照る日曇る日(013)

 三つの医療生協が合併、大阪きづがわ医療福祉生協の誕生から、まる14年たった。そこで第一回の総代会で話したことを再構成してみた。

「今の時代が、未来に微かな希望の光りが見えているとはいえ、それにもまして、暗雲も立ちこめるといった混沌の時代であります。また、百年、二百年に一度というべき激動の時代が始まるのではとも思っています。
 ここで、時間軸を二百年くらい遡ってみると、この総代会の会場の周辺は、大坂商人の町家が立ち並ぶ殷賑の地、経済・文化の発信地でありました。その中では、今はもう総代会場横に記念碑(写真)としか残っていない、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)という「あきんど」が作り上げた一大サロンは特筆すべき歴史的伝統です。そのサロンは、「クレオパトラの遺物」と称する収集品などにとどまることなく、見事なまでに、人と人とのつながり、ネットワークだったのです。東京(江戸)人は、大阪(大坂)のことをめったに誉めませんが、芥川竜之介は、木村蒹葭堂のことを称賛しています。
 こうした歴史的伝統を破壊し、人びとのつながりを断ち切ろうとしている為政者をいだいている所に、現在の大阪の大きな病弊があると思います。
 さて、三月十一日(いわずとしれた「東日本大震災」)以降、医療生協も震災被災地の人びととのさまざまなネットワークを作って来ました。この場にふさわしい表現ではないかもしれませんが、今から百年、二百年経てば、私たちは歴史の闇に消え去ることでしょう。木村蒹葭堂がそうであったように、形あるものはやがて潰えてしまいます。しかし、人と人との確固としたつながりは、歴史として受け継がれます。混沌とした今だからこそ、歴史を一歩でも前に進めるべく、ともにがんばりましょう。」

 写真の説明、木村蒹葭堂の記念碑、蒹葭は、『あし』の草のこと。その頃は、商家の間際まで『あし』が覆い茂っていたのだろう。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年6月号搭載

照る日曇る日(012)

 この連載も、はや1年、実は、密かに狙っていることがある。元理事長のがもう健さんの郷土史エッセーは、府会議員時代の政策ビラから始まり、機関紙「みらい」での、「びっくり史跡巡り」まで、30年、200回以上続いていたが、「がもう健を超えろ!」との気概だけはある(笑)。草稿を、がもう健さんに見せたところ、「着眼点がよろしい」と、お褒めの言葉を頂いた。
 そこで、今回は意を強くし、「今昔堺物語」の続編を少々…

 千利休に比べて、堺の商人の家で生まれた戦国大名小西行長の足跡はあまり知られていない。社会的弱者の救済にも尽力したとされる痕跡は何も残っていない。屋敷跡の標識も、幹線道路沿いにひっそりと佇んでいるだけである(写真)。作家遠藤周作は「鉄の首枷(くびかせ)」で行長の評伝を書いた。遠藤も現在の堺に嫌悪感を隠さないが、わずかに北旅籠町の商家、旧堺港や南宗寺そばの環濠跡に面影が残っていると言う。
 行長は、彼の一族の言わば「打算的」な思惑で、キリスト教の洗礼を受けた。のちに、秀吉の配下に入り、瀬戸内海の島々や、九州肥後半国の領主となる。その間に、熱心なキリシタン大名の高山右近とも昵懇になり、自身の信仰もより確かなものになったようだ。秀吉のキリシタン追放令の際には、高山右近を小豆島にかくまったりもした。やがて、朝鮮侵略である文禄・慶長の役では、その最前線に立たされた。ひいき目にみれば、行長自身は「和戦両面」のスタンスであり、太閤には面従腹背であったが、「和平工作」も秀吉の醜悪な野望の前では潰えざるをえなかった。秀吉子飼いの武将、加藤清正とも、全く反りが合わなかったようだ。
 時は流れ、関ヶ原の戦い、行長は、家康に対抗して、石田三成に味方した。その動機は様々に推測されるが、徳川の世では、いずれ「鎖国」となり、彼の夢である異国との自由な交易、交流ができないと思ったのだろうか?何よりも心のうちにあった「首枷=おのれの野心」から解放を願ったが、それが叶うのは、彼の最期のときであったのだ。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年5月号搭載

照る日曇る日(011)

