今昔木津川物語(023)

西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(一)

◎木津(中村)勘助《かんすけ》の実像《じつぞう》

 木津勘助、天正《てんしょう》十四年(一五八六)相州足柄山で新田義貞八代の孫として生まれる。姓は中村、父母とともに木津村(現在の浪速区大国町付近)へ移り住み、木津勘助と呼ばれる。

勘助島(三軒家《さんげんや》)で新田づくり

 慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)豊臣《とよとみ》、徳川《とくがわ》両家の間に風雲《ふううん》ただならぬものが漂《ただよ》いはじめ、豊臣方は木津川両岸一帯の防備《ぼうび》と軍船《ぐんせん》繋留場《けいりゅうば》の建設を行うこととし、勘助にその工事を命じる。
 勘助は、大勢の人夫を指揮して早々に工事を終え、豊臣方は勘助に感状をさずけ、以後、勘助の整備したこの島を勘助島と命名、また、民家三軒から出発したこの地を三軒家(現在の大正区)と呼び今に至っている。
 慶長十九年(一六一四)十月の大坂冬の陣、翌|元和《げんわ》元年五月の夏の陣により豊臣方は滅亡《めつぼう》。

東照宮《とうしょうぐう》創建《そうけん》の大役《たいやく》も

 徳川幕府は、家康《いえやす》の孫婿《まごむこ》にあたる伊勢亀山《いせかめやま》城主|松平忠明《まつだいらただあき》を十万石の大名として大坂に転封《てんぽう》させ、大坂復興に当らせた。
 忠明は勘助を呼び、直々《じきじき》に東照宮創建の大役を命じる。二年前にこの世を去《さ》った家康の威光《いこう》を大坂へ残すためである。
 命を受けた勘助は、候補地《こうほち》となった天満川崎村の住民を説得《せっとく》し、自《みずか》らが開発《かいはつ》した勘助島へ田地《でんち》を与えて移《うつ》らせ忠明の要請《ようせい》に応えた。

義人《ぎじん》勘助は実話か

 寛永《かんえい》十八年(一六四一)この年は天候のせいで大|凶作《きょうさく》。飢死《うえじに》する者道をふさぐありさまであったという。この窮状《きゅうじょう》を何とか救わんものと、勘肪は各村の庄屋《しょうや》らと奉行に日参《にっさん》して、貯蔵米《ちょぞうまい》の放出を陳情《ちんじょう》するも、奉行は、幕府の許しがないと応じてくれない。
 勘助はついに死を覚悟《かくご》して米蔵《こめぐら》を襲《おそ》い、五千余|俵《ひょう》を奪《うば》って窮民《きゅうみん》に分け与えるという最後の手段に出た。
その後勘助は、奉行所へ自首《じしゅ》。これまでの勘助の業績《ぎょうせき》があまりにも多いため、幕府に決裁《けっさい》を伺《うかが》う、それまで勘助島に蟄居《ちっきょ》という軽い処分《しょぶん》。しかし、米蔵破りから十九年経過した万治《まんじ》三年(一六六〇)幕府は、勘助の功績《こうせき》を認《みと》めたうえで、米蔵を破った罪科《ざいか》は極《きわ》めて重いとの理由で、斬死《ざんし》の刑《けい》を宣告《せんこく》、同年十一月二十二日に刑は執行《しっこう》され、七十五|歳《さい》の波乱《はらん》に富《と》んだ生涯を終えた。
 しかし一説には、「いくら勘助の勢力が強大でも、長時間にわたり幕府の貯蔵米五千俵を盗み出すのは不可能《ふかのう》だ、それは当時の役人が、幕府の命令を待《ま》って蔵出《くらだ》ししていたのでは間に合わない、そこで勘助の任侠《にんきょう》を見込んで瓷み出させた、だから勘助島|流刑《りゅう[ママ]る?けい》という味な処置になったのだ、戸籍《こせき》上、形式的には断罪《だんざい》として取り扱われたが、事実は平穏《へいおん》な余生《よせい》を送ったのだ」という。

別にお家|再興《さいこう》の悲願が

 そこで、私の推理《すいり》なのだが、木津川両岸における新田づくりの最盛期《さいせいき》は元禄《げんろく》の頃で、津守・加賀屋などすべて両替商《りょうがえしょう》などで大儲《おおもう》けした商人の新たな投資先《とうしさき》としてやられている。幕府には地代金《ちだいきん》が入ってくるし、後々《あとあと》年貢《ねんぐ》も取れるわけである。
 しかし、戦国《せんごく》の時代の新田づくりは主として隠匿《いんとく》武士の再起の拠点《きょてん》づくりとしてやられることが少なくなく、新田義貞八代目が事実とすれば、当然勘助の一家に従《したが》う一|族《ぞく》があったのではないか。豊臣方や松平忠明らの要請に応えられたのも、この勢力が背後に控《ひか》えていたからに違《ちが》いない。
 死後|没収《ぼっしゅう》された田地《でんち》は二十三町余、二百十五石で、当時の中位の村のほぼ一村の広さに近いというものであり、とうてい勘助一人でどうこうできるものではない。また当時、新田をつくっても一年にー、二戸位しか人が集まらなかったそうで、勘助が東照宮創建にあたって川崎村の住民をそっくり勘助島に移らせたことなどは、権力に便乗《びんじょう》しての住民集めともみられ、したたかな勘助のお家再興|戦略《せんりゃく》の一端《いったん》がかいまみられる。そんな勘助が、幕府の米蔵破りなどの暴挙《ぼうきょ》を血気《けっき》にはやってやるはずがない、と私は推理する。おそらく後世《こうせい》の芝居《しばい》の筋がつけ加えられて語りつがれてきたのだろう。
勘助が処刑《しょけい》された時代は幕府は慶安《けいあん》二年(一六四九)検地条例《けんちじょうれい》を出し、太閤検地《たいこうけんち》が六尺三寸平方を一歩としていたのを六尺一分平方にあらため、一層の年貢とりたてをねらい「慶安の触書《ふれがき》」を定《さだ》めている。
 勘助の処刑は、幕府による勘助島の田地没収と一族への弾圧が本当のねらいではなかったのではないか。
 江戸で起こった「慶安の変《へん》」(一六五一)の首謀者《しゅぼうしゃ》由井正雪《ゆいしょうせつ》も楠木正成《くすのきまさしげ》の子孫と称していた。封建《ほうけん》社会の秩序《ちつじょ》が強化され、浪人《ろうにん》が立身出世《りっしんしゅっせ》する余地《よち》のなくなってきたことへの不満は、大坂でも同じことであったはずだ。

【編者注】
同じテーマを扱った文章は、今昔西成百景(017)「木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社」 にもあります。

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