今昔西成百景(034)

◎阿部野神社

 阿部野神社の本殿は阿倍野区、本参道は西成区にある。
 「当社はもと社格別格官弊社で、北畠親房公並びに顕家公を祭神としている。親房公は後醍醐天皇の信任厚く吉野朝廷第一の柱石で正平九年九月十五日年六十ニオで大和国賀名生に薨じた。また顕家公は親房の長子で元弘三年陸奥守兼鎮守府大将軍に任ぜられ、皇子義良親王を奉じて奥州の鎮めとして大いに功をたて延元三年親王と共に海道の国々を平らげ奈良につき、それより摂州阿倍野に戦い、同年五月二十二日年僅かに二十ーオで、父に先んじて薨じた」(西成区史)

当初は天下茶屋に祠を

 もと天王寺村大字阿倍野に大名塚と呼ばれる小丘があり、そこに「顕家卿之墓」と刻した墓碑が半ば埋没してあった。これを地元有志が当初天王寺村天下茶屋に祠を建設すべく運動したが時の渡辺昇知事が宮内省に上申して明治十五年に阿部野神社として祭られた。
 私は小学校のとき、よく学校行事で阿部野神社に参拝し、皇軍の「武運長久」を祈念させられた。玉砂利を敷き詰めた境内などから、さぞ由緒のある古い神社に違いないと思ってきたのだが、戦後に明治になってからのものだと知って意外だった。
 明治政府は、天皇親政を目玉にして、全国で天皇家に関連があると思われるところに、にわかづくりの官弊社や記念碑・忠魂碑を建てまくった。
 楠木正成を祭る湊川神社や、その子正行を祭る四條畷神社もそうだし、「初代の天皇」と呼ばれている神武天皇を祭っている奈良県の橿原神宮も明治を半ばすぎての二十三年になってからつくりだされたもので、橿原神宮が完全に出来上がるのは昭和十五年、いわゆる神武紀元二六〇〇年になってからの事である。
 当時、阿倍野高女の女子生徒たちも槌原神宮の敷地拡張整備ということで、勤労奉仕に行かされたということが、日記として残されている。

行政による歴史観の押しつけ

 西成にも天下茶屋公園の一角に、明治天皇駐蹕遺址碑が大きな石でつくられて立っている。明治天皇が明治元年に住吉神社参拝の途中一時立ち寄ったところということである。
 ところが、平成七年発行の区役所が実質的に事務局をして作成した、西成区コミュニティマップに、民間の力でこの碑を建立したことは「不朽の美挙である」との、最大級の賛辞を贈っているというのはどうであろうか。同マップは阿部野神社の説明文の中にも、「北畠二公が至
誠の精神をもって文化の発展、平和の実現に尽くしたことから祭神となっている」と、歴史の評価の一方的な押しつけをやっている。時代錯誤もはなはだしい。オ—ル保守、オール与党体制の大阪市が郷土史にふれると、とかく皇国史観の雰囲気の方向にリ—ドしていく傾向にあるということが、郷土史への興味をそいでいることを、もっと自覚すべきである。

「建武の中興」の犠牲

 源頼朝は武家政権を樹立し、以後貴族たちは公家(天皇家)に、武士たちは武家(将軍家)に属し、一五〇年にわたって公武二元政治がおこなわれていた。
 後醍醐天皇はこの時代の流れに逆行し、公家一統の政治を復活させようとの思いから討幕を行った。
 しかし、天皇とその寵臣たちの贅沢なあけくれ。恩賞の不公平。猫の目のように変わる法令。一方、農民は鎌倉時代よりも重税に苦しんだ。武士たちの不満もふくれあがった。
 矛盾と混乱の中で「建武の中興」はわずか二年あまりで崩壊し、再び長い戦乱の時代が始まった。私には人心のはなれた天皇のための負け戦に出陣していった、親房や正成たち父子の別れやあわれさのほうが「忠君愛国」よりも、しみじみと感じられる阿部野神社なのである。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第4回、第5回


