で南朝の後継者であった後村上天皇が行宮ときめ約九年間にわたり滞在していたところが、住吉大社の南の地にあり今、住吉行宮正印殿として国の史跡に指定されている。
 南朝方の中心人物楠木正成・正行、北畠親房,顕家父子はすでになく、足利尊氏も没し、義詮が替わって南朝方と戦っていた。しかし、足利方も内紛が続き諸将も戦意を失いつつあった。このような時期、河内長野の観心寺にあった後村上天皇は、住吉を行宮ときめ滞在した。正平十五年(一三六〇)九月である。
 正印殿は住吉大社の神主である津守氏の邸内に創建したもので、壮麗な建物で南面の庭園には和歌浦から大小の名石を入れ、典雅であったという。

にわかづくりの十五神社

 明治天皇は、後醍醐天皇以来実に五三三年ぶりに王政復古がとげられたとして、南朝に貢献した人物十五人を神として祭り上げることを行なった。後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮をはじめ楠木正成を祭る湊川神社(兵庫県)・北畠親房、顕家を祭る阿部野神社(大阪府)・楠木正行を祭る四条啜神社(大阪府)などである。
 平成四年にこれらの神社により、「建武中興十五社会」が結成され「建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行なう」と気になる宣言をしていたが、最近、自画自賛の小冊子を参拝者に配り始めている。
 憲法・教育基本法改悪の動きに便乗してのことであろうが、歴史から学んで十分な警戒が必要だと思う。
 最後に、先日新しくなった「大阪春秋」平成十七年新年号を読んでいると、びっくりするような記事に出会った

枚方の「伝王仁墓」に疑い

 それは私も十数年前に、夏休みの家族旅行の際、もっともらしい顔をして妻子に説明したこともある、枚方市にある「伝王仁墓」に関してである。
 「『王仁』とはいわゆる漢字を日本にもたらしたとされる人物で、枚方市は毎年『漢字まつり』をひらくなど、地元市民との連携のもと、官民一体で観光拠点にすべく力を入れており、それに伴い遠く韓国からも多くの観光客が訪れ、日韓交流の場となっている」とのこと。
 ところがこの「伝王仁墓」は「枚方市史」別冊によると、地元で「おに墓」と呼ばれていたものを、享保十六年(一七三一)京都の儒学者並川誠所が、おには王仁の訛りであると単純に決め付け、それを信じた領主が傍らに石碑を建立したものだという。
 領主をたぶらかした並川の「王仁墓」説を、すでに幕末の段階で、当地の文化人グル-プの三浦蘭阪が論破していた。蘭阪は並川の説を疑い、古い書物や領主・村方の古文書、はたまた村に残る伝承に至まで徹底的に調査を行なったが、関係書類は一切見付からなかつたという。蘭阪はそのことを著書「雄花冊子」に記している。
 私がおどろいたのは大阪府が詳細な調査もなく「伝王仁墓」を昭和十三年(ー九三八)に史跡指定し、戦後も指摘解除されることもなく、現在に至っている点だけではない。

阿倍野神社も並川発言が

 実は阿部野神社も、現在の阿倍野区北畠公園にかつて大名塚という塚があり、享保十八年(一七三三)に儒学者並川誠所が突然「これは阿倍野で戦死した北畠顕家の墓だ」といいだし、墓標をたてさせたものである。そしてそれを根拠に明治になり阿部野神社が建立された。
 しかし顕家は大名ではなかったし、戦死したのも堺石津であることは今では歴史の常識である。
 ひよっとしたら並川は、王仁や顕家の墓だけではなく、もっとあちこちで「ニセ墓」づくりをしているのではないか、という疑惑も生まれてくる。やはり郷土史の見直しは必要なことである。

今昔木津川物語(008)

◎西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根《いくね》神社(奥《おく》の天神社)(住吉二)


