今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(002)

◎鉄砲町
編者注】大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」掲載(2015年8月号)では、タイトルは、「鉄砲合戦」

 天文十二年(一五四三)三人のポルトガル人が暴風にあい、薩南諸島の一つ種子島に漂着した。彼等は二本のニ~三尺の鉄筒を持っていて、その用法と威力を領主に教えた。鉄砲が日本に入ってきた最初である。
紀伊根来寺の杉坊妙算、これを求めるため種子島に渡って帰ってきた。当時根来寺のふもとにいた堺生まれの鍛工芝辻清右衛門が、その製法を学び堺で製造した。

戦国の日本は鉄砲保有大国

 戦国大名にとって、馬と槍による従来の戦いが、鉄砲伝来で完全に塗り替えられることとなった。
芝辻らは商人でもあったので、鉄砲の製造と販売に力を注いだ。そのため鉄砲は全国的に一挙に普及し、たちまち日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。
織田信長は武田勝頼との長篠合戦で、三千挺の鉄砲を有効に使って勝利している。
 芝辻文書によれば、明暦三年(一六五七)諸国諸大名からの注文の合計は四千五百三十五挺で、これが最高であったという。もちろん堺以外にも製造していたので、当時全国での年間の鉄砲製造数は、相当なものであったと想像できる。

大坂の陣は堺製の鉄砲合戦

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に芝辻は豊臣方より五百挺、徳川方より千挺の注文を受けており、大坂の陣は堺の鉄砲の打ち合いであったことになる。
 冬の陣は徳川方が二十万人の大軍で大坂城の周りを取り囲んだが、その前に立ちはだかったのが、秀吉の怨念の固まりのごとき「惣構」とよばれる、大河なみの外堀であった。秀吉はわが子秀頼のために晩年、大坂城を名実共に難攻不落の要塞にしようと思い立ち、外堀を広げ延ばし、堀の底にはさまざまな仕掛けをして、完全なものに仕上げていた。惣構工事の結果大坂城の面積は一挙に四〜五倍となり、冬の陣の最中にも城内では商人はいつものように商売をし、野菜は自給自足ができたという。

冬の陣では徳川方も大苦戦

 当時の鉄砲は未だ七~八十メートル位しか弾は飛ばず、何千挺という数の徳川方の鉄砲もいくら射っても城内には達しない。手柄をあせって堀の中に入っていけば、底には妨害物が置かれており動けない。堀の中であがいていると、二階矢倉から狙い撃ちされる。徳川方の二十万の軍勢がひと月半の間、大坂城をびっしりと取り囲んだのはよかつたが、結局その間、一兵たりとも攻め入ることは出来なかった。
 季節は真冬、二十万人の食糧も底をついてくる。掠奪ばかりしていると、背後に敵をつくることになる。しかしこのままでは、徳川方から先に、凍死・餓死者を出さないとも限らない。すでに各隊とも逃亡兵が続出している。

家康「まさか…」と動揺?

 地下にトンネルを掘って本丸の下で爆発させる作戦も、山から人夫を呼び寄せやらせているが、これはあくまでも心理作戦で、二重三重の堀をくぐって行けるはずがない。
 徳川方の圧勝という予想で始まった戦いだけに、もたもたしていると情勢が一変レ)しまうこともありうる。これは現代の選挙戦でも同じことが云える。「矢張り家康は城攻めは下手」との声も聞こえてくるようで、家康はふるえが止まらない程動揺していた。
 そこで家康はさかんに和睦案を出して、豊臣方をゆさぶり出した。最終的には秀頼と淀殿はもとより、城内の浪人共の責任も一切問わない。条件は外堀の埋め立てのみという、本音をさらけだしたものとなった。

まぐれ弾が和睦案をのます

 この和睦案を豊臣方が受け入れることになるのは、それまで一貫して徹底抗戦を主張し、高齢の家康が死ぬまでの籠城を云っていた淀殿の心変わりであった。手の平を返すように淀殿が態度を変えた謎を解くカギは堺にあった。
 当時すでに鉄砲以上のものとして大筒がつくられていて、徳川方により大坂城のまわりにも数多く配備されていたが、約三センチ位の弾が飛び出すだけで、幕でも張っておけば、被害はあまりないという代物であった。
 そこで攻撃の最後の手段として徳川方は、かねてより堺の芝辻に命じてつくらせていた、砲身一丈、口径一尺三寸、一貫五百匆の砲弾を打ち出す大大筒と、これ以外にもイギリスやオランダから本物の大砲を技術者付きで十数門買い入れ、京橋口の片桐且元の陣地から打ちまくった。これらの弾丸も城内には達せず、ただ万雷のごとき音響だけははるか京都にまで届いたというから、城内ではさぞや鳴り響いていたことであろう。しかし、内戦に外国の力を借りた徳川方のやり方は、今も就任後ただちにアメリカ参りをする、日本の首相に引継がれているというのであろうか。
 ところが十二月十六日の朝、突然サッカーボール位の鉄の弾が、本丸内の淀殿の居間の櫓を打ち破って突入、侍女二人を死亡させてしまった。当時の弾丸は爆発するまでにはまだなっておらず、ただ打撃を与えるだけだが、直撃を受ければ被害は大きい。
 このまぐれ当たりの一発で淀殿はびっくり仰天、一度に和睦論者に転向した。
 その後徳川方は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで一気に埋めてしまい、裸になった大坂城はあわれー年後の夏の陣では、たったの三日間で落城、炎上してしまうのである。
 日本の歴史を変えた大砲をつくった堺には今、鉄砲町という町名は残っているが、現地には鉄砲についての見るべき資料等を展示した施設もなく、本来はその役割を果たさなければならない高須神社が、早々と商売繁盛の稲荷神社に変身するなど、何か訳があるのか知りたいところである。