◎首途八幡宮ー義経が津守にいた

 今日の次郎と友子は京都市上京区知恵光院通今出川上ル桜井町にある、源義経縁の地に来ている。今から約八四〇年前、承安四年(ーー七四)三月三日未明、源九郎義経は、牛若丸時代、金売吉次の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と会い、屋敷近くにあったこの神社に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願した。
 「首途」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれる。
 源九郎義経が生まれたのは平治元年(ーー五九)、父義朝が戦いに敗れた直後である。
 次郎は語る「母常磐が平清盛の寵を受けた代償として、鞍馬山に預けられたこと、参拝に来た奥州の金商人吉次なるものに助けられ、奥州平泉において藤原秀衡に歓迎されたこと…などは史実だろう」
 「天狗に武芸を習ったり、五条橋で弁慶を相手に技を見せたり…はお伽話なのね」と友子。「伝説に包まれた幼年時代の霧の中から、突如として抜け出した若者が、わずか一年半の間に、当時まだ西日本を完全に支配し、強力な海軍を持つ平家を、追い詰め追い詰め、あっという間に壇ノ浦で滅ぼしてしまったのは(ーー八五)史実である」と次郎。
 青年武将義経の名は天下にとどろくわけだが、兄頼朝にしてみれば面白くない。かねてから出すぎた弟の態度を不快におもっていたのだから、平家が滅亡してしまった以上、もはや義経の力は不要。目障りなだけである。「大手柄を立てながら、鎌倉に入ることを頼朝に許されなかった義経は、空しく京に追い返されるのね。これはひどい」と友子憤慨。
 その後、朝廷は平家追討の功を賞して、義経を伊予守に任じたが、頼朝は伊予に地頭を置いて義経の実権を奪ったのみならず、ついには義経討伐の為、自ら諸将を率いて鎌倉を発した。
 次郎は語る「義経はひとまず、西国において兵を集めようとし、十一月三日京を離れて摂津に向かった。尼崎浦から舟に乗ったが、たまたま暴風にあい舟はちりぢりになり、義経はわづか数名と共に行方不明となった」「義経には部隊はなかったの」と友子。
 「それが問題なんだ」と次郎が語る。「義経が使っていたのは全て頼朝の部隊で、義経には部隊と呼べる程の家来はいなかったんだ」
 その後、義経は大和に逃れ、吉野山に隠れ、京師近辺に出没しているが、結局は再び平泉に落ち着き、秀衡に変わらぬ好遇を受けた。秀衡にしてみれば、天下の覇権をにぎった頼朝が奥州に攻めてくるのは時間の問題だ。その時に義経を味方にしておけば有利と判断したのであろう。だが、残念ながら秀衡はその後まもなく病に倒れた。父亡き後、藤原三兄弟は争い、長男泰衡は父の遺言に背いて義経を衣川の館に急襲し、義経は持彿堂に入って自害、三十一歳の悲運の生涯を閉じた。頼朝は約束を守らず奥州藤原氏を滅亡させた。
 次郎は語る「しかし、肉親や功臣の全てを疑うという性格の頼朝は、実質一代で源氏の幕府は終わらせ、実権は平氏の出である北条氏にわたってしまったとは歴史の皮肉か」
 突然、次郎が得意げに「最後に、友ちゃんにだけ特別に話すけど、西成区の津守町の江戸時代迄は海辺だった処に『はい上がり』という字がある。つねづね、突然に周辺とは異なる調子の字なので不審に感じてはいたが、義経が京を離れて摂津に向かう中で、乗った舟が暴風にあい命からがら、はい上がった岸が津守だということ。これは『史実』だよ」
 「認知症の兄は頼朝的長男だから。義経の気持ちわかる」と次郎。「自分が選んだ老々介護の道でしょう。愚痴は聞いて上げるから」と友子。やさしいね!

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年6月、7月号収載

今昔西成百景(033)

◎「ふたりつ子」とわが街天下茶屋

 NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」が好評とのこと。大阪の下町、西成区天下茶屋を舞台に、双子の姉妹が実業家、将棋のプロ将士の道を目指す物語だが、西成区民としてはなじみの所がよく出てくるので、毎日の話題になり、話の進展についても興味しんしんである。
 姉妹が通っている学校は岸里小学校ではないか。西天下茶屋駅前の西天銀座商店街がモデルではないか。通天閣が近くにあるというのなら、東天下茶屋ではないか。等々である。

テレビの画面から街を再発見

 私は、早朝、豆腐製造の蒸気が立ちこめているなかを、南海汐見橋線の二両連結の始発盈車が踏み切りの向こうを通り、手前に新間配達の少年が自蔽車で走り、まんなかを犬を連れた人が歩いていく、まるで風景画のような画面が気にいっている。
 西成民主診療所の前の、枕木で柵をした汐見橋線の沿道が、いまどきめずらしいものとして撮影されながら、その後すぐに金網に変えられてしまったのは、ちよっと淋しい。
 姉妹の父である、野田豆腐店を営む光ーは、「まあええやないか」が口癖であるが、それがまるで天下茶屋の庶民のキ—ワ—ドのように思われたら、とんだ誤解だといわざるをえない。

「福祉施設の街」は困る

 寛容であるということは下町の住民としては当然身についたものではあるが、財界・「解同」ベッタリの行政から、意図をもって、「すきやねん西成」「人情の街西成」として押しつけられたのでは、たまったものではない。最近、大阪市が西成区に大型の福祉施設をつぎつぎに持ち込み、地元住民から反発をうけているが、「福祉の街」がいつのまにか「福祉施設の街」にすりかえられている。住民は「調和のとれた街づくり」を望んでいるのだ。

