がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十六

◎二十六、能勢の妙見は波瀾万丈

 能勢電鉄妙見口駅からバスで約五分、徒歩で行くと吉川小学校前を通り、十五分で妙見山ケーブル黒川駅に着く。ケーブルカーとリフトを乗り継いで、標高六二ニメートルの妙見山頂に登ると能勢妙見堂(日蓮宗)がある。
 能勢町地黄に所属する関西の日蓮宗本拠真如寺に属する仏堂である。
 次郎が前を行く友子に声をかける。
 「長いリフトの下が花園になっていて、一人用の椅子に腰掛けて足を伸ばしていると、色とりどりの花に触ってしまうという、何とも贅沢な登山だなあ」
 友子もハイキング気分になり、「初めて来たけど、のんびりとしたいいところね。どんなお寺なのか早く知りたいわ」と答える。
 天正九年(一五八一年)、能勢の領主能勢頼次が戦乱に備えて為楽山城をこの地に築く。頼次はその後、本能寺の変(一五八二年)で明智光秀方についたため、その後豊臣秀吉に領地を没収された。
 頼次は三宅勘十郎と改名し、岡山県の妙性寺(日蓮宗)に隠れ、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)や大坂の陣(一六一四二六一五年)で奮戦し、徳川家康から旧所領を与えられた。
 妙性寺滞在中に日蓮宗に帰依した頼次は、甲斐(山梨県)身延山から日乾上人を招いて、領内の真言宗寺院などをことごとく改宗させ、北辰妙見大菩薩を奉祀する能勢氏私有の仏堂として、妙見堂を開基した。明治十八年(一八八五年)に一般に公開された。
 友子が興味津々に聞く。
 「光秀の三日天下に、どんな経緯で参加したのか知りたいわ」
 次郎も同意してこう答える。
 「名前を変えて秀吉の手を逃れ、その後家康に旧領を与えられるまでの三十年間のドラマも知りたいね。しかも返り咲いただけに止まらず、能勢に日蓮宗の一大拠点をつくり、その中に私有の妙見堂をひらき、その後『能勢の妙見さん』として世に知られるまでの、波瀾万丈の歴史を、歴史小説として書きたいものだ」
友子が「もうあるんじゃないの?」と首を傾げると、次郎は「二番煎じか」と笑った。
 奥の院バス停横に、町立東中学校の石垣が見えるが、能勢頼次以来の能勢氏の居館跡である。バス通りから東中学校正門前の道を入っていくと、無漏山真如寺がある。
 頼次が建立した寺であるが、日蓮上人の分骨も行なわれ「関西の身延」と呼ばれるようになった。
 真如寺の梵鐘には「元応元(一三一九年)」の銘がある。大坂の陣の際に、金属供出により徴発され、夏の陣後、淀川に捨てられていたものを頼次が拾って持ち帰り、能勢の布留大明神に奉納したが、その後、神仏分離のため真如寺に移された。鐘には、真言陀羅尼を二十九首も漢字と梵字で記した珍しいものである。
 山の麓の清普寺には、初代能勢領次から代々の当主の墓が三方に並んでいる。
 下見の帰り道。友子は次郎の介護近況報告を聞くことがお約束になっている。
 「認知症のお兄さんはディサービスに元気に行っておられる?」
 「三年間無遅刻無欠席でがんばっているけど、三日に一度は行かないと言い出すんだ」
ため息混じりで次郎は答えた。
 「なんで…」と友子も一緒に困り顔。
 次郎は手を横に振って「でも、中身と意義を説明すると『いつものとこか』と安心して行ってくれる」と友子に教えた。
 それを聞いた友子は「昨日のことを忘れているのね」と、複雑な顔をする。
 帰り際、二人は穏やかな笑顔で「またね」と言ってお互いの道を歩いた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十四

