◎ 西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根神社(奥の天神社)(住吉二)
東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高くなっている踏切を越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
神社は上町台地の崖上にあるが、その崖の石垣には現在、幕末の頃近くの東粉浜小学校の敷地を含めて、紀州街道沿いの区域から北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体された土佐藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道を登ると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界を示す石碑が建っている。
鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
神社の本殿は慶長十一年(一六〇六)九月淀君の寄進による片桐且元奉行により造営され、現在大阪府指定の有形文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺うるし塗りの建造で、桃山時代の重要な建築様式を残しており、旧住吉大社領内の社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
秀吉の死から二年後の慶長五年(一六〇〇)石田三成らの起こした関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、事実上天下の主導権をにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍の宣下をうけて江戸に幕府をひらいた。
かくして豊臣氏と徳川氏との地位は逆転し、秀頼は摂津・河内・和泉の六十五万七千石の一大名に転落した。
しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双の名城大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大な金銀財宝(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮から略奪してきたもの)は徳川打倒のための軍資金として十分なものであった。
軍資金流出を迫られて
家康はまず豊臣家の財力を失わせようと計り、故太閤(秀吉)の菩提を弔うためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産が底をつくまでの八年間に、有名な社寺だけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君の名で住吉大社の太鼓橋まである。
生根神社の再建も家康の意図と企てを見抜けず、家運の挽回を神仏信仰にたよりまんまと軍資金を流失させていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
生根神社の祭神は少彦名命で「だいがく」で知られている玉出の生根神社はここの分社である。
管公は後から祀られた
現在の地に中世、管原道真が祀られ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在が危うくなったために、明治になつて一時途絶えていた生根神社の名を復活させたという。
政争にやぶれた文人政治家、管原道真の怨霊は物すごく、それを鎮めるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮がつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
道真の神号が「天満大自在天神」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑によれば瞋恚とは「炎の燃え立つような、激しい怒り、恨み、また憎しみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級の反権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛の神様だけではすまなくなるのである。
少彦名命は医療の神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼み」だと、どこからかお叱りをうけそうである。
・注)一部、ルビを変更しました
・本文、画像の二次使用はご遠慮ください。


“今昔木津川物語(008)” への1件の返信