今昔木津川物語(008)

◎ 西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(三)
生根いくね神社(おくの天神社)(住吉二)


 東粉浜の間魔地蔵堂の前を旧道をたどって東南の方向へ進み、上町線の小高こだかくなっている踏切ふみきりを越えてしばらく行くと、左手に生根神社、別名奥の天神社の西側の鳥居に出会う。
 神社は上町台地のがけ上にあるが、その崖の石垣いしがきには現在、幕末ばくまつの頃近くの東粉浜小学校の敷地しきちを含めて、紀州街道沿いの区域くいきから北にかけて約ー万坪の広さであって、明治になり解体かいたいされた土佐とさ藩の石垣が使われている。神社の正面にまわるため坂道をのぼると中ほどに旧西成郡と東成郡の境界きょうかいを示す石碑が建っている。
 鳥居をくぐって境内にはいると、樹齢じゅれい五百年以上のもちの木の大木があり、歴史の古さを感じさせる。
 神社の本殿ほんでん慶長けいちょう十一年(一六〇六)九月淀君よどぎみの寄進による片桐且元かたぎりかつもと奉行ぶぎょうにより造営され、現在大阪府指定の有形ゆうけい文化財として、切妻千鳥破風木造桧皮葺きりづまちどりはふこづくりひわだぶきうるしりの建造で、桃山時代の重要な建築様式ようしきを残しており、旧住吉大社領内りょうないの社殿では、今はもっとも古いものとなっているといわれている。
 秀吉の死から二年後の慶長けいちょう五年(一六〇〇)石田三成いしだみつなりらの起こしたせきはらの戦いは東軍とうぐんの勝利に終わり、事実上天下の主導権しゅどうけんをにぎった家康は慶長八年には征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげをうけて江戸に幕府をひらいた。
 かくして豊臣とよとみ氏と徳川氏との地位ちい逆転ぎゃくてんし、秀頼ひでより摂津せっつ河内かわち和泉いずみの六十五万七千石の一大名に転落てんらくした。
 しかし、おちぶれたとはいえ秀頼は三国無双さんごくむそう名城めいじょう大坂城をもち、城内にたくわえられた莫大ばくだい金銀財宝きんぎんざいほう(もちろん全国の民百姓からしぼりとったり、朝鮮ちょうせんから略奪りゃくだつしてきたもの)は徳川打倒のための軍資金ぐんしきんとして十分なものであった。

軍資金流出りゅうしゅつを迫られて

 家康はまず豊臣家の財力ざいりょくうしなわせようとはかり、太閤(秀吉)の菩提ぼだいとむらうためと称して、しきりに社寺の修理、造営を秀頼にすすめた。慶長七年から同十五年までの大坂城内の財産がそこをつくまでの八年間に、有名な社寺しゃじだけでも四、五十ヶ所、それ以外に淀君よどぎみの名で住吉大社の太鼓たいこ橋まである。
 生根神社の再建も家康の意図いとくわだてを見抜けず、家運の挽回ばんかい神仏信仰しんぶつしんこうにたよりまんまと軍資金を流失りゅうしつさせていつた秀頼母子の悲劇の歴史の証人だと思えば、戦国の世の血なまぐさい風が、今もこの崖の上を吹き抜けているような気がする。
 生根神社の祭神は少彦名命すくなひこのみことで「だいがく」で知られている玉出たまでの生根神社はここの分社である。

管公かんこうは後からまつられた

 現在の地に中世、管原道真すがわらのみちざねまつられ、大海神社の奥にあたるところから「奥の天神」として有名になり、元の生根神社の存在があやうくなったために、明治になつて一時途絶とだえていた生根神社の名を復活させたという。
 政争にやぶれた文人ぶんじん政治家、管原道真の怨霊おんりょうは物すごく、それをしずめるために日本全国に一万をこえる管原道真を祭神とする、天神さんや天満宮てんまんぐうがつくられたというのだから大規模である。大阪府下だけでも約七百の神社のうち百四十社ほどに道真が祀られているという。
 道真の神号しんごうが「天満大自在天神てんまんだいじざいてんじん」であることから天満宮の名が起こったが、天満とは「道真の瞋恚しんい天に満つ」ということだと伝えられている。広辞苑こうじえんによれば瞋恚とは「ほのおえ立つような、はげしいいかり、うらみ、またにくしみ」となっており、天満の天神さんとはこの最大級たいだいきゅうはん権力の思いが、天に満つる天の神という意味となり、学問の神や受験の神、歯痛はいたの神様だけではすまなくなるのである。
 少彦名命は医療いりょうの神といわれているし、今日の自民党内閣や横山府政による医療制度の大改悪などについては、二人の神様でなんとか反対してもらえないかと言えば、それこそ「かなわぬときの神頼かんだのみ」だと、どこからかおしかりをうけそうである。

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