消費税増税は商店街を直撃

 西天下茶屋商店街は二百からの店舗のある、西成では指折りの商店街だが、今不況・スーパー・地上げのためにかなりの店がシャッタ—を下ろしている。こんな状況では「まあええやないか」と、納まっているわけにはいかない。先日この商店街で、日本共産党の消費税増税反対の宣伝隊が大いに歓迎を受けたが、老舗の店も確実に変わってきていることを感じた。

殿下茶屋が天下茶屋に

 天下茶屋という名は「天正四年のこと、千利休に茶を伝えた茶匠武野紹鷗が閑居していた地で芽木小兵衛正立なる人が茶店を開いていたが、太閤秀吉が住吉大社への参拝の途中、千利休の勧めで麗水で知られるこの茶店に憩い賞美の余り、井戸に恵水の名と玄米三十俵を与えた。このことから世に、殿下茶屋=天下茶屋と呼ばれるようになった」(西成区史)とのことである。

秀吉の庶民性も出世するまで

 秀吉は全て派手好きで、自己宣伝がうまかったといわれているが、同じ天正年間にスペインの商人ヒロンは、米二俵を納められなかった農民夫婦と子供二人が殺されるのを見た、と書いている。大阪城の築城に動員された人々のなかには、仕事がすんでも国元に帰れず、川原で細々と世を過ごす者も多かったという。
 大阪市は豊臣秀吉ブ—ムに便乗して、現地に史跡公園を計画しているが、行政による一面的な秀吉の賛美はお断りしたい。

試練の道を行く二人

 さて、「ふたりつ子」の野田ファミリーは今後どのような道を歩むのか。姉の麗子がボ—イフレンドに住所を聞かれ、「帝塚山」と答えてしまつたり、妹の香子が「京大生」の姉に対抗して、プロの将棋士を目指すあたり、また、麗子に自分の生き方を拒否され、酒に不安や寂しさをごまかしていく父光一、本当に、私たちのまわりに、いくらでもいそうな人物がえがかれていて、一層身近に感じる。
 二、三日前にも、結婚して博多にいっている娘から電話がかかり、「妹の香子は若いときの自分にそつくりや」といわれ、思わずどきりとさせられた。

今昔木津川物語(025)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(三)

◎大正区の「新田《しんでん》づくり

 「大正区の土地は、江戸《えど》時代以前から続いてきた三軒家、難波島《なにわじま》と、江戸時代以後木津川、尻無《しりなし》川の河口に開発された新田と、さらに明治、大正時代に造成《ぞうせい》された埋め立て地によって形成《けいせい》されている。この、うち新田は泉尾《いずお》、炭屋《すみや》、千鳥《ちしま》、今木《いまき》、平尾《ひらお》、中口《なかお》、上田《うえだ》が江戸時代中期に、南|恩加島《おかじま》、北恩加島、小林、岡田《おかだ》、千歳《ちとせ》が同末期に開発されている。埋め立て地は船町《ふなまち》、鶴《つる》町、福《ふく》町の全地域と南恩加島、平尾の一部で、埋め立てが完了した大正末に、ほぼ今の大正区の区域が確定《かくてい》した。
 当区は江戸時代、摂津国《せっつのくに》西成郡に属《ぞく》し、幕府の直轄地《ちょっかつち》として代官《だいかん》の支配下にあったが、明治|維新《いしん》後大阪府に所属、西成郡第二区に属《ぞく》した。
 明治三十年四月大阪市に編入《へんにゅう》、西区の一部となり、大正十四年四月に港区が西区から分区の際、港区から分区独立し大正区が成立《せいりつ》した。すでにあった大正橋にちなんで、区名がつけられた」(「大正区史」)

江戸時代の新田開発

 上町台地の西はむかし海であったが、淀川や大和川が流れ込み、河口に次第に土砂《どしゃ》を堆積《たいせき》させ、いくつかの砂州《さす》ができ、これらがいわゆる「難波《なにわ》八十島《やそしま》」を形成《けいせい》していった。
 これらの砂州のさらに沖合に、堤防《ていぼう》を築いて新田がつくられた。新田は江戸時代幕府によって大いに奨励《しょうれい》され、当初《とうしょ》は、庄屋《しょうや》を中心に村人《むらびと》が共同で開いたが、江戸時代中期以後は、町人《ちょうにん》勢力《せいりょく》の台頭《たいとう》とともに、町人が幕府から請《う》け負《お》い独力《どくりょく》で開いた「町人請負新田」が多い。