◎二十四、万福寺と鉄眼寺

 近世中国の寺院の姿が完全なまでに再現されている、異質なまでの雰囲気に包まれた万福寺は、京阪宇治線で行くことができる。
 総門と三門の屋根は共に複雑な構成美と觥や宝珠で飾られて、巨大な柱はどっしりとした礎盤で支えられている。渡り廊下も様々な額や文様が目に付く。
 天王殿本尊の布袋和尚のでっぷりとした体とたくましい顔。
 さらに両側に居並ぶ十八羅漢像の怪奇な風貌。生命力に満ちあふれるとも云うべき仏像の数々。
 万福寺は中国の禅僧隠元を開祖に寛文元年(一六六一年)に開設され、全てが明代の伽藍配置になって造営されただけでなく、安置する諸像を造立するために、大陸から専門の仏工が招かれた。
 友子が話を始める。
 「造形面に限らず、万福寺では隠元の後をついだ木庵をはじめ、第十三世まで明の僧侶が住職を勤め、大陸の禅の伝統を守り続けたのね」
 次郎も続けて解説する。
 「江戸時代には宗教統制が厳しく、新しい一派をおこし寺院を建てることは難しかったはず。それを万福寺にあっては特に許されたのは、当時の幕府権力者たちが大陸文化に強い関心を持っていた結果ではないかと云われている。同時に、隠元を初めとする歴代の住職の厳しい宗風は、日本の近代仏教にいろいろな反省を促し、仏教界に清新な息吹を与えたとも云われている」
 次郎が少し話を変える。
 「それに関連した話を少しさせてもらうよ。大阪のミナミの繁華街、なんばに隣接したところに鉄眼寺という万福寺末のお寺がある。正しくは瑞竜寺と云うのだが、寛文十年(一六匕〇年)難波村の信者らが薬師堂に历福等から鉄眼和尚を請じてその再興をはかり瑞竜寺としたが、俗には鉄眼寺であった」
 次郎は小さく息継ぎをして、また話し始めた。
 「かねてから鉄眼は一切経という仏教に関する全集を出版することを一代の事業として取り組んでいた。広く各地を巡り、ようやく出版に着手せんとした矢先、大阪に大洪水が起こった。鉄眼は惨状を目のあたりにして、喜捨した人々に同意を得て、資金をことごとく救助の用にあてた。再び募金に着手して数年、宿願の果たすのも近いと喜んでいたところへ、大飢饉があ成、鉄眼は再び意を決してその資金をもって人々を救い、またもやー銭も残さなかった。二度集めて、二度救護に使ってしまった鉄眼だったが、かんぜんとして第三の募金に着手した。すると、意外にも鉄眼の深大なる慈悲心とあくまで初一念をひるがえさない熱心さが感動をよび、喜んで喜捨する人が続出。かくて、天和元年(一六八一年)、最初の募金開始から十八年後に一切経六千九百五十六巻の大出版がついに完成したんだ。これが世に鉄眼版と称されるもので、この版木は今も宇治の万福寺に重要文化財として保存され、現在でも大般若経や語録類が印刷されている。これが世に『鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり』と云われる所以なんだ」
 友子よ「ボランティア活動に勇気がわいてくる話ね」と感動していた。
 今日も下見の終わりには、次郎の兄の話になった。
 「お兄さんはお元気ですか」と友子が次郎に聞く。
 次郎は微笑んで「先日も、ディサービスで花見ドライブをしたとか」と答えた。
 友子は次郎の表情を見て安心した。
 「落ち着いているようで、よかったわ」
 「ありがとう、では、またね」

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十二

◎二十二、長命寺の八百八石段

 滋賀県近江八幡市。
 長命寺バス停で降りると、すぐ目の前が長命寺港である。かっては大津方面から、船によって長命寺への参拝が盛んに行われていたのであろう。
 湖畔の道路を横断して少し進むと、正面に日吉神社があり、その右横が長命寺の参道入口になっている。「八百八段の長い石段を登り切ると長生きできる」と言い伝えがある道だ。今日では、神社の左側から続く自動車道を利用することができる。
 次郎と友子は運良く、空車で降りてきたタクシーを止めて乗せてもらうことができた。二人はお互いに八十歳、「年寄の冷水」にならないよう、そこは考えている。タクシーの運転手さんは「二度目のお勤め」と言う団塊世代の人だった。
 その人日く、お寺の駐車場から本堂までの百段は残してあるため、「達成感は味わえます」とのこと。
 寺伝によれば、長命寺(天台宗)は長命山(三三三メートル)の八合目に建てられ、西国三十三所観音霊場の第一の第三十一番札所として多くの信仰を集めてきた。
 伝承によると、武内宿禰がこの地でヤナギの巨木に「寿命長遠諸願成就」と彫ったが、これを知った聖徳太子がその木で仏像を彫り、これを安置するため長命寺を創建したという。
 参拝をすませて、本堂から眼下の琵琶湖の風景を見ていると、さっき送ってくれたタクシーの運転手さんが百段の石段を上がってきた。
 次郎の定期券が車の外に落ちていたので届けてくれたとのこと。なくした折にも気付いていなかった、うかつな次郎は恐縮するばかりだった。