 東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高《こだか》くなっている踏切《ふみきり》を越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
 神社は上町台地の崖《がけ》上にあるが、その崖の石垣《いしがき》には現在、幕末《ばくまつ》の頃近くの東粉浜小学校の敷地《しきち》を含めて、紀州街道沿いの区域《くいき》から北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体《かいたい》された土佐《とさ》藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道を登《のぼ》ると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界《きょうかい》を示す石碑が建っている。
 鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢《じゅれい》五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
 神社の本殿《ほんでん》は慶長《けいちょう》十一年(一六〇六)九月|淀君《よどぎみ》の寄進による片桐且元《かたぎりかつもと》奉行《ぶぎょう》により造営され、現在大阪府指定の有形《ゆうけい》文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺《きりづまちどりはふこづくりひわだぶき》うるし塗《ぬ》りの建造で、桃山時代の重要な建築|様式《ようしき》を残しており、旧住吉大社|領内《りょうない》の社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
 秀吉の死から二年後の慶長《けいちょう》五年(一六〇〇)石田三成《いしだみつなり》らの起こした関《せき》ヶ|原《はら》の戦いは東軍《とうぐん》の勝利に終わり、事実上天下の主導権《しゅどうけん》をにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》の宣下《せんげ》をうけて江戸に幕府をひらいた。
 かくして豊臣《とよとみ》氏と徳川氏との地位《ちい》は逆転《ぎゃくてん》し、秀頼《ひでより》は摂津《せっつ》・河内《かわち》・和泉《いずみ》の六十五万七千石の一大名に転落《てんらく》した。
 しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双《さんごくむそう》の名城《めいじょう》大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大《ばくだい》な金銀財宝《きんぎんざいほう》(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮《ちょうせん》から略奪《りゃくだつ》してきたもの)は徳川打倒のための軍資金《ぐんしきん》として十分なものであった。

軍資金|流出《りゅうしゅつ》を迫られて

 家康はまず豊臣家の財力《ざいりょく》を失《うしな》わせようと計《はか》り、故《こ》太閤(秀吉)の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産が底《そこ》をつくまでの八年間に、有名な社寺《しゃじ》だけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君《よどぎみ》の名で住吉大社の太鼓《たいこ》橋まである。
 生根神社の再建も家康の意図《いと》と企《くわだ》てを見抜けず、家運の挽回《ばんかい》を神仏信仰《しんぶつしんこう》にたよりまんまと軍資金を流失《りゅうしつ》させていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
 生根神社の祭神は少彦名命《すくなひこのみこと》で「だいがく」で知られている玉出《たまで》の生根神社はここの分社である。

管公《かんこう》は後から祀《まつ》られた

 現在の地に中世、管原道真《すがわらのみちざね》が祀《まつ》られ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在が危《あや》うくなったために、明治になつて一時|途絶《とだ》えていた生根神社の名を復活させたという。
 政争にやぶれた文人《ぶんじん》政治家、管原道真の怨霊《おんりょう》は物すごく、それを鎮《しず》めるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮《てんまんぐう》がつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
 道真の神号《しんごう》が「天満大自在天神《てんまんだいじざいてんじん》」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚《しんい》天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑《こうじえん》によれば瞋恚とは「炎《ほのお》の燃《も》え立つような、激《はげ》しい怒《いか》り、恨《うら》み、また憎《にく》しみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級《たいだいきゅう》の反《はん》権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛《はいた》の神様だけではすまなくなるのである。
 少彦名命は医療《いりょう》の神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼《かんだの》み」だと、どこからかお叱《しか》りをうけそうである。

・注)一部、ルビを変更しました
・本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(010)

◎南海天下茶屋工場跡地

跡地は緑地公園と震災時の避難場所に

 明治十八年十二月、難波〜大和川北岸の両駅間に開通した南海本線は、わが国最初の私鉄であった。南海鉄道の前身阪堺鉄道は当初大阪堺鉄道会社の名のもとに、藤田伝三郎ほか十八名の有志が発起人となり、大阪南区難波新地を起点とし天下茶屋・住吉を経て堺に至る鉄道敷設を計画し当局に願出、十七年六月その許可を得た。同社は資本金二十五万円で、間もなく社名を阪堺鉄道会社と改め、十八年二月より藤田組の手により起工、同年十二月まず難波・大和川北岸が竣工した。そして十二月二七日に盛大に開業式を挙行し、翌日から営業を開始した。
 以後つぎつぎと路線が延長され、社名も紀摂鉄道、南陽鉄道から南海鉄道となり三十六年三月、紀ノ川橋梁落成を最後として待望の難波〜和歌山市間の全通をみるに至った。当時一般に鉄道電化の声が高まり、南海も三八年六月出力五〇〇キロの火力発電所を新設し、難波〜浜寺間天王寺支線の電化を完成、従来の蒸気鉄道を電車併用に改めた。同時に天下茶駅に電車車庫を設置、逐次電化の区域を広め、四四年十一月ニー日には和歌山市駅までの全電化を完成した。
 また蒸気鉄道時代難波から天下茶屋、住吉と駅数も少なかったが、漸次今宮戎、萩之茶屋、岸ノ里、玉出、粉浜などが新設された。

