照る日曇る日(004)


 まだ、運転免許を保有していた頃、和歌山県の新宮市まで出かけた事があった。車窓右手に太平洋を見ながら、長い旅路をひたすらはしりつづけた。
 新宮は、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の地。(写真は Wikipedia から)その信仰では、僧侶が、小舟で、浄土をめざしたが、そのほとんどがそのまま帰らぬ身であった。
 また彼の地には、秦の始皇帝が不老不死の薬を所望し、日本に遣わせたとされる徐福伝説が残っている。詩人の佐藤春夫作詞の新宮市歌のなかにも「徐福もこゝに来たりとか」とある。新宮人の根底には、海を隔てた異国への憧れも深いようだ。
 明治後期、この地で、医業を営んだのが、大石誠之助。ドクトルは「毒取る」と親しまれ、「貧しい人からはお金を取らない。そのぶん、金持ちから多めにとる。」との診療スタイルのかたわら、「太平洋食堂」と名づけ子どもたちなどに食事提供する施設を開設した、今で言う「無料低額診療」、「子ども食堂」や「デイケア」の偉大な先駆けである。
 「医者をやっとったら、貧しい者、虐げられている者、 苦しんでいる者がおるのがいやでも目に入ってくる。…その現実から目を背け、手をこまねいて生きていけるもんやろか?」というのが、彼の信条であった。
 やがて、幸徳秋水らの社会主義者と面識を深め、その結果、「大逆事件」という、山県有朋をはじめとする、時の為政者による卑劣なフレームアップ(謀略)で、刑場の露と消えた。
 「みなの頭の上に、よく晴れた秋空がひろがっている。川が流れ、海へと流れ込む。そこはもう、太平洋だ。」(柳広司「太平洋食堂」(小学館文庫)より)
 彼の願いは、残念なことに一旦途絶えたようにも見えるが、今になり、新たな形で実現している、そんなことを考えながら、太平洋(パシフィック・オーシャン=平和な大海)をゆっくり眺めてみたいと心から思う。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年9月号搭載予定

照る日曇る日(003)


 今年は戦後八十年、もちろん、戦時の体験はなく亡祖父母や父母から当時のことを聞いたくらいだ。しかし、「あんなことはなかった」と虚言し、戦争責任・犯罪を免罪する言論が目立つような昨今、以前に書いた、ある軍人の話を再構成することにした。

 その名は、木村久夫、戦没学徒の手記を集めた「きけわだつみのこえ」という文集の掉尾に、白眉の遺書がある。実は私が卒業した豊中高校(当時は豊中中学)の先輩であり、一時は第四高等学校(現在は金沢大学教養学部)を志望したとあるから、実現していたら重ねての先輩でもある。

 京大経済学部に入学した氏は、学業半ばにして出征、インド洋に浮かぶカーニコバル島に配属され、通訳業務にあたったが、終戦直前に起こった上官による住民虐殺の罪をかぶる形で連座し、連合国側により絞首刑に処せられた。その獄中で哲学書の余白に書かれたのが遺書である。

 「日本の軍人は…私達の予測していた通り矢張り、国を亡ぼした奴であり、凡ての虚飾を取り去れば私欲の他に何物でもなかった。…大東亜戦以前の陸軍々人の態度を見ても容易に想像される所であった。…彼等の常々の広告にも不拘(かかわらず)、彼等は最も賎しい世俗の権化となっていたのである。それが終戦後明瞭に現れて来た。…」

 後に発見された文には、さらに鋭い軍部批判がある。

 「軍人が常々大言壮語して止まなかった忠義、犠牲的精神、其の他の美学麗句も、身に装う着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首相がある。更に彼の終戦において自殺(未遂)は何たる事か。無責任なる事甚だしい。之が日本軍人の凡てであるのだ。」

 彼の示した学問の力を支えにした歴史に対する深い洞察が、私たちに託した財産だと思えてならない。

 写真は、高知高校時代の木村久夫氏と、遺書が書かれた哲学書。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年8月号搭載