 次郎が友子に間い掛ける。
 「認知症のきっかけにもなる『生活不活発症』 って知ってる?」
 「最近テレビでも言われだしている、何事にも無精になるということなの?」
 次郎は相槌を打って、突然問題を出した。
 「そうだね。では、その改善策として、すべきことの第一は、心身機能か生活動作か社会参加か、どれでしょう?」 ・
 友子が自信満々に答える。
 「社会参加の改善です。そもそも普通に生活していた人が、急に無精になりだすということは、何か強いストレスかショックがあったはず。そこから立ち直るには社会参加への復帰、それもボランティア活動にね」
 次郎が感心して「さすが友ちやん、正解です」と小さく拍手した。
 「世のため人のために役立つことに参加すれば、その人の寿命は確実に延びるということが科学的にも証明されているそうよ」
 友子は得意げに次郎へ話した。
 次郎が「べつに八百八段に挑戦しなくても…」と笑った。
 「いや、それはそれで楽しみだからやるけど」
 優しい友子はボランティア活動にも熱心だ。
 すっかり疲れた帰り道・
 友子は「認知症のお兄さんの具合はどう?」といつものように次郎に問いかけた.
 「兄は今年で米寿になる。普通のお年寄りにどう戻すかが問題なんだ」
 「記憶力の低下とか判断力や身体能力が低くなるのは、ある意味では仕方がないかもね」
 う一んと悩む次郎を見て、友子は慰めの言葉をかけた。
 しかし、次郎は明るい顔になってこう言った。
 「中心症状に対して『周辺症状』といわれる、突然の怒り・夜間の外出・幻覚・幻想などの常軌を逸した言動をどうなくしていくかが問題なんだけど、うれしい事に最近減少してきているよ」
 友子の表情も明るくなり、「次郎ちゃんの介護の効果ね」と肩をポンと叩いた。
 次郎は嬉しそうに「ありがとう。デイサービスのおかげで息抜きできるし。友ちやんのご協力で私も前向きに生活しているよ」と返事をした。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十一


◎ 二十ー、「帯解寺の今昔」

 JR桜井線「帯解駅」を出て東側にある道を北に進む。この道は上街道とよばれ、古代から利用されてきた道である。近世には、奈良と吉野方面、また初瀬から伊勢へと通じる参詣道として栄えた。
 帯解寺はまもなく左手に見えてくる。本尊は鎌倉時代の作とされる木造地蔵菩薩像(国重文)で、左手に宝珠、右手に錫杖をもち、左足を踏みさげて岩座に坐す。また腹部に結び紐があらわされるところから、「腹帯地蔵」として、安産祈願の対象としても信仰を集めてきた。
 寺伝によれば、文徳天皇の皇后(藤原明子)が、春日明神のお告げにより、勅使を立てて「帯解子安地蔵菩薩」に祈ったところ、まもなく懐妊し惟仁親王(後の清和天皇)が生まれた。そこで文徳天皇はこれに感謝して、八五八年(天安二年)にこの地に伽藍を建立し、寺号を帯解寺と定めたと云われる。
 江戸時代に入ると、二代将軍徳川秀忠が初め世継に恵まれず、お江与の方が帯解寺に祈願したところ、竹千代(後の三代将軍家光)が生まれた。そこで秀忠は本堂の再建を援助し、仏像、仏具を寄進したという。三代将軍家光のときにも同じような話が伝わっていて、その後ちしほしば将軍家や皇室の安産祈願の対象となり、現在も安な祈阪に訪れる参拝者が後をたたない。山門を入った左手にある手水鉢は、四代将軍家綱から寄進されたものである。
 友子は「まるで皇室や将軍家のご用達じやない…」と驚いた様子だ。
 次郎が答える。
 「実際は地域の住民に代々支えられてきている。しかし、東大寺を大本山とし新薬師寺、帯解寺、安倍文殊院などが属する、南都亠ハ宗の一つ華厳宗は成立時期が古く、宗派としては一般にはなじみが薄いのかもしれない」
 少し考えた友子は目を見開いて、こう言った。
 「阪急沿線の中山寺も安産祈願の寺として有名だけど、ここも駅の前で、エスカレーターはあるし、売店、休憩所とまるで人きなスーパーみたいで至れり尽くせり。対照的ね」
 次郎は一度頷き、「しかし今や巷では、生んだ後の保育所の体制が政治問題化しているね」と語気を強めた。
 友子は以前からこの問題に興味があり、「知ってる」と自信満々に説明を始めた。
 「『保育所落ちた』という母親のブログがきっかけで、子供が認可保育所に入れなかった父母らの怒りが爆発しているわね。『一億総活躍社会』を打ち出し、待機児童ゼロを掲げる安倍首相、厚生労働省の調査では待機児童は解消するどころか五年ぶりに増加しているのよ」(二〇一六年に執筆)
 次郎がさらに詳しく話す。
 「国が発表した昨年四月の待機児童は二万三千百六十七人。しかしほかに少なくとも四万七千人の『隠れ待機児童』が居たと塩崎厚労相は国会答弁で認めているよ」
 友子が熱くなって提案する。
 「保育や幼児教育に対する公的支出はイギリスやフランスの半分以下。乳幼児期の保育や教育は公共財産であるべきよ」
 珍しく白熱した様子の友子だったが、帰り道ではすっかり落ち着ハて、いつも通り介護中の次郎を労う優しい友ちゃんに戻っていた。
 「認知症のお兄さんの介護、頑張ってね」
 次郎は「ありがとう。また相談するよ」とお礼を言つた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十九


