西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ (一)
是斎屋と天下茶屋公園 (岸里柬一-一六)
上町台地の西側は急斜面になっていて、西成区から阿倍野区への上りは、自転車などではところにより降りて押さねばならないくらいであるが、逆に阿倍野区から西成区への下りは、ブレーキのかけづけとなりかねない、かなり危険な道でもある。
特に旭町、共立通、丸山通、松虫通、橋本町、晴明通、相生通、北畠三丁目付近はそうである。
上町台地の西端は、かつてはどこでも「夕陽丘」といわれたという。春秋の彼岸に、この高台から西の海へ落ちる夕陽の、荘厳な神秘さに心を打たれる人も多く、四天王寺を筆頭に寺や神社も集中していた。
平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれるほど庶民に至るまで盛んであった熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は京都より熊野まで往復百七十里、約三週間の日時を要したというが、その熊野街道(阿倍野街道)は夕陽丘に沿って南北に伸びている。
熊野街道に平行して上野台地のすその渚に、足利時代末頃より紀州街道(住吉街道)が出現した。この街道は江戸時代には紀州や岸和田藩などの参勤交代による、大名行列の道でもあった。明治に入っても国道二十九号線といわれ、昭和十五年に国道十六号線(今の二十六号線)が開通するまでの主要な道路となった。
私は今年の正月休みのある日、この西成区と阿倍野区にかけての、歴史の回廊ともいうべき史跡めぐりをやってみた。その結果阿倍野区側の史跡は主として、平安、鎌倉、室町時代のものが熊野街道を中心にして多くあり、西成区側の史跡は安土・桃山、江戸時代のものが紀州街道に面して多いのは当然のこととして、その双方に重要な点で共通するもののあることを知った。
私は感動した。同時にこれは自分だけの一人合点かもしれないとも思った。しかし、私が西成の郷土史に興味を持ちはじめた原点の疑問に、私なりに答えの出せるものであるということには、確信できるものがあった。
是斎屋と秀吉は無関係
その日、是斎屋ゆかりの天下茶屋公園は全面改修工事の途中であった。
かってこの公園には「太閤秀吉が初めて自分を武士(足軽)にとりたててくれた恩人、松下嘉兵治(後に是斎)に報いるため約三千三百坪の広大な邸宅と名園を贈り、太閤さんも大阪城中からしばしば来遊、茶をたしなみ名園を楽しんだ地で、太閤さん愛好の井戸や灯籠もある。その松下の子孫が明治時代までこの地で『和中散』という薬を売り茶屋を営んだ。明治天皇もこの地に臨幸し英雄秀吉をしのんだ」と書いた大阪市の案内板があり、同文の案内書も西成区役所から発行されていた。地元の学校でもそう教えてきた史跡公園であったのだ。
ところが大阪市は平成七年になって突然、案内板撤去、案内書の書き替えを行ってきた。「是斎屋の開業は秀吉の死後三十数年たってからのこと」との史実をなしくずし的に、やっと認めたということなのだろうか。今回の改修で「秀吉愛好の井戸」などはどうするつもりなのか。
地域に貢献した是斎屋
西成区役所が新しく出してきた「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によれば寛永年間(一六二四〜四四)よりこの地で営業を始めたという是斎屋は文化十三年(一八一六)の大坂市中売薬数望という番付に、和中散本舗「天下茶屋ぜさい」は勧進元の「神仙巨勝子円」と並んでいるから、大坂を代表する売薬商であったことはたしかである。
秀吉の恩返し云々という話になったのは浄瑠璃「祇園祭礼信仰記」(中邑阿契他四人合作、宝暦七年(一七五七)豊竹座初演)の中に、「此下東吉に鎧の代金を持ち逃げされた松下嘉兵治は摂州岸野の里(天下茶屋)に隠棲し薬店是斎となって苦労する」とある話から出たもので創作であった。
しかし、この地で永年にわたり薬店と茶屋を営み、後世に残るような様々なエ夫をし店をもりたてたことや、明治になり後を継いだ橋本氏は地域の発展のために努力し、今も阿倍野区橋本町にその名を残す。
またその後を継いだ高津氏が戦後、樹齢四〜五百年とみられるかつての紹鷗の森名残の巨木数本を保存したまま大阪市に土地を寄贈し、その結果西成区の児童公園第一号として天下茶屋公園が誕生した経過等を考えれば、秀吉とは関係なくそれ相応の記念碑を残しても当然のことで、今回の公園改修工事後どうなっているか、大阪市の見識が問われるところである。
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