「<子供の誕生>」という、大部な著作がある。作者はフランスの歴史学者、アリエス。原題は少し違うが、邦訳では、題名はこのようになっており、抜群のネーミングだと思う。考えれば、子どもは誕生するのが当たり前のようだが、実は、「子ども」という考えの枠組みができたのは、近代以降だったというのが本書の主旨である。かつて子どもは<小さな大人>として認知され社会の共同の場に属しており、大人なみの働きぶりを強要された。しかし近代に入って、主として教育の制度は、子どもへの特別の配慮をもたらした。この考え方は、医学では「子どもは小さな大人ではない」とする小児科学の勃興、発展、また世界保健機構の児童権利宣言や日本の児童憲章につながってゆくのである。
 こうした歴史を見ていると、ユゴー作「レ・ミゼラブル(ああ無情)」の登場人物が浮かんでくる。彼女・コレットは、「シングルマザー」の児として生まれ、その養家で、幼いときからこき使われる。こうした境遇のなか、小説の主人公、ジャン・バルジャンに拾われ、養女となり、小説の結末では、ジャンの最期を看取ることとなる。子どもが人として正当に扱われるよう心がけられるのは、ユゴーが、描き告発した時代より少し後の話であるが、子どもの「ミゼラブル(悲惨)」な現実は、戦火、貧困や差別など現在も形を変えて存在していると言わざるを得ない。
 日本での、とりわけ江戸時代からの「子ども観」は、また別の話題であり、機会があれば触れてみたい。
 図は、1879年 – 1882年出版のユーグ版のために描かれた木版画(Wikipedia より)

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年4月号搭載

照る日曇る日(010)

 マルクスは、こんなことを言っている。
「おとなは二度と子どもになることができず、できるとすれば子どもじみた姿になるだけである。とはいえ、子どもの天真爛漫は、おとなを喜ばせる。そしておとなが、今度は自分たち自身で、より高次の段階において子どものもつ素直さを再生産するよう努力しよう!」(経済学批判序説ー一部改変)
 含蓄(がんちく)のある言葉である一方で子ども時代に戻れない寂しさをとみに感じるが、せめて、親や祖父の努めとして、次の世代に何かを残して置きたいとも思う。そんな願いを表す手段の一つに、「母子手帳」がある。
 ふだん何気なく使っているが、それなりの歴史がある。もともとは、戦前のドイツで始められたものを見習い、同時期の日本では、「妊産婦手帳」としてつくられたものだ。当時の日本は、「妊娠中の養生に心がけて立派な子を生み、お国に尽くしましょう。」とするような風潮であった。それが、戦後になり、厚生省(当時)や小児科関係者の努力により、大きく変えられた。写真左は、初代母子手帳の表紙であるが、はて誰のであろうか?(笑)
 現在では、日本の母子手帳をモデルに、東南アジアなどにも広がって、乳幼児死亡率の低下、衛生環境の向上に役立っている。日本でも、発足当時からは、母子手帳も改定を重ねられた。こんにちでは、ワクチンの数や種類も大きく変わり、母子手帳は、接種の日程調整に役立っている。それに加えて、西成民主診療所では、つぎの接種予定を書いたタグシールを手帳に貼り、保護者に重宝がられている。(写真右)
 「デジタル」化した「母子手帳」も、それはそれで便利かもしれないが、自筆で記入した母子手帳で、わが子の成長の足跡を振り返るのは、親としてのかけがえのない楽しみであるだろう。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年3月号搭載

 

照る日曇る日(009)

 昨年末、NHK 大河ドラマ「べらぼう」は終わった。田沼意次や松平定信をはじめとする幕府重臣や、その頃の作家(戯作者)、浮世絵師などの人間関係がややこしく、筋を追うだけで精一杯で、興が削がれたのも事実である。「吉原」という遊郭街での登場人物の描き方も、「ジェンダー」という現代的な視点では頂けないと感じることも少なくなかった。主人公蔦屋重三郎(彼の病気のもととなった「脚気」については後日触れることもあろう。)の「耕書堂」への寄稿者の一人に、滝沢(曲亭)馬琴がいた。その因縁なのか、昨年12月16日の赤旗潮流欄に、馬琴と交流のあった、江戸時代の女流作家・只野真葛ただのまくず紹介文が載っていた。

「何のために生まれ出づらん。女一人の心として、世界の人の苦しみを助けたくおもうことは、なしがたきの一番たるべし。これをうたてしく(情けなく)おもう故に、昼夜やすき心なく、苦しむぞ無益なり」

 真葛の一文である。「潮流」欄には、馬琴との関わりは軽く触れていたが、二人の文通は一年にわたったのだから、馬琴も真葛の才能はそれなりに評価していたのだろう。でも、その頃の儒教道徳に、ある意味り固まっていた馬琴とは所詮しょせんは相容れぬものであった。
 その頃の外国事情にも明るく、仙台藩の藩医であった工藤平助の長女として彼女は生まれた。少女期には、女医やオランダ語通詞つうじになりたいと願ったが、父親から、ことごとく反対された。その父は、頑迷一本ではなく、娘に学問への道を用意し、それなりに大事にはしたが、当時の封建価値観の限界内であった。
 前述の文は、後年にその感慨を述べたものだが、彼女の一生は、自らの感性を大事にしながら、しかも「世間」への批評、忌憚きたんのない提言を失わないものであった。こうした「ジェンダー平等」は、男女を問わず「時代を超える」先駆者たるに相応ふさわしいものではなかろうか?