天下茶屋駅は元来拠点駅

 天下茶屋車庫については、当初の車庫であった難波仮車庫および難波機関庫が焼失したので、三四年五月に天下茶屋西側に天下茶屋客車庫(建坪四五〇坪)の設置をみた。その後三六年六月難波工場を廃止し、天下茶屋工場を開設した。昭和十一年九月、天下茶屋での車庫業務は住之江区に移転され、それ以来工場業務のみとなった。その後名称は車両部工場課・工務部などと改められたが、昭和四十一年六月現在では従業員約四〇〇名、在籍車両六九三を有し、車両の検査と修理を行なっている。(敷地三万七・七九二平方メ—トル)(以上は西成区史より)
 「尚玉出駅設置については、地元勝間村から熱心な希望があり、明治三九年駅舎設置の際には駅敷地八四〇坪が村から南海に寄付されている。また岸ノ里駅についても同村北部の発展上必要であるとし、付近地主が六〇〇〇余円を会社に寄付している」(西成区史)
 今は玉出駅も岸ノ里駅も駅舎ごと消え去り、高架上の新駅が「岸里玉出駅」という名前で横たわっている。

跡地利用は住民本位で

 南海天下茶屋工場跡地が、平成八年三月頃には約四へクタ—ル(甲子園球場位)の更地となって出現するが、跡地利用はあくまでも地元本位でやられるべきで、絶対に南海の営利本位にさせてはならない。その根拠となるものは、今日の南海があるのに、西成区民の貢献と公共の支援が決して少なくないということである。例えば、南海の高架工事の費用は、その九三パ—セントまでが税金でまかなわれ、南海が出しているのは七パ—セントにすぎない。
二、昭和二十年六月という敗戦ニヶ月前に、南海天下茶屋工場隣接の多数の民家に工場を空襲から守るためという口実で、国家権力による家屋の強制撤去(建物疎開)が行われ東皿池町が戦車によつて取りこわされてしまった。
三、先にかいた、「玉出駅」、「岸ノ里駅」設置の経過である。
 西成区にとっては、区民のいこいと安全な街づくりの最後のチャンスでもある。「南海天下茶屋工場跡地は、花見の出来る緑地公園と震災時の避難場所に」という公約実現のためにもがんばろう。
(ー九九五・六)

がもう健の郷土史エッセー集(特別編)

◎3月のある日、蒲生健さんへ特別インタビューをしました。

-西成医療生活協同組合時代と大阪きづがわ医療福祉生活協同組合の理事長を歴任されてきた蒲生健さん。これまで地域の歴史を綴っている郷土史は、地域の歴史や過去のできごとに深く触れており、学びや発見などが多く得られる記事になっている。読者も多く、今回インタビューを行う執筆者もその一人である。郷土史の誕生秘話や蒲生健という人物に迫る-

―なぜ郷土史を書こうと思ったのですか?
 自治体など権力側が編纂した地方史には矛盾が見受けられ、歪曲、削除された部分がある。戦争、災害、貧困などの負の面も含めて、庶民の視点での地方史編纂がしたかった。歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つ。大阪市は他の自治体に比べて特に地方史、郷土史が軽視されているように思えて、現状を変えたいと考えている。

―いつから郷土史を書き始めたのですか?
 府会議員時代に、府政ニュースを発行していた。
 そこに雑談を書くような形で始めた記事が今の郷土史になる。当時、連載で書いているうちに少しずつファンが増えていき、好評だったので、まとめて発行した。

―若い頃の蒲生さんはどんなことをしていたのですか?
 小さい頃は自転車も乗らず、遠くまで歩いて遊びに行っていた。幼い頃から読書が好きで、小説家を目指していた。佐藤紅緑、サトウハチローに憧れて、ユーモア小説が書きたい、何か作品を残したいと思っていた。兄の助言で、働いてから小説家になることにし、臨時工として造船所に勤め、社会運動にも精を出した。出版に必要だろうと、兄がお金を援助してくれた。小説は2本書いている。

―ご自身の両親との思い出は?
 父は浪速警察の副署長になったが、商才もあり、戦後は飛田で串カツ屋を営んでいた。母は保険会社の営業職をしていた。苦労は多かったと思う。

―郷土史を書いていて印象に残ったもの(人、出来事) は何ですか?
 たくさんの人とふれ合い、たくさんのことがあった。今も色んな人と史跡めぐりをしたり、講演会を年に1、2回開催したりしている。

―これから若い人に郷土史を通して何を期待しますか?
 地方史編纂として自分がやってきたことを継ぐ人がいてほしい。幸い息子が興味を持ってくれている。 息子も含めこれからの人たちには、郷土史に限ったことではないが、歴史に向き合うことによって、未来への展望となり、人生の岐路に役に立つと考えている。過去にもしっかり目を向け、広い視点でこれからの未来をつくっていってほしい。

・当日の和気藹々としたインタビューのハイライトです。二人ともすっかりおじいさんやね。当たり前か 笑い)