◎ 十九、「聖護院」山伏姿で托鉢は冬の京の風物詩

 京都市左京区、岡崎公園から西へ約十分行くと聖護院がある。本山修験宗の総本山で本尊は不動明王、円珍の法脈につながり十一世紀に増誉が開いた白川房に始まるという。
 増誉は寛治四年(一〇九〇年)、白河上皇の熊野御幸の先達をつとめ、熊野三山検校職を賜り、修験道を統括した。三世覚忠のときに聖護院と号した、と由来にある。
 次郎が最初に紹介する。
 「毎年一月に信者達が修験道の山伏姿で法螺貝を吹き鳴らして托鉢・祈祷する寒中修業は、冬の京都の風物詩としてテレビでも報道されているよ」
 友子が質問する。
「聖護院の受付けで『近畿三十六不動尊霊場』の一覧表をもらったのだけど、『お不動さん』と親しまれているのに、恐ろしい形相で表現される不動明王はどう理解すればいいの?」
 次郎が答える。
 「明王が憤怒の形相をしているのは二つの理由がある。一つは衆生のうち、仏の教えに耳を傾けようとしない、頑迷な連中を導くためだ。二つ目は仏の世界を脅かす悪や煩悩に対抗するためだ。多くの衆生を救いたい慈悲心と、仏法を守ろうとする固い決意が憤怒の形用としてあらわれているのだ、と云われている」
 友子がさらに質問する。
 「不動明王は宇宙の創造者である大日如来の変身とされているけど、釈迦の仏教ではそういつた『絶対神』を認めていないのではないの?」
 次郎が答える。
 「釈迦が亡くなって数百年がたっと、釈迦の教えとはかなり異なるかたちで『だれわれを助けてくれる不思議な力があり、それが多くの者を救い上げてくれる』という思想『大乗仏教』が生まれた。今の日本の仏教は全て大乗仏教だよ」
 友子が問いかける。
 「次郎ちやんはどう思うの?」
 次郎は少し考えて、こう答える。
 「僧侶になり苦行しなければ救われないという小乗仏教では社会が成り立たないよ。物事は発展変化していく、諸行無常は仏教の教えの根本だから、大乗仏教で何ら矛盾はないと思うよ」
 「最後にちよつとびっくり情報。京都みやげの焼菓子として有名な『聖護院八ツ橋』は筝曲をきわめた八橋検校を偲び琴のように反った短冊形の菓子を『八ツ橋』として、検校の墓がある黒谷に近いこの地で売ったことに始まるという」
 友子は「それは知らなかった」と驚く。
 次郎が続けて説明する。
 「この際、お寺の種類を分類すると、五つに分けられる。一つ目は、故人や先祖の法事や墓参りに関するお寺の『檀家寺』。二つ目は、現実の困難や災難がなくなることを祈願する『信者寺』。三つ目は、観音菩薩や不動明王など特定の仏を祀る大規模なお寺を『霊場寺』。四つ目は、建立が古く、歴史的に貴重な建物、仏像、仏画などが伝わって、その文化的な価値が人々の関心を集め、拝観料をもらって経営する『観光寺』。五つ目は、僧侶の修業だけでなく 一般の人々の短期修業(座禅や写経)を認める『修業寺』。どうぞ参考にして下さい」
 友子は「それは、それは参考になりました」と手を合わせてお辞儀をした。
 日が暮れた帰り道、友子が話題を変えて尋ねる。
 「お兄さんは元気?」
 次郎が広場で遊ぶ子供を見て、思い出したようにこう言った。
 「兄の施設に学童保育所から子供たちが遊びに来てくれて、入居者のみんなが喜んでいたそうな」
 友子が心を込めて「いいね」と相槌を打つ。
 次郎が感慨深く「じんとくるね」と言いながら、朗らかな表情を見せた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十八