写真】Wikipedia・「只野真葛」の項、「葛の葉と花」
参考】永井路子「葛の葉抄」PHP文庫

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2026年2月号搭載

照る日曇る日(008)ー新年の挨拶

みなさん、あけましておめでとうございます。


 今年は、どんな年になるでしょうか?新年に相応しくはありませんが、NHK の現在放送中の朝ドラ「ばけばけ」での主題歌に以下のような一節があります。

日に日に世界が悪くなる
気のせいかそうじゃない
そんなじゃダメだと焦ったり
生活しなきゃと座ったり

 医療・介護を巡る状況も、なかなか厳しく、今年は更に輪をかけたものになることも予想されますが、その中でも、ユーモアのある人情味溢れた医療・介護を提供してゆきたいと思いますのでよろしくお願いします。皆さんにとって夢のある一年になりますよう心から願っています。
 ・1月26日追加 赤旗潮流欄に、主な主題は「散歩」の効用であるが、「ばけばけ」の主題歌について触れられていた(赤旗コラム「潮流」)。

2026年1月号大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に掲載の「照る日曇る日」です。

 年始で、ほかに特集記事もあることから、今回は軽い話題…
その1)
 昨年の冬至の日に、スーパーマーケット前で出会った、母と兄弟3人連れ、買い物の中に。かぼちゃと柚子が入っていた。6才くらいの兄がママに
― 今日は、おふろにかぼちゃ浮かべるンか?
かぼちゃ湯も一案だが、とすると、おかずは、柚子の「たいたん」になるのかな?
その2)
 このころになると、診療中の子どもと自然とお正月の話題になる。
― Gちゃんと、センセはお友だちになろうか?
― うん。
― お友だちやったら、困っている時、助け合わな、あかんやろ!そんで、ちょっと相談やがな、お正月に「お」のつくもん、もうたやろ!
― お年玉や!
― そしたら、センセがお金のーて、お昼ご飯も食べられへんで、おなかペコペコの時、 助けてや!お金貸してや!スマホに電話するわ!
― ………
 かくして、わがチャイルドビジネスは、今年も始まるのである。

 図は。三谷看護師が描くかぼちゃとゆず。かぼちゃ、うまそうだな!

照る日曇る日(007)


 今年は、太平洋戦争から84年、先々月に終了した朝のNHKドラマ「あんぱん」では、出征する主人公嵩の「壮行会」が放映された。今まで息子をあまり顧みなかった松嶋菜々子演ずる母親の「生きて帰ってきて!」という叫びがあるのが見せ場であった。そこで、なぜその場面が印象的なのかを、やや「理屈」っぽく(笑)考えてみた。
 ドイツの劇作家ブレヒトが提唱した演劇理論に「異化効果」というのがあるが、まさにこれに当たるだろう。くわしい語句の説明は、AIくんに、お任せするが、学生時代に拙いながら芝居つくりにいそしんだ身で、自分勝手に少し芝居のセリフを整理すると、
 1)まともな人がまともなことを言う
 2)まともでない人がまともでないことを言う
 3)まともな人がまともでないことを言う
 4)まともでない人がまともなことを言う
 の場合、観客が「なるほど」と理解が深まるのは、1)から4)の順で高くなる。今回の母親の訴えは、4)に該当する。突然東京から高知へ現れた非現実感は無視されても、である。過去の母親の否定的な演技表現は、その伏線であったのだ。加えて、のぶの夫が出航前につぶやく「日本は、この戦争に勝てるとは思わない」は、1)にあたり、普通なら面白くもなんとないのだが、この場合は「異化」を、より効果的にしているのは心憎いほどだ。「反戦作品」として世評が高かったのは肯けよう。
 余談だが、診療所での診察では、大部分は1)で終始するが、ごくたまに、2)から4)のシーンに遭遇しないとは限らない。少々の「猜疑心」を抱きながら(苦笑)、患者さんの話を聞くとは、つくづく因果な商売である、
 やなせたかしは、戦後の高知新聞記者時代、日本共産党の代議士、山原健二郎とも交流があり、大逆事件で冤罪となった人たちのインタビュー記事を書いた。「戦争はいやだ」とする原点は、戦時中から一生涯変わらなかったのだ。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2025年12月号搭載