各町名に新田請負人の名が残る

 「大正区の町名は、ほぼ新田の名称《めいしょう》を継承《けいしょう》したものと、埋め立て地に新しくつけたものの二通りである。
 三軒家(旧三軒家村)
 三軒家はもと木津川尻の小島で、姫島《ひめしま》または丸《まる》島といわれていたが、慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)に木津村の中村勘助が開発したので、勘助村と呼ばれるようになった。この地が三軒家と称されるようになったのは、勘助の開発当時、三軒の民家が建てられたからといわれている。
 泉尾(泉尾新田)
 元禄十一年(一六九八)和泉国《いずみのくに》大鳥郡《おおしまぐん》踞尾《つくのお》村(現堺市)の北村六右衛門が開墾《かいこん》し、当初三軒家浦新田といわれていたが、最初の検地が行われた元禄十五年(一七〇二)泉尾新田と改称《かいしょう》した。開発者の国名(和泉)と村名(踞尾)から一字づつ採り命名した。
 北村(泉尾新田)
 泉尾新田の開発者である北村六右衛門の苗字から命名した。
 千島(千島新田)
 開拓者の岡島嘉平次《おかじまかへいじ》が自分の居住村名(千林《せんばやし》村・現|旭《あさひ》区)の千と姓《せい》の岡島の島をつなぎ合わせて、千島新田と命名した。
 小林(小林新田・岡田新田)
 小林新田、岡田新田の名はともに開発者である、東成郡千林村の岡村嘉平次に係わるものであり、小林は千林から、岡田は岡島から採ったものである。岡田新田の方が広い面積を有したにもかかわらず「小林」を町名としたのは、小林新田にしか住民がいなかったことによる。
 平尾(平尾新田)
 大阪江戸堀の平尾|与左衛門《よざえもん》が開拓。与左衛門の姓をとり平尾新田と名付けた。
 南・北恩加島
 (南恩加島新田)
 南恩加島新田は文政《ぶんせい》十二年(一八二九)二・三代岡島嘉平次によって開墾された。ときの代官岸本武太夫はその功績《こうせき》をたたえ、恩加島新田と称させた。岡島を恩加島と換用《かんよう》したのであるが、恩加島には後世《こうせい》に恩を加えるという意味があったという。
このあと明治四年まで数回にわたり増墾《ぞうこん》され、後に二分して南恩加島、北恩加島となった。
 ちなみに初代嘉平次が宝暦《ほうれき》七年(一七五七)江戸|表《おもて》に出て幕府に直訴《じきそ》し許可されたときに納めた、木津川から尻無川までの開拓地百二十三町歩余の地代銀は四千三百五|両《りょう》であった。
 鶴町・船町・福島
 大正八年三月埋め立て地に町名が設定
され、鶴町、船町、福町が誕生《たんじょう》したが、町名決定の由来《ゆらい》は、万葉集《まんようしゅう》巻《かん》六の田辺福麻呂《たなべふくまろ》がよんだ「潮干《しおほす》ればあしべにさわぐあし鶴の妻《つま》よぶ声は宮《みや》もとどろに』の鶴と、おなじく「あり通う難波の宮は海近みあまおとめらが乗れる船見ゆ』の船と、詠者《えいしゃ》の福をとったものである」(「みんなのまち大正」)

現代の埋め立ては
大変な「借加《しゃっか》島」に

 恩加島が後世の人に恩を感じてもらえるものになったかど、つかは別として、いま、大阪府や大阪市がすすめている大阪|湾《わん》を埋めつくすような巨大開発事業は、関空《かんくう》、りんくうタウン・夢州《ゆめしま》・舞州《まいしま》などいずれも後世の人に莫大な借金を残して、耐《た》えがたいまでの税負担《ぜいふたん》と住民サービスの低下《ていか》をまねくことは間違《まちが》いない。
 大変《たいへん》な「借加島」をこれ以上増やさないためにも、住民本位の当たり前の府市政の確立がいそがれる。

今昔木津川物語(024)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(二)

◎近代紡績工業《きんだいぼうせきこうぎょう》発祥《はつしょう》の地《ち》(三軒家東二—十二)
—三野家公園内—

 知人《ちじん》の坂本氏に以前から聞いていた話であるが、大正区|三軒家《さんげんや》で毎年一月に「朗読《ろうどく》会」がやられ、坂本氏はその主役格で参加されているとのこと。テキストは森|鴎外《おうがい》の小説「最後《さいご》の一句《いっく》」である。
 また、坂本氏からの資料によれば、「詩、小説、童話、歌詞など、どんな本でもかまわない。声を出して読むだけだから、誰でも簡単《かんたん》にできる。想像力《そうぞうりょく》を働かせ、役を演じることがストレスの発散につながるだけでなく、長い息継《いきつ》ぎで自然に腹式呼吸《ふくしきこきゅう》を覚え、脳《のう》も刺激《しげき》する」とのことで、各地の文化サークルで朗読の会が催《もよお》されている。