照る日曇る日(002)


 私は、京都の下町で生まれ育った。そのうち、「生誕の地」の碑が建つかもしれない。更迭された大臣の放言をまねて、「コメは一度も買うたことないわ。売るほどあるさかい!」と、小さいながら米屋を営んでいた祖父の声が聞こえてくる気もする(笑)。
 1才過ぎたころ、突然ひきつけて、今でいう熱性けいれんだろう、生まれた長屋の路地の入り口にあった、眼科の医院に母が担ぎ込んだ。さぞ、その医者は、面食らったことだろう。少し離れた所には、評判の高かった小児科医、松田道雄先生がおられた。医師としての仕事のかたわら、育児書も執筆、岩波新書の「私は二歳」は、代表作の一つで、それを1962年に映画化したのが、市川崑監督。山本富士子、船越英二など当時のそうそうたる俳優陣が出演している。
 「高度成長時代」にさしかかり、団地の造成の一方で嫁姑がやむなく同居という時代背景。映画は、あくまで子どもの眼で、子育ての現実を描いている。子どもから見ると、この世間が、幾多の理不尽なことがまかり通っているのか?その批評はなかなか手厳しい。
 医療生協の各エリアで、映画鑑賞を企画するような班会があれば、当方、ブルーレイでの手持ちがあるので、ご連絡いただければ幸いである。
 浦辺粂子演ずる祖母が亡くなり、子どもがじっと見つめるお月さんに、その顔が浮かび上がるシーンがことに印象的。この祖母役を観ていると、母親に内緒で、漫画を買ってくれた「ばあちゃん」や、高校野球で平安高校が負けると機嫌が悪くなる「じいちゃん」が思い浮かぶ。二人はよくケンカしたが、それでも正月など大勢が集まると、笑顔を見せてくれたことを今でも思い出す。画像は金魚すくいに夢中な二歳児。ちなみに私はどんくさくて、いつもすぐポイを破るので、店のおっちゃんが同情して金魚を一匹くれたものだ。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年7月号搭載

照る日曇る日(001)

 がもう健さんの「西成百景」から続く「郷土史シリーズ」も手持ちの原稿はすべてアップしました。また、続編があれば、投稿予定ですが、ひとまずは終了です。長年のご愛読に感謝するとともに、2025年6月号から、連載をはじめました「照る日曇る日シリーズ」を順次掲載してゆきますので、よろしくお願いします。

 今まで、溜めた雑文の中や、新しく書き起こしたものやら、「照る日曇る日」と名付け、老小児科医の繰り言を連載することにした。しばし、お付き合いをお願いする。
 医者のシンボルと言えば、首にかけた聴診器が真っ先にあげるだろう。以前、ある雑誌に、その聴診器にまつわる、当方の思いを書いたが、今回は、その補足である。
 一昨年まで、複数の保育園児の健診を担当していたが、昨年で、お役御免となった。その時の、エピソードから…
 年長児(5-6才クラス)は、健診でのさいごの機会となる。そこで、なにかちょっとした企画をすることにしていた。やや「セクハラ」気味だが「チュー」しようか、「ハグ」しようか、と提案しても、なかなか園児の賛同が得られない。そこで、この数年来、「自分の心臓の音を聞いてみようか?」というと、診察に使っていた聴診器を自分の耳にかけたがる。子どもの手をとり、心臓の上に当ててあげる。「聞こえたかな?」「ウン、ウン」「そうだよ、自分の『心(こころ)』を聴いてるんだ。もし、将来、この中から、医師になる子が出てきたら、そういうお医者さんになるんだよ」と、そっと願ってみていた。
 健診の診察票に、保護者の質問コーナーがある。そこに「将来、医師になるためには、今何をすればいいですか?」と書かれた方がおられた。「うーーん、困った、強いて言えば、仲間と、うんと遊ぶことかな?」、こんな答えでよかったかな?
 写真は、病児保育室での「聴診実習」の様子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年6月号搭載