◎ 十八、誓願寺に「西鶴の墓があった!」

 今日の二人の史跡巡りは、大阪市中央区上本町四丁目の誓願寺に来ている。
この寺に墓がある井原西鶴は、近松門左衛門や松尾芭蕉と並び、元禄時代に町人世界を写実的に表現し、明治以降の作者にも強い影響を与えた浮世草子作者である。また、俳諧師でもあった。
 西鶴の墓が世に知られたのも、西鶴に傾倒していだ明治時代の文人幸田露伴が、境内の無縁塔にまじっていたのを発見したことが端緒になっている。
 井原西鶴(寛永十九年・一六四一年)は大坂の富裕な町人であった。
 しかし、「僧にもならず世間を自由にくらし」と当時から云われていたように、単に楽隠居ではなく、町人社会からもある程度自由に生きて、愛欲と金の世界を描きだした。
 今日は友子から会話を始めた。
 「西鶴の最初の浮世草子『好色一代男』は、江戸で松尾芭蕉が『風雅』を求めて新しい動きを始めたことに対して、西鶴は『転合』精神で新しい世界を開いたのね」
 次郎はそれに答える。
 「一代男は『源氏物語』の滑稽化であり、好色の英雄・世之介を生み出した。世之介は九州から奥州まで遍歴して、地方の性風俗・売春風俗を誇張、滑稽化しながらもリアルに哀れにとらえている」
 友子も負けじとこう話した。
 「一方で、島原・新町・吉原という三都の遊里での恋を、実在の吉野太夫をモデルにして描きだしている。実説によれば、吉野は富商灰屋紹益に千三百両で身請けされ、寛永八年に退郭し灰屋紹益の妻となったけど、謙虚な人柄だったらしい。京都市北区の常照寺には吉野が寄進したと伝わる赤門があり、墓地に夫婦の墓があるのね」
 「西鶴はその後、『諸艶大鑑』『好色五人女』『本朝二十不孝』『好色一代女』、説話物として『西鶴諸国ばなし』『懐硯』、町人物として『日本永代蔵』『世間胸算用』がある」
 「西鶴の方法には、記録映画の手法に近いものがあり、小道具を拡大して貧民街の生活を浮かび上がらせるなどリアルさがある。矛盾に満ちた現実を、悲喜劇的にたくましく生きていく庶民のエネルギーが支えになっているのね」
元禄六年(一六九三年)、西鶴は五十二歳でその生涯を閉じたが、その年の冬、門人が遺稿集「西鶴置土産」を出版している。
 辞世の句は「浮世の月見過ごしにけり末二年」、最後の病床で西鶴は、この置土産を書いていたのであろう。

 帰り道、次郎はお決まりの近況報告を行った。
 「私は、最近『認知症の人のつらい気持ちがわかる本』を熟読しているよ。理解すれば寄り添い方と介護のコツが見えてくる、と書かれているが、納得だね」
 友子は明るい表情で「次郎ちゃんは何でも積極的に取り組むからえらい!感心するよ」と優しく手を叩いた。
 「なんで俺が…と、被害者意識だけでは心身共にもたないから、自衛の策だよ。友ちやんと史跡巡りでストレス解消も出来るし、本当に感謝しているよ」
「私の方こそ、ありがとう。今まで知らなかったことが、毎回のように理解できてびっくりの連続。これからもよろしくね」