「最後の一句」に三軒家が

 さて、三軒家で朗読会を主催《しゅさい》している主婦の大牧比佐子さんは「大正区が文学にめったに登場しない」のは寂《さみし》しいことだと考えていたところ、大好きな森鷗外の「最後の一句」という短編《たんぺん》小説に今の三軒家あたりをモデルにした部分を見つけたのである。この小説は大正四年十月一日の中央|公論《こうろん》に載《の》ったもので、あらすじは、「元文元年(一七三六)の秋、大阪船乗り業《ぎょう》桂屋太郎兵衛の船が途中風波《ふうは》に合い、積《つ》み荷《に》の半分以上が流出《りゅうしゅつ》、船頭《せんどう》が残った米を金にして帰ってきたが、その金を秋田の米主《こめぬし》に返さなかった」「太郎兵衛は入牢《にゅうろう》し、木津川口で三日間さらした上、死罪に処せられることになった。
 その時、太郎兵衛の長女いち(十六歳)が自《みずか》ら願書《ねがいしょ》を書いて町奉行に父のふ命乞《いのちご》いを迫り、ついにその願いを貫徹《かんてつ》させた」というものである。

山辺丈夫《やまべたけお》と森鴎外

 大牧さんは大正区の歴史を調べていくなかで、鴎外と、かつて「木津川口」にあたる三軒家に紡績工場を開いた山辺丈夫が共に石州《せきしゅう》津和野《つわの》亀井藩《かめいはん》出身であることを知る。「鷗外が木津川口を登場させたのは山辺と関係があるかも知れない」と二人のつながりを調べたところ、阿倍野墓地《あべのぼち》の山辺の墓《はか》の碑文《ひぶん》を鷗外が書いていること、西成|郡《ぐん》三軒家|尋常《じんじょう》小学校(現大正東中)に「龍一《りゅういち》教室」があったことを知った。実際、山辺丈夫の墓をたずねると、龍一の墓が中央にあり一番立派でそのわきに丈夫らの墓があった。
 山辺丈夫はロンドン大学で経済学を学んでいるところを、国立第一銀行|頭取《とうどり》の渋沢栄一《しぶさわえいいち》に請《こ》われてマンチェスタ—に移り紡績|技術《ぎじゅつ》を身につけた。帰国二年後の明治十五年に完成した大阪紡績(後の東洋《とうよう》紡績)の工務《こうむ》支配人《しはいにん》になり二十四時間|操業《そうぎょう》のために発電機《はつでんき》を輸入《ゆにゅう》。六百五十|灯《とう》の電灯《でんとう》を見るために三日間で六万人の見物があったという。明治三十一年社長になる。その三軒家工場で明治二十二年十二月九日、当時八歳九カ月の長男龍一が事故で死に、翌年、丈夫夫妻は龍一が通っていた三軒家小に二階建五十平方メートルほどの「龍一教室」を贈《おく》った。

工場並ぶ町で人間史発掘

 しかし、紡績工場も「龍一教室」も昭和二十年三月十三日の空襲《くうしゅう》で消滅《しょうめつ》。当時の面影《おもかげ》は、ただ、三軒家公園に「近代紡績工場発祥の地」の記念碑が立つのみ。森鷗外が木津川口三軒家あたりを小説の舞台《ぶたい》にしたのは、山辺家との交流《こうりゅう》があったからではないか。
 また、子どもたちを主人公に選んだのは龍一への鎮魂《ちんこん》の思いからではないかと、私は推理するが、大牧さんはそこまでは語っていない。
 「高層《こうそう》ビルが並ぶ都心《としん》よりも工場や倉庫が多い大正区のようなところの方が、何やらほっとする、という人もいます。一見、文学とは無縁《むえん》に見えるこの町にも人間くさい歴史があったと知って私もほっとしています」と、大牧さんはかって新聞に話していた。
 実は、この大牧比佐子さんは、約四十年前、私がある病院で働いていた頃、新卒《しんそつ》の栄養士《えいようし》として病院に赴任《ふにん》してきた人。なつかしい人の近況《きんきょう》を知らせてくれた坂本氏にも感謝しておきたい。

