◎京洛五条世継地蔵 家康…阿茶局…忠輝」
今日の次郎と友子の「びっくり史跡巡り」は京都市下京区の塩竈山上徳寺に来ている。京阪電車「五条駅」西に10分の所にある。
由来には「慶長八年(一六〇三)徳川家康によって建立された。開基は上徳院殿(阿茶局)であり、開山は伝誉蘇生上人(阿茶局の叔父)である。当山建立にあたり、家康公は本尊に江州鞭崎八幡宮の中尊である安阿弥快慶の作、阿弥陀如来を招来し本尊とした。また、上徳寺の地蔵堂に安置し奉る世継地蔵は、明暦三年(一六五六)当山に建立されたものである。本堂の霊験あらたかな本尊に篤く帰依していた。
一族の中に、八幡の清水氏という人がいた。一子を失い世継の子が恵まれますように念じて堂に参籠した結果、夢中に等身大の地蔵尊が現れ『我を石に刻み祈念すべし』と告げられた。早速にその尊像を石に刻み寺内に安置したところ、やがて立派な子が授かり、家運長久し子孫は繁栄した。以来、『世継地蔵』と称し信心の人々利生を受けることが多かった。今では『京のよつぎさん』と親しまれ各地より参拝者がある」と記されている。
次郎が語る「今日のコースは友ちゃんが選んでくれたものだが『家康・阿茶局・世継』とあってびっくりした。でも、世継地蔵の建立が家康没(一六一六)後なので安心した」
「なぜ?阿茶局は家康の側室なのでしょう」と友子。
「家康は正妻築山殿の裏切りの後は正妻はもたず、側室は何人か居たがその中でも阿茶局は別格の扱いであった」
次郎はつづける。彼女は元は今川家の家臣の未亡人で、大変な美人だったという。そもそも家康の側室達の主な任務は情報収集であり、阿茶局がその総括責任者であった。
阿茶局《あちゃのつぼね》は家康の死後も秀忠の側近として活動しており、大坂冬の陣では使者として大坂城に乗り込んでいる。
「また、彼女は家康の子を二人生んでいる」と友子。
「そう、特に上の子忠輝は江戸城にて生まれ、年わずか十八歳にして高田五十五万石の領主となった。何の戦功もない彼には異例ともいえる禄高《ろくだか》で、家康はかれを少し偏愛していたらしい。その彼が、幕府旗本の弟を無礼だと言って殺した。家康はこれを怒り忠輝を上州藤岡に蟄居《ちっきょ》を命じ、その領地を没収した。家康が死の床にあるとき、忠輝の母の阿茶局がその罪を許してくれと頼んだが、家康は涙を流しながらも、結局は許さなかつた」と次郎は語った。
「家康は身内に厳しかったのね。初めて知った」と友子。
「家康は人気はなかったが、人々から信頼されていた。信長や秀吉に見られるような理屈にならない残虐な行為はなかった。理由なき処罰はしていない。全て法に基づいてやっている」と次郎はつづけた。
「昔の法とは各家の『式目《しきもく》』のことね」と友子が問う。「たとえ殿様でも切り捨て御免とはいかなかったの?」「相手は直参《じきさん》旗本、家康の直属の家臣の弟だから、あいまいにはできなかったのだろう」と次郎が答える。
「式目を専門につくる、今でいえば法律専門家もいた。式目の扱い如何によってはその家の運命も変わっていくわけだ。それにしても、家康も阿茶局も居なくなってから『世継地蔵《よつぎじぞう》』が由来の寺に現われるとは…」と次郎。「阿茶局が一番願っていたことの因縁か」
今日の二人はお互いに子を持つ親として、手を合わせただ念ずるばかりなり。
認知症の兄が最近よく次郎を息子と錯覚して、用事を言い付けるのでストレスがたまると、友子に愚痴る次郎。兄は今年で八十八歳の米寿《べいじゅ》。「六歳下の子どもってないわね」と友子がからかう。
「…」と次郎。
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2017年3月、4月号掲載