(二〇〇四.五)

今昔西成百景(004)

◎千本通りの桜

 千本通りには桜がよく似合う。
 千本と桜と書けば「吉野の千本桜」を連想してしまうが、千本という地名の元となった木津川の堤に植っていた木は、桜でなく松であった。
 千本通りの桜は、主に小学校と幼稚園とお寺である。
 二十三才で党の常任となった当初は、「赤旗」新聞を自転車に積んで、主な党員宅へまとめて下ろし、そこから配達してもらっていた。部数が少なかったので、東京で印刷し旧国鉄で送られてくるのを、毎朝大阪駅まで取りに行っていた。
 十三間堀川に沿ってあった植野ガラス店から、千本通りをアカシ薬局へ向かうのは、いつも昼前の時間になる。
 桜の花びらが舞っている中を、歩いている母の姿を見たことがあった。母はそのころ、生命保険の外交員をしており、千本通り一円を担当していた。
 三十年も前のことだが、当時千本通りは商店も多く、区内でも屈指の商店街であった。
 今、戦後最大の不況といわれる中で、みんな必死に店を守って頑張っている。消費税の税率大幅アップなど、正に「殿ご乱心」である。細川首相は、肩寄せ合って春を待つ庶民の心など、しょせんわからない「天上の人」なのだろう。母は、この一月に鬼籍の人となった。小春日和のような日の昼前、見送ったのは千本通りのお寺であった。
(ー九九四・三)

注記】本文、画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔木津川物語(003)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(三)


阿部野神社《あべの じんじゃ》と大名塚《だいみょうづか》 (北畠三-七・王子町三-八)

 阿部野神社の雰囲気《ふんいき》は皇国史観《こうこくしかん》まるだしで、いつ来ても抵抗を感じる。参道《さんどう》両脇の石柱に「大日本《だいにほん》は神国《しんこく》なり」と刻《きざ》まれているが、戦後《せんご》の昭和四十八年の建造《けんぞう》で、時代|錯誤《さくご》もはなはだしい。
 正門《せいもん》の鳥居《とりい》近くに北畠《きたばたけ》顕家の等身大《とうしんだい》の銅像《どうぞう》が立っている。私は天下茶屋史跡めぐりのガイドをするときには、いつもこの前で次のように説明をする。

貴族《きぞく》の犠牲《ぎせい》となった顕家《あきいえ》

 「この神社の祭神《さいじん》は南朝《なんちょう》の重臣北畠|親房《ちかふさ》と顕家の父子です。二十ーオで戦死した顕家は、十六オで陸奥守《むつのかみ》兼|鎮守府《ちんじゅふ》大将軍に任ぜられるほどの秀才で、奥州《おうしゅう》を平定《へいてい》し、足利尊氏《あしかがたかうじ》が叛《そむ》いたのではるばる奥州から出動してこれを追撃《ついげき》し撃退《げきたい》。あと再び東下《とうか》するも、留守の間に尊氏が勢いを盛り返して反撃《はんげき》、楠木正成《くすのきまさしげ》が湊《みなと》川で戦死し、吉野に逃げた後暇醐《ごだいご》天皇が再度顕家を呼び返した。顕家は不利な戦いを各地でやりながら河内《かわち》へ到着《とうちゃく》したが、ついに堺石津《さかいいしづ》で戦死しました。天皇《てんのう》中心の政治を復活《ふっかつ》させて、再び甘《あま》い汁《しる》を吸《す》おうとした貴族たちの犠牲になったとしかいいようのない、二十一年の短い人生でした」

顕家も正成も諌言《かんげん》して戦死

 「しかしわずかに救《すく》いとしていえるのは、顕家が戦死する一週間前に後醍醐天皇に、戦争で疲弊《ひへい》した民の租税《そぜい》を減免《げんめん》すること。誤《あやま》った中央集権《ちゅうおうしゅうけん》を改めること。みだりに行幸《ぎょうこう》や宴会《えんかい》をつつしみ、愚劣《ぐれつ》な輩《やから》に政道《せいどう》へのさしでぐちをさせないこと、などの堂々とした諌言を行っていることです。これは顕家が決して天皇や父親のロボツトではなかったという立派な証《あかし》ではないでしょうか」
 「ちなみに楠木正成も戦死直前に、朝廷《ちょうてい》に厳しい内容の諌言の手紙を送っています。これらは『建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》』や『王政|復古《ふっこ》』の実態《じったい》が阿部野神社の境内《けいだい》に掲示《けいじ》しているような立派なものではなく、逆にいかにひどいものであったかを歴史的に証言するものではないでしょうか」と。