照る日曇る日(006)


 少し硬い話が続いたので、息抜きに病児保育室「まつぼっくり」のエピソードなどから、短く…
 微妙に熱が続いているが元気な 3才児のS君、先日は、片足で立って、なにやら「◆◇☓△◯!」と号令をかける。今更、王貞治の一本足打法や「おそ松くん」の「シェー」でもあるまいに、と思っていたが、後から考えると、かけ声は「フラミンゴ」だと思いついた。そこで今度は改めてカメラの前でポーズ、「一本足のフラミンゴ!」
 ついでに、わが孫の「シェー」、それとも、ピンクレディーのつもりかな?

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2025年11月号搭載

照る日曇る日(005)

 森鴎外は、明治から大正にかけての文豪、医者としては大先輩でもある。前回触れた「大逆事件」の結末にも、ある程度批判的な見解を持っていたが、山県有朋とも知己があり、評論などでは韜晦とうかいな表現に止めざるを得なかったようだ。
 そんな彼の子どもが、二人、百日咳にかかったことがある。1歳にもならない弟は命を落とし、姉も重篤な状態であった。その姉への対処で、「安楽死」問題が持ち上がった。幸い奇跡的に命をとりとめるが、安楽死を容認したのは、鴎外本人だったのか、誰だったのか、鴎外の二人の娘で異なった見解があり、今では大きな謎である。
 抗生物質もワクチンもなかった明治時代には、百日咳は恐れられていたが、実は今も根本的には変わっていない面もある。病院勤務時代、「普通の咳」を主訴に生後1ヶ月の子どもが、受診、念の為に、検査の指示をだした途端、処置室から看護師の「せんせ~!この子、息していない!」との悲鳴があがった。すぐに気管にチューブを入れ、呼吸が再開したが、当方も息ができないほどの思いだった。
 掲げた図(国立健康危機管理研究機構感染症情報提供サイトから)で、最近の百日咳の抗体価(抵抗力)を示す。特徴的なのは、年齢が小学校高学年から抵抗力が格段に落ちている。実際、百日咳の重症例・死亡例も報告されている。西成民主診療所では、特に、幼若乳児での発生を防ぐために、これから出産をひかえた、母親や父親など家族にも三種混合ワクチン接種を強くすすめている。(自費負担)ぜひ、診療所とご相談をお願いする。詳しくは、西成民主診療所のホームページ(百日咳ワクチン)を参照されたい。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2025年10月号搭載

照る日曇る日(004)


 まだ、運転免許を保有していた頃、和歌山県の新宮市まで出かけた事があった。車窓右手に太平洋を見ながら、長い旅路をひたすらはしりつづけた。
 新宮は、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の地。その信仰では、僧侶が、小舟で、浄土をめざしたが、そのほとんどがそのまま帰らぬ身であった。〈イラスト:小松美香さん、「那智勝浦町の復元船」より〉。
 また彼の地には、秦の始皇帝が不老不死の薬を所望し、日本に遣わせたとされる徐福伝説が残っている。詩人の佐藤春夫作詞の新宮市歌のなかにも「徐福もこゝに来たりとか」とある。新宮人の根底には、海を隔てた異国への憧れも深いようだ。
 明治後期、この地で、医業を営んだのが、大石誠之助。ドクトルは「毒取る」と親しまれ、「貧しい人からはお金を取らない。そのぶん、金持ちから多めにとる。」との診療スタイルのかたわら、「太平洋食堂」と名づけ子どもたちなどに食事提供する施設を開設した。今で言う「無料低額診療」、「子ども食堂」や「デイケア」の偉大な先駆けである。
 「医者をやっとったら、貧しい者、虐げられている者、苦しんでいる者がおるのがいやでも目に入ってくる。…その現実から目を背け、手をこまねいて生きていけるもんやろか?」というのが、彼の信条であった。
 やがて、幸徳秋水らの社会主義者と面識を深め、その結果、「大逆事件」という、山県有朋をはじめとする、時の為政者による卑劣なフレームアップ(謀略)で、刑場の露と消えた。
 「みなの頭の上に、よく晴れた秋空がひろがっている。川が流れ、海へと流れ込む。そこはもう、太平洋だ。」(柳広司「太平洋食堂」(小学館文庫)より)
 彼の願いは、残念なことに一旦途絶えたようにも見えるが、今になり、新たな形で実現している、そんなことを考えながら、太平洋(パシフィック・オーシャン=平和な大海)をゆっくり眺めてみたいと心から思う。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」
2025年9月号搭載