参考】
・青空文庫・森鴎外「最後の一句」新字新仮名 
同 旧字旧仮名 

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第12回、第13回

◎京洛五条世継地蔵 家康…阿茶局…忠輝」

 今日の次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は京都市下京区の塩竈山上徳寺に来ている。京阪電車「五条駅」西に10分の所にある。
 由来には「慶長八年(一六〇三)徳川家康によって建立された。開基は上徳院殿(阿茶局)であり、開山は伝誉蘇生上人(阿茶局の叔父)である。当山建立にあたり、家康公は本尊に江州鞭崎八幡宮の中尊である安阿弥快慶の作、阿弥陀如来を招来し本尊とした。また、上徳寺の地蔵堂に安置し奉る世継地蔵は、明暦三年(一六五六)当山に建立されたものである。本堂の霊験あらたかな本尊に篤く帰依していた。
 一族の中に、八幡の清水氏という人がいた。一子を失い世継の子が恵まれますように念じて堂に参籠した結果、夢中に等身大の地蔵尊が現れ『我を石に刻み祈念すべし』と告げられた。早速にその尊像を石に刻み寺内に安置したところ、やがて立派な子が授かり、家運長久し子孫は繁栄した。以来、『世継地蔵』と称し信心の人々利生を受けることが多かった。今では『京のよつぎさん』と親しまれ各地より参拝者がある」と記されている。
 次郎が語る「今日のコースは友ちゃんが選んでくれたものだが『家康・阿茶局・世継』とあってびっくりした。でも、世継地蔵の建立が家康没(一六一六)後なので安心した」
 「なぜ?阿茶局は家康の側室なのでしょう」と友子。
 「家康は正妻築山殿の裏切りの後は正妻はもたず、側室は何人か居たがその中でも阿茶局は別格の扱いであった」
 次郎はつづける。彼女は元は今川家の家臣の未亡人で、大変な美人だったという。そもそも家康の側室達の主な任務は情報収集であり、阿茶局がその総括責任者であった。
 阿茶局《あちゃのつぼね》は家康の死後も秀忠の側近として活動しており、大坂冬の陣では使者として大坂城に乗り込んでいる。
 「また、彼女は家康の子を二人生んでいる」と友子。
 「そう、特に上の子忠輝は江戸城にて生まれ、年わずか十八歳にして高田五十五万石の領主となった。何の戦功もない彼には異例ともいえる禄高《ろくだか》で、家康はかれを少し偏愛していたらしい。その彼が、幕府旗本の弟を無礼だと言って殺した。家康はこれを怒り忠輝を上州藤岡に蟄居《ちっきょ》を命じ、その領地を没収した。家康が死の床にあるとき、忠輝の母の阿茶局がその罪を許してくれと頼んだが、家康は涙を流しながらも、結局は許さなかつた」と次郎は語った。
 「家康は身内に厳しかったのね。初めて知った」と友子。
 「家康は人気はなかったが、人々から信頼されていた。信長や秀吉に見られるような理屈にならない残虐な行為はなかった。理由なき処罰はしていない。全て法に基づいてやっている」と次郎はつづけた。
 「昔の法とは各家の『式目《しきもく》』のことね」と友子が問う。「たとえ殿様でも切り捨て御免とはいかなかったの?」「相手は直参《じきさん》旗本、家康の直属の家臣の弟だから、あいまいにはできなかったのだろう」と次郎が答える。
 「式目を専門につくる、今でいえば法律専門家もいた。式目の扱い如何によってはその家の運命も変わっていくわけだ。それにしても、家康も阿茶局も居なくなってから『世継地蔵《よつぎじぞう》』が由来の寺に現われるとは…」と次郎。「阿茶局が一番願っていたことの因縁か」
 今日の二人はお互いに子を持つ親として、手を合わせただ念ずるばかりなり。
 認知症の兄が最近よく次郎を息子と錯覚して、用事を言い付けるのでストレスがたまると、友子に愚痴る次郎。兄は今年で八十八歳の米寿《べいじゅ》。「六歳下の子どもってないわね」と友子がからかう。
 「…」と次郎。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年3月、4月号掲載

参考:Wikipedia 上徳寺

今昔木津川物語(023)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(一)

◎木津(中村)勘助《かんすけ》の実像《じつぞう》

 木津勘助、天正《てんしょう》十四年(一五八六)相州足柄山で新田義貞八代の孫として生まれる。姓は中村、父母とともに木津村(現在の浪速区大国町付近)へ移り住み、木津勘助と呼ばれる。

勘助島(三軒家《さんげんや》)で新田づくり

 慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)豊臣《とよとみ》、徳川《とくがわ》両家の間に風雲《ふううん》ただならぬものが漂《ただよ》いはじめ、豊臣方は木津川両岸一帯の防備《ぼうび》と軍船《ぐんせん》繋留場《けいりゅうば》の建設を行うこととし、勘助にその工事を命じる。
 勘助は、大勢の人夫を指揮して早々に工事を終え、豊臣方は勘助に感状をさずけ、以後、勘助の整備したこの島を勘助島と命名、また、民家三軒から出発したこの地を三軒家(現在の大正区)と呼び今に至っている。
 慶長十九年(一六一四)十月の大坂冬の陣、翌|元和《げんわ》元年五月の夏の陣により豊臣方は滅亡《めつぼう》。