大名塚は神社とは別の評価《ひょうか》

 阿倍野区北畠公園内に大名塚という塚があり、北畠顕家の墓《はか》なりと伝えられ、江戸時代の学者並川|誠所《せいしょ》の提唱《ていしょう》で享保《きょうほ》十八年(一七二四)に墓碑《びほ》が建てられた。
 明治になり半ば埋没《まいぼつ》しているものを再建し、昭和十五年に大阪市の史跡公園となり現在に至っている。しかし顕家が戦
死したのは堺の南、石津川《いしづがわ》という説が有力であり、大名塚が果たして本当に顕家の墓であったのかは今も疑問である。
 北畠公園内の案内板をみておどろいたことは、顕家の諫言問題を高く評価し詳《くわ》しく説明しているという点であった。私は文献《ぶんけん》で知り独自に述べていたのだが、ここでは地元|顕彰《けんしょう》会の人々が、平成三年に新たに案内板をつくり顕家を再評価してしらせている。
 阿部野神社では北畠親房らの「神皇正統記《じんのうしょうとうき》」の立場が激越《げきれつ》な調子で押しつけられてくるが、阿部野神社創建のきっかけとなった大名塚では違っている。

つくられた「忠臣」や哀れ

 多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが、鎌倉時代よりも重い年貢《ねんぐ》、課役《かえき》、税金《ぜいきん》で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児《ちょうじ》たちは、富貴《ふうき》を誇《ほこ》り、贅沢《ぜいたく》な暮《く》らしをし、酒宴《しゅえん》、蹴鞠《けまり》、歌舞遊山《かぶゆうざん》にあけくれていることを、具体的《ぐたいてき》に厳しく諌言した顕家が支持《しじ》されている。
 政権の腐敗《ふはい》を知り、激《はげ》しくそれを批判しながらも、結局《けっきょく》は人心の離れた朝廷を保持《ほじ》するために、負け戦と知りつつはるばる奥州から再度出陣せざるを得なかった「忠臣」顕家の哀れさが、後世《こうせい》の人々の心を打つのだろうか。
 楠木正成も正行《まさつら》の場合も同様である。

 今回は、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

今昔堺物語ー大阪史跡めぐり(001)

【はじめに】「今昔堺物語」「南大阪歴史往来」は、今まで刊行された二冊の冊子-「西成百景」「木津川物語」-には収録されなかった部分で、おもに日本共産党西成区委員会(当時)発行の「がもう健府政ニュースに連載されました。その記事を適時掲載してゆきます。

◎高須神社

 先日、 私は大阪市内から堺市内にかけて走っている阪堺電車(チンチン電車)の大和川から南へ堺市内に入って二つ目の、高須神社駅に降り立っていた。
「駅」といっても、駅舎も屋根とベンチがあるだけの、 囲いもなにもないもちろん駅員もいない、昔の市電の停留所とあまり変わらないところだが、最近はこれらもみな「駅」と呼んでいるようだ。
 時は平日のお昼前であったが、降りたのは私一人で乗る人もなく、たった一両の路面電車は、街の裏通りの感じの専用軌道部分を、ガタゴトと自己主張をしながら遠ざかって行った。

五十年ぶりに通学路を訪問

 実は私は、このもの静かな場所に立つのは五十年ぶりのことになる。私は南海電車高野線浅香山駅前にある、堺市立商業高等学校に通学していた当時、登校は天下茶屋駅から高野線の各停に乗り、下校は友達の関係でよく阪堺線を利用していた。学校から西へ直線コースで約十五分位か、化学工場が垂れ流す汚水の異臭が漂うドブ川を渡ってしばらく行くと、高須神社駅に.到着する。
 このドブ川を埋め立てて一九七〇年開催の大阪万博に向けて、高速道路が突貫工事で建設され今日に至っているわけだが、なにを隠そうこの川こそ「自治都市堺」の平和と安住を守るために、室町時代につくられた由緒ある環濠そのものでように感じられるのだ。
 貴重な史跡をじやまもの扱いにして、どさくさまぎれに破壊して開発してしまうという行政のやり方は、私の地元で十三間堀川を高速道路に変えさせたのと同じだ。

危険な情勢は変わってない

 さて「五十年ぶり』と表現したが、実は私にとってごの五十年は、まだ昨日のように感じられるのだ。
 今も「坂の上の雲」を追っている私が変なのか、それとも最近同窓会がひんぱんにもたれ、永年会わなかった友人達の顔を見る機会か多くなったからか。いやそうではなく、十代の当時「再軍備反対」や「原水爆禁止」の運動を行いながら「もう五十年もすればこんなことは昔話になるだろう」と人類の英知と進歩を確信していたのに、最近自衛隊のイラク派兵、憲法改悪、徴兵制復活の動きが強まるなか、危険な情勢は昔とあまり変わっていないと痛感していたからではないか。「歴史は繰り返す」は許してはならない。

昔の看板が残る不思議な街

 その日、駅前でまず最初に私の目を引いたのは、目の前にぽつんと一軒だけある商店のガラス戸である。その店は元は埋髮店であったようだが、永年営業してないどいうことは一目でわかる。しかし、私が目を皿のようにして見つめなおしたのは、ガラス戸の内側からぶら下げられた数枚の大きなブリキの看板だ。右側に浪花千恵子左側に大村昆がそれぞれオロナミンCドリンクと軟膏の宣伝をしている顏写真。真中には赤い分厚いふちのメガネをかけた少年が「赤影とゆけ」とさけんでいる。いずれも四十年位前のものであることにまちがいない。通行人をおどかすためにマニアがわざとやっている様でもなく、四十年間そのままというのも信じられない。

タイムスリップで堺めぐり

 あぜんとして視線を他に移すと、どうもこの辺は空襲を免れたようで、家は密集しているが、ほとんどが古い二階建で、全体に落ち着いた雰囲気があり歴史を感じさせる。まるでタイムスリップしたような奇妙なわくわくする気持ちで、私の「今昔堺史跡めぐり」は始まった。

高須神社は鉄砲鍛冶が創建

 さて、髙須神社であるが元々この神社は、「鉄砲鍛冶」の繁栄を祈願して、鉄砲鍛冶年寄の芝辻理右術門が創建した神社。理右術門は慶長十四年(一六〇九)徳川家康の命令を受けて銃身ー丈(約三メートル)ロ径ー尺三寸(約三十九センチ)砲弾一貫五百久(五・六キログラム)の大筒(大砲)を製造。これはわが国で造られだ最初の大筒である。さらに大阪冬の陣では五百丁の鉄砲を直ちに製造納入した。その功績によりこの地を拝領した」と、堺により神社外の東側に掲示されているが、正面の鳥居から入れば意識的に探さないかぎり目に付かない。
 徳川幕府と堺市の特別なつながりを示す重要な神社であり、境内にかっての大筒を展示しておいてもよい位なのに、なぜか今は鉄砲とのかかわりを避けているように、私には思えた。
 北側の拝殿では、現世利益の神々が八社も軒をつらねておられた。
(2004.4 府政ニュース No.202 から)

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今昔西成百景(003)

◎住吉街道

 「西成区史」によれば、西成区は天王寺区、阿倍野区などの高台に展開された 集落とは異なり上町台地西側の低地帯に属し、中世時代まではおおむね海浜とみ られた地であった。すなわち北部の旧村今宮の古名といわれる津江の庄にしても、南部の旧村玉出の別名古妻浦、さらには隣村粉浜などの村名をみても、ある いは最近まで町名に残っていた入船町・ 今船町・曳船町・甲岸町・海道町などか らみても、昔海浜であったことが容易にうかがえる、となっている。

わが町も昔は海浜

 昔海中または、よくあしのしげる浅州 であったものが、玉出については、仁治年中(―二四〇~―二四三)里長某がこ の地を開さくして住吉神社の神領とした にはじまるとされている。万葉集などで 詠まれた名児之浜、奈呉の浦ないし敷津の浦などは西成区一帯の海とみられる。

住吉之名児之浜辺に馬立てて玉拾いしく常忘らえず

もしほ草敷津の浦に船とめてしはしは 聞かん磯の松風

 こうした海浜に点々とした漁農村状態 であったのが、足利時代(一三三八)よ り陸地化が進み、大坂に入る軍事上要衡 の地として今宮・木津.勝間等の名が盛 んに史書に出るようになった。
 足利時代末期に上町丘陵を走る阿倍野街道に代わって、新たに大坂より堺に至る往来路として低地を走る住吉街道(紀州街道)の出現を見たことは、西成区内の発展に多大の影響を与えた。この道は 堺筋を南へ日本橋を渡り長町をすぎ、行き当りを西ヘ一丁行き、今宮札の辻(現在の恵比寿町交差点の西、一番目辻)から南へ今宮新家、天下茶屋、住吉新家(現在の西成警察署、北天下茶屋市場、塚 西交差点辺り)、安立を経て堺•紀州にるものである。豊臣秀吉も住吉神社ある いは堺政所往還の途中、利休その他の臣下を従え天満宮紹鴎社(現在の岸里東二 丁目)付近の茶屋に休憩し、このために 太閣殿下が憩われたとの故事から殿下茶屋、さらに天下茶屋の名が出たといわれる。
 摂津名所図会には「その頃は街道沿い は未だ海岸線に近く、白砂青松の風景を愛でながら住吉の詣人は道草に時をうつ し、堺の魚荷は徒歩はだしにて宙をかけり、浪華より紀泉両国の新通路として旅人の往来絶ゆることなし」と伝えられている。
 恐らく紀州の殿様徳川吉宗も、この街 道に馬を走らせ胸踊らせて江戸城に入り、八代将軍に成ったことであろう。

住吉街道ゆかりの人

 私にとって住吉街道と言えば、故西口喜代松氏につながる思い出が数多い。天下茶屋一丁目一番地(旧今船町)で、戦後いち早く日本共産党の看板を掲げて活動を始めた氏の自宅は住吉街道に面していた。十年位前まで、三十年以上も共産党の事務所や赤旗新聞の販売所として、表の間を使わせて貰っていたが、地元だけでなく車からもよく見えるので、知る人も多かった。

 西口氏は一九七七年六月、七〇オで亡くなるまで、選挙の時は中心になって今宮小学校の講堂を満席にする位の力があ り、誠実・率直・ユーモアに富んだ人柄は党派を越えて支持されていた。元大阪 市会議員四方棄五郎氏の西口氏追悼文の一節を次に紹介する。