東照宮《とうしょうぐう》創建《そうけん》の大役《たいやく》も

 徳川幕府は、家康《いえやす》の孫婿《まごむこ》にあたる伊勢亀山《いせかめやま》城主|松平忠明《まつだいらただあき》を十万石の大名として大坂に転封《てんぽう》させ、大坂復興に当らせた。
 忠明は勘助を呼び、直々《じきじき》に東照宮創建の大役を命じる。二年前にこの世を去《さ》った家康の威光《いこう》を大坂へ残すためである。
 命を受けた勘助は、候補地《こうほち》となった天満川崎村の住民を説得《せっとく》し、自《みずか》らが開発《かいはつ》した勘助島へ田地《でんち》を与えて移《うつ》らせ忠明の要請《ようせい》に応えた。

義人《ぎじん》勘助は実話か

 寛永《かんえい》十八年(一六四一)この年は天候のせいで大|凶作《きょうさく》。飢死《うえじに》する者道をふさぐありさまであったという。この窮状《きゅうじょう》を何とか救わんものと、勘肪は各村の庄屋《しょうや》らと奉行に日参《にっさん》して、貯蔵米《ちょぞうまい》の放出を陳情《ちんじょう》するも、奉行は、幕府の許しがないと応じてくれない。
 勘助はついに死を覚悟《かくご》して米蔵《こめぐら》を襲《おそ》い、五千余|俵《ひょう》を奪《うば》って窮民《きゅうみん》に分け与えるという最後の手段に出た。
その後勘助は、奉行所へ自首《じしゅ》。これまでの勘助の業績《ぎょうせき》があまりにも多いため、幕府に決裁《けっさい》を伺《うかが》う、それまで勘助島に蟄居《ちっきょ》という軽い処分《しょぶん》。しかし、米蔵破りから十九年経過した万治《まんじ》三年(一六六〇)幕府は、勘助の功績《こうせき》を認《みと》めたうえで、米蔵を破った罪科《ざいか》は極《きわ》めて重いとの理由で、斬死《ざんし》の刑《けい》を宣告《せんこく》、同年十一月二十二日に刑は執行《しっこう》され、七十五|歳《さい》の波乱《はらん》に富《と》んだ生涯を終えた。
 しかし一説には、「いくら勘助の勢力が強大でも、長時間にわたり幕府の貯蔵米五千俵を盗み出すのは不可能《ふかのう》だ、それは当時の役人が、幕府の命令を待《ま》って蔵出《くらだ》ししていたのでは間に合わない、そこで勘助の任侠《にんきょう》を見込んで瓷み出させた、だから勘助島|流刑《りゅう[ママ]る?けい》という味な処置になったのだ、戸籍《こせき》上、形式的には断罪《だんざい》として取り扱われたが、事実は平穏《へいおん》な余生《よせい》を送ったのだ」という。

別にお家|再興《さいこう》の悲願が

 そこで、私の推理《すいり》なのだが、木津川両岸における新田づくりの最盛期《さいせいき》は元禄《げんろく》の頃で、津守・加賀屋などすべて両替商《りょうがえしょう》などで大儲《おおもう》けした商人の新たな投資先《とうしさき》としてやられている。幕府には地代金《ちだいきん》が入ってくるし、後々《あとあと》年貢《ねんぐ》も取れるわけである。
 しかし、戦国《せんごく》の時代の新田づくりは主として隠匿《いんとく》武士の再起の拠点《きょてん》づくりとしてやられることが少なくなく、新田義貞八代目が事実とすれば、当然勘助の一家に従《したが》う一|族《ぞく》があったのではないか。豊臣方や松平忠明らの要請に応えられたのも、この勢力が背後に控《ひか》えていたからに違《ちが》いない。
 死後|没収《ぼっしゅう》された田地《でんち》は二十三町余、二百十五石で、当時の中位の村のほぼ一村の広さに近いというものであり、とうてい勘助一人でどうこうできるものではない。また当時、新田をつくっても一年にー、二戸位しか人が集まらなかったそうで、勘助が東照宮創建にあたって川崎村の住民をそっくり勘助島に移らせたことなどは、権力に便乗《びんじょう》しての住民集めともみられ、したたかな勘助のお家再興|戦略《せんりゃく》の一端《いったん》がかいまみられる。そんな勘助が、幕府の米蔵破りなどの暴挙《ぼうきょ》を血気《けっき》にはやってやるはずがない、と私は推理する。おそらく後世《こうせい》の芝居《しばい》の筋がつけ加えられて語りつがれてきたのだろう。
勘助が処刑《しょけい》された時代は幕府は慶安《けいあん》二年(一六四九)検地条例《けんちじょうれい》を出し、太閤検地《たいこうけんち》が六尺三寸平方を一歩としていたのを六尺一分平方にあらため、一層の年貢とりたてをねらい「慶安の触書《ふれがき》」を定《さだ》めている。
 勘助の処刑は、幕府による勘助島の田地没収と一族への弾圧が本当のねらいではなかったのではないか。
 江戸で起こった「慶安の変《へん》」(一六五一)の首謀者《しゅぼうしゃ》由井正雪《ゆいしょうせつ》も楠木正成《くすのきまさしげ》の子孫と称していた。封建《ほうけん》社会の秩序《ちつじょ》が強化され、浪人《ろうにん》が立身出世《りっしんしゅっせ》する余地《よち》のなくなってきたことへの不満は、大坂でも同じことであったはずだ。