 「西口氏のモーターパイクで赤旗新聞を配る、あの颯爽とした姿はもう見られなくなりました。かつて重税と差し押え の嵐が吹き荒れた時、自殺した業者の抗議の葬儀を西成税務署前で行い、責任者 として逮捕されたこともありました。戦後三〇年間、西口氏は西成のこの町で 人々のよき相談相手とし、また環境を守るための住民運動など、様々な問題に取り組まれ、その足跡は極めて大きなもの があります。遺志を受け継ぎ前進を誓います。」

(一九九五・九)

追記】
「四方棄五郎さんを偲んで」でのがもう健さんの追悼文です。

「真実一路」の由来をさぐる

 四方さんに座右の銘をきけば、必ず「真実一路」という答えが返ってきた。しかし、 その選んだ訳はききそびれてしまった。
 一九三六年刊行の山本有三の小説に「真実一路」というのがあるが、 少年義夫をめぐって作中の各人物がそれぞれ真実に生きていくという内容で、 男女の愛憎劇が中心であり、 当時十四才の四方少年にはどうであったろうか。
 一九三セ年より朝日新聞に連載を始めた山本有三の小説「路傍の石」は、成績優秀なのに貧しさゆえに中学へ進学できない吾一少年が主人公で、全国の少年少女の心をつかんだと云われている。当時、叔父さんの元で緘灸師の修業に励んでいた四方さんもきっと愛読していたにちがいない。
 しかし、「路傍の石」は吾一少年が奉公先をとびだし上京後、資本主義・出世主義・社会主義にさまざまな登場人物を通じてふれていき、労働者の団結事件にぶっかった時点でついに作者が官憲の弾圧を受け、話の筋を変えるくらいならと、山本有三は「ペンを折る」の声明を出して未完となったのである。この年は大政翼賛会が発足し、「紀元二千六百年祭」が全国で大々的にやられた。
 どうやら「真実一路」「路傍の石」での二人の少年の姿が重なって、弾圧後の吾一少年の生き方を四方さん自身になぞらえて座右の銘が決まったのではないか。「勝手な推理をするな」と四方さんの声がきこえてきそうだが…。

真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり、思い出す
白秋「巡礼」

「四方棄五郎さん追悼文集」(1998.8.30発行)から

今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

◎天下茶屋|跡《あと》と紹鴎《じょうおう》の森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下《でんか》茶屋が天下茶屋になったという 、至極《しごく》おめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発《てきはつ》し、家・納屋《なや》の敷地にまで年貢《ねんぐ》をかけたという。米二俵を納められなかった農民《のうみん》夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人|宣教師《せんきょうし》が書き残している。
 その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡|勝間《かつま》村|新家《しんけ》の一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺ではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興《ちゃどうちゅうこう》の祖《そ》武野《たけの》紹鴎

 この地に天文《てんぶん》年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目《がんもく》に「和敬静寂《わけいせいじゃく》」の理念《りねん》を説いた反面、雪舟《せっしゅう》や一休《いっきゅう》の筆墨《ひつぼく》はじめ高麗茶碗《こうらいちゃわん》などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休《せんりきゅう》など茶道史《さどうし》の傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業《いぎょう》をなしとげていた。そのため今日に至《いた》るまで、紹鴎の勧請《かんじょう》した天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶《せこうちゃ》、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理《すいり》するのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋の称《しょう》は、あるひは秀吉の堺|政所《まんどころ》へ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭《さてい》より出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運《ひうん》の人武野|宗瓦《そうが》

 武野家は紹鴎が五十四オで没《ぼつ》してからは数奇《すうき》な運命《うんめい》をたどる。長男の武野宗瓦は茶道《さどう》の才能も父|優《まさ》りといわれ気骨と品位《ひんい》にも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長《おだのぶなが》に父の遺品《いひん》「紹鴎|茄子《なす》」と「松島茶|壷《つぼ》」の名器を取り上げられたうえに追放処分《ついほうしょぶん》となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家《そうけ》を継いだものの、天正《てんしょう》十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前《びぜん》水こぼし」「茄子|盆《ぼん》」など父の秘蔵《ひぞう》物約七十点すべてを没収《ぼっしゅう》され再び追放となる。宗瓦は不遇《ふぐう》のままその後|病没《びょうぼつ》するが、その場所も定《さだ》かでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康《いえやす》のもとに妻子《さいし》と共に身を寄せ北野大茶会《きたのだいちゃかい》に欠席し、秀吉に大恥《おおはじ》をかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器《ちゃき》ーつで城《しろ》一つに匹敵《ひってき》するといわれた程のものであり、現在《げんざい》ならいずれも国宝級こくほうきゅう佳の逸品《いっぴん》であったろう。
 地元の尊敬《そんけい》を受けていた武野家を白昼強盗《はくちゅうごうとう》のようにして抹殺してしまった秀吉に、世間の厳《きび》しい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作《いんぺいこうさく》

 徳川《とくがわ》家康に絶《た》えず厳重《げんじゅう》な警戒を払《はらい》いながら、諸大名には褒美《ほうび》をおくりやっと天下人《てんかびと》になった秀吉にとっては、大坂《おおさか》での悪評《あくひょう》のどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛《めきしょうべい》にたいして、井戸には「恵水《けいすい》」の名と毎年米三十俵を与えるとのお達《たつ》しが華々《はなばな》しくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋|発祥《はっしょう》劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識《じょうしき》ではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

 突然《とつぜん》太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑《ふくざつ》であったろう。恩人武野家のことを思えば胸《むね》ははりさけんばかりである。
しかしそれは絶対に表《おもて》には出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志《いし》を残しておきたい……。
 南北朝《なんぼくちょう》の「忠臣《ちゅうしん》」楠木|正成《まさしげ》の子正行《まさゆき》の十代目、正長《まさなが》の三男|昌立《まさたて》としての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居《とりい》から入るとすぐ右手に、子供の背丈位《せたけぐらい》の表面《ひょうめん》がぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍《ろぼう》の石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感《ばんかん》の思いをこめて、四代目小兵衛|昌包《まさほう》に「紹鴎の杜《もり》」と深々と刻ませた歴史の証人《しょうにん》なのではないだろうか。石に手を置けば頭上《ずじょう》高くで、樹齢《じゅれい》六百年の楠《くすのき》が風でざわめいていた。

【注記】
ルビ(ふりがな)の表記は、青空文庫の基準に準じています。すなわち、ルビ部分は《》で囲み、二字以上の漢字などには、区切りとして、「|」を用いています。
本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

急告-2月13日(火)と14日(水)のデイケアを中止します。ー再開しました。

コロナ感染症の拡大防止のため、2月13日(火)と14日(水)の西成民主診療所デイケアを中止します。大変ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
配色サービスなどの代替えサービスは、担当のケアマネージャにご相談いただきたく存じます。また直接、西成民主診療所に、電話をいただいても結構です。

2月15日(木)から、デイケアは再開しました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

今昔西成百景(002)

◎安養寺
 安養寺(岸里東一丁目)は浄土宗知恩院派一心寺の末寺で本尊は阿弥陀仏、元禄二年(一六八九)三月、西国巡礼を志した官女が当地寺田善右衛門方に滞在中、善右衛門の勧めで大阪一心寺の天誉和尚に弟子入りし、貞誉清薫と名を改めて、剃髪、同寺を創建した。二回の火災、空襲と受難の多い寺だ。
 安養寺には文政四年(ーハニー)七〇才没の劇作家佐藤魚丸の墓や、嘉永二年(ー八四九)五七オ没の、大阪相撲の名カ士猪名川の墓がある。猪名川の墓の横「紙治おさんの墓」と刻まれた小碑は、近松門左衛門の最高傑作の一つ「心中天網島」のモデル、紙屋治兵衛に貞節を尽くした妻、おさんのものである。
 話は「天満の紙小売商治兵衛は曽根崎新地の妓婦小春にひかれ三年越しの関係となる。妻のおさんはついに小春に直接夫と別れるように頼みこみ、小春はわざと治兵衛に愛想づかし。そのあと小春に身請け話が出て自害しようとするのをみて、おさんは夫に事実を話し小春を身請けさせようとするが、怒ったおさんの叔父五左衛門に無理に連れていかれ、小春と治兵衛は大長寺の薮で心中する」というものである。

おさんが安養寺の尼僧に

 この心中事件は享保五年(一七二〇)ー〇月ー四日の夜のことで、おさんの墓に宝暦九年(一七五九)とあるのは、おさんは夫を失ってから三九年生きていたことになるが、夫の一回忌を済ませたあと出家し、晩年は安養寺の尼僧になったと伝えられている。
 松の木大明神(太子二丁目)は、今池市場の西裏にあり創建は不明だという。この境内に近松門左衛門の巨大な碑がある。明治三〇年に建立し、四年後に南区より移転したもので、近松の辞世の句も刻まれている。
 赤穂浪士討ち入りから四ヵ月目の元禄一六年(一七〇三)四月、曽根崎露ノ天神社の森で心中があり、近松はこれを「曽根崎心中」として五〇才のとき書いた。六七オになって書いた「心中天網島」では、この事件を住吉にいて聞いた近松は早籠を雇って現場へ急行したとつたえられている。近松の「心中物」が、封建社会の束縛の告発から社会性をおびるようになることを恐れた八代将軍徳川吉宗は、享保八年(一七二三)に心中物の上演を禁じる法令をだした。その翌年近松は世を去った。七二オであった。

江戸時代にはあった年貢の減免

 NHKの大河ドラマ「八代将軍吉宗」では、庶民派将軍として描かれ、得点を稼いでいるが、実際の吉宗は極端な引き締め政策を取ったワンマン将軍であった。しかしそれでも、当時の洪水・大風雨・旱魅・水損・虫害などに際して、その都度「年貢の減免ありたり」と、年表に書かれている。
 今、大阪市の国民健康保険の料金は異常に高く、平均サラリーマンの場合退職すれば一年間は月四万円を、まず覚悟しておかねばならない。しかも最初に三ヵ月分の前納が普通だという。スイス一国の予算より多いと自慢の大阪市だが、庶民にとっては天災と同じような今日の「バブル不況」についての国保料減免を拒否する体質は、吉宗以上だと云わねばならない。この際、大岡越前守にでもお出まし願って、財界と「解同」ベッタリの悪政に正義のお裁きを付けてもらおうか。
(ー九九四・七)