【編者注】
同じテーマを扱った文章は、今昔西成百景(017)「木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社」 にもあります。

今昔西成百景(032)

◎天下茶屋の仇討

 「この地で慶長十四年備前の人林源次郎が父・兄の怨敵当麻三郎衛門を討ち本意を遂げたことは、後世天下茶屋の仇討として人口に膾炙されたものである。源次郎の父玄蕃は城主宇喜多秀家に主家の安危を諌めたが、奸臣長船紀伊守の忌むところとなり、長船は当麻三郎衛門をして夜ひそかに玄番の帰途を要して殺害せしめた。長船の悪計は露れて切腹を命ぜられたが、三郎衛門は出奔した。玄番に重三郎・源次郎のニ子あり、父の仇を報ぜんがため、母と下僕二人をつれて仇を求めて国を出たが、母は病んで没し、兄もまた下僕の裏切りから三郎衛門のために殺害された。源次郎は嘗て母の情けにより助命せられたもと同藩の士で、伏見の人形師幸右衛門に頼った。幸右衛門はひそかに木村重成に訴えた。重成これを憐れみ、たまたま淀君の住吉神社参拝の挙あり、大野治長これに従い、その臣となっていた三郎衛門もこれに倍していたので、その知らせを受けた源次郎は幸右衛門とともにその帰路を要して天下茶屋の地に父・兄の仇を報じたものであると伝えられている」(西成区政誌)

武士の「美徳」

 かたち討ち、あだ討ちとも呼ぶが、江戸時代は忠孝の精神にもとづく慣習として手続きをふめば公認された。儒教の影響で、武士の道徳的義務にもなっていた。江戸時代だけでも件数は百件以上に達したといわれているが、実際にははるかに多かったと思われる。
 天下茶屋の仇討ちは、関ヶ原の合戦で西軍が敗北して、豊臣家は二百万石から六十五万石に転落し、一方徳川家康は朝廷から征夷大将軍を贈られ、江戸に幕府を開いて六年目に起こっている。木村重成と大野治長は共に慶長一九年の大阪冬の陣慶長二十年の夏の陣でも一貫して豊臣方の総大将となり、淀君・秀頼と運命を同じくした最も忠実な西国大名である。

豊臣家の復権に

 天下茶屋の仇討ちのあった時は、豊臣家は転落はしたものの、関ヶ原の合戦はいちおう豊臣家は無関係ということで逃げられたとしており、お家再興に幻想をまだもっていたころであった。木村重成と大野治長はこの仇討ちを最大限に利用して、豊臣秀吉ゆかりの殿下茶屋-天下茶屋の名を一世に風靡させると同時に、仇討ちに実質的に助太刀した豊臣グループのイメージアップを計ろうとしたことは、十分考えられることだと思う。事実天下茶屋の名は仇討ち事件によ って一層有名になったといわれている。

仇役が立派な墓に

 ところが意外なことに、今日現場に残されているのは悪人・当麻三郎右衛門の墓だと伝えられる立派な宝塔なのである。場所は天神の森天満宮の境内だが、説明によれば、昭和三十三年まで南へ五 十米の住吉街道沿い「くやし橋」のたも とに建てられていたのが、道路拡張のた め移転したとのこと。「くやし」というのも、当麻三郎右衛門が思わず叫んだ言葉から由来しているとのことだ。
 しかも不思議なことに、「墓」の建立されたのは文政十二(一八二八)と文政十三年のことであり、事件からは実に二二〇年後なのである。

庶民こそ被害者

 結局徳川幕府としては、天下茶屋の仇 討ちが豊臣グループによって演出されたことが、気にいらないということなのだろう。仇討ちは美徳なり、が徳川幕府の 方針だとすれば矛盾は余計に大きくなってくる。
 徳川側による豊臣の残党にたいする追討は、徹底して冷酷なものだった。豊臣びいきは大阪に多く残った。弱いものに 味方する判官びいきの感情は、庶民に共通するものである。しかし、織田・豊臣・ 徳川という三人の独裁者によって命を奪われた、無数の名もなき人々にこそ、哀悼の意が表されるべきではないか。