今昔木津川物語(001)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ (一)

是斎屋《ぜさいや》と天下茶屋公園《てんがちゃやこうえん》 (岸里柬ー―一六)

 上町台地《うえまちだいち》の西側は急|斜面《しゃめん》になっていて、西成区から阿倍野区への上りは、自転車などではところにより降りて押さねばならないくらいであるが、逆《ぎゃく》に阿倍野区から西成区への下りは、ブレーキのかけづけとなりかねない、かなり危険な道でもある。
 特に旭《あさひ》町、共立《きょうりつ》通、丸山《まるやま》通、松虫《まつむし》通、橋本《はしもと》町、晴明《せいめい》通、相生《あいおい》通、北畠《きたばたけ》三丁目付近はそうである。
上町台地の西|端《はし》は、かつてはどこでも「夕陽丘《ゆうひがおか》」といわれたという。春秋《しゅんじゅう》の彼岸《ひがん》に、この高台から西の海へ落ちる夕陽の、荘厳《そうごん》な神秘《しんぴ》さに心を打たれる人も多く、四天王寺を筆頭《ひっとう》に寺や神社も集中していた。 平安時代中期以降|鎌倉《かまくら》時代にかけて「蟻《あり》の熊野詣《くまのもうで》」といわれるほど庶民《しょみん》に至るまで盛んであった
 熊野三山《くまのさんざん》(熊野本宮大社、熊野|速玉《はやたま》大社、那智《なち》大社)への道は京都より熊野まで往復《おうふく》百七十|里《り》、約三週間の日時を要したというが、その熊野|街道《かいどう》(阿倍野街道)は夕陽丘に沿って南北に伸びている。
 熊野街道に平行して上野台地のすその渚《さぎさ》に、足利《あしかが》時代末頃より紀州《きしゅう》街道(住吉街道)が出現した。この街道は江戸時代には紀州や岸和田|藩《はん》などの参勤交代《さんきんこうたい》による、大名行列《だいみょうぎょうれつ》の道でもあった。明治に入っても国道二十九号線といわれ、昭和十五年に国道十六号線(今の二十六号線)が開通するまでの主要な道路となった。
 私は今年の正月休みのある日、この西成区と阿倍野区にかけての、歴史の回廊《かいろう》ともいうべき史跡《しせき》めぐりをやってみた。その結果阿倍野区側の史跡は主として、平安《へいあん》、鎌倉《かまくら》、室町《むろまち》時代のものが熊野街道を中心にして多くあり、西成区側の史跡は安土《あずち》・桃山《ももやま》、江戸《えど》時代のものが紀州街道に面して多いのは当然のこととして、その双方に重要な点で共通するもののあることを知った。
 私は感動した。同時にこれは自分だけの一人|合点《がてん》かもしれないとも思った。しかし、私が西成の郷土史《きょうどし》に興味《きょうみ》を持ちはじめた原点《げんてん》の疑問に、私なりに答えの出せるものであるということには、確信《かくしん》できるものがあった。

是斎屋と秀吉は無関係

 その日、是斎屋ゆかりの天下茶屋公園は全面的な改修《かいしゅう》工事の途中《とちゅう》であった。
 かってこの公園には「太閤《たいこう》秀吉が初めて自分を武士《ぶし》 (足軽《あしがる》)にとりたててくれた恩人《おんじん》、松下|嘉兵治《かへいじ》(後に是斎)に報《むく》いるため約三千三百|坪《つぼ》の広大《こうだい》な邸宅《ていたく》と名園を贈《おく》り、太閤さんも大阪城中からしばしば来遊《らいゆう》、茶をたしなみ名園を楽しんだ地で、太閤さん愛好《あいこう》の井戸《いど》や灯籠《とうろう》もある。その松下の子孫《しそん》が明治《めいじ》時代までこの地で『和中散《わちゅうさん》』という薬を売り茶屋《ちゃや》を営《いとな》んだ。明治天皇もこの地に臨幸《りんこう》し英雄《えいゆう》秀吉をしのんだ」と書いた大阪市の案内板があり、同文の案内書も西成区役所から発行されていた。地元の学校でもそう教えてきた史跡公園であったのだ。
 ところが大阪市は平成七年になって突然《とつぜん》、案内板撤去、案内書の書き替《か》えを行ってきた。「是斎屋の開業は秀吉の死後三十数年たってからのこと」との史実《しじつ》をなしくずし的に、やっと認《みと》めたということなのだろうか。今回の改修で「秀吉愛好の井戸」などはどうするつもりなのか。

地域《ちいき》に貢献《こうけん》した是斎屋

 西成区役所が新しく出してきた「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によれば寛永《かんえい》年間(一六二四〜四四)よりこの地で営業を始めたという是斎屋は文化十三年(ー八一六)の大坂市中|売薬数望《ばいやくすぼう》という番付《ばんづけ》に、和中散|本舗《ほんぽ》「天下茶屋ぜさい」は勧進元《かんじんもと》の「神仙巨勝子円《しんせんきょしょうしえん》」と並んでいるから、大坂を代表する売薬商であったことはたしかである。
 秀吉の恩返《おんがえ》し云々という話になったのは浄瑠璃《じょうるり》「祇園祭礼信仰記《ぎおんさいれいしんこうき》」(中邑阿契《なかむらあけい》他四人合作、宝暦《ほうれき》七年«一七五七»豊竹《とよたけ》座初演)の中に、「此下東吉《このしたとうきち》に鎧《よろい》の代金を持ち逃げされた松下嘉兵治は摂州《せっしゅう》岸野の里(天下茶屋)に隠棲《いんせい》し薬店是斎となって苦労する」とある話から出たもので創作であった。
 しかし、この地で永年にわたり薬店と茶屋を営《いとな》み、後世《こうせい》に残るような様々《さまざま》なエ夫をし店をもりたてたことや、明治になり後を継いだ橋本氏は地域の発展のために努力し、今も阿倍野区橋本町にその名を残す。
 またその後を継いだ高津氏が戦後、樹齢《じゅれい》四〜五百年とみられるかつての紹鷗の森名残の巨木数本を保存《ほぞん》したまま大阪市に土地を寄贈《きぞう》し、その結果西成区の児童公園第一号として天下茶屋公園が誕生《たんじょう》した経過《けいか》等を考えれば、秀吉とは関係なくそれ相応の記念|碑《ひ》を残しても当然《とうぜん》のことで、今回の公園改修工事後どうなっているか、大阪市の見識《けんしき》が問われるところである。

【注記】
 ルビ(ふりがな)の表記は、青空文庫の基準に準じています。すなわち、ルビ部分は《》で囲み、二字以上の漢字などには、区切りとして、「|」を用いています。
 本文や画像の二次使用はご遠慮ください。

今昔西成百景(001)

◎木津川

 師走のある日、知人の病気見舞いに境川の病院まで行き、帰りは大正区を西から東へ横断、西成区まで約二時間かけて歩いた。もちろん尻無川は甚兵衛渡船を、木津川は千本松渡船を利用した。
 尻無川は川幅も狭く、渡船はまるで横にすべるようにして対岸に着いた。木津川は川幅も広く水量も豊富で、渡船もー旦船首を立て直して、その後エンジンをふかせるという感じで、いかにも船に乗ったという気になった。中学生ら数人が乗り込んできたが、地図を片手にメガネ橋を見上げたりして、ちよつとした冒険旅行だったのかも知れない。
 大正区北村に大きなマリンテニスパークなるものを発見した。公園の南側に約五〇〇メートルの散歩道があり、途中二ヵ所に大きな べ ランダの様な広場が造られ、そこから大正内港の全景が展望できるようになっていた。
 大少数多くの船が停泊し、それに夕日の映えている様は、「大正区の新しい故郷づくり」を実感した。

木津川を知らない西成区民も多い

「西成には自然が無い」とよくいわれるが、木津川を忘れてはいませんか、といいたい。
 西成区の住民も都心に行くのに、地下鉄や南海電車、または国道二十六号線を使うので、区の西の極限である木津川を知らない人も相当いるのではないか。知っているが、最近は見ていないとか。
 市内を流れる川では、神崎川や大和川に比べればまだまだきれいな方で、市営の渡船も「落合上渡」「落合下渡」「千本松渡」と三ヵ所もあり、渡船人口も一日約三千人で立派に通勤・通学の足になっていると共に、大阪の風物詩の役割も果たしている。
 私は西成の街づくりにおいては、もっと川と川辺の在り方を快適にするよう見直すべきだと思う。
 木津川の由来は、聖徳太子が四天王寺建立の折に、諸国から集めた木材を荷揚げしたことからこの辺りを木材の浜、つまり木津と呼ぶ様になったとのことである。かつて天保三年(ー八三二)にはこの川の堤八七〇余間(一六〇〇メートル)に松を植えて、長い松並木が天橋立の様に絶景で、船遊びや潮干狩で賑わったということだが、いまでは千本という地名が残るだけ。
 経済の高度成長期には、造船・鉄鋼・金属・セメントなどの大・中・小の企業が集中し、約二万人の労働者の喧噪もあったが、今では往来する大型船の汽笛の音が「静寂」を破る状態になるまで様変わりしている。

名所千本松の復活を

 しかし、自然としての木津川は、川幅約一五〇メ—トル、長さは西成区内だけで約三〇〇〇メートル、約四五ヘクタールの空間を変わることなくしっかりと確保しているのである。河川敷は府有地で、それと市有地とを合わせて河川公園とすれば西成のイメ—ジは一変する。千本松も復活させ、桜も植えて名所にしよう。  高校にボ—卜部もつくって、大会も出来るのではないか。展望台をもうけ、中山製鋼所の背後に音もなく入っていく、巨大な太陽と大空と川と街との天下一品の夕景を、毎日みせてほしい。
 今西成区には、南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)と南津守の市食肉市場跡地(約三ヘクタ—ル)の利用が、西成の街づくりのーーつの目玉といわれているが、ぜひとも木津川と区民との新しいかかわり方についても、一枚加えて検討する必要性を痛感する。
 人生を川の流れにたとえる歌もあるが、私は自分の人生は渡船になぞらえてみたい。色々な出会いと別れを繰り返しながら、大きな流れに沿って船を操り、黙々と多くの人を送り届ける。木津川地域で四十年、日本共産党員として政治革新に心を燃やし続けている者として、川に寄せる想いは深いものがある。

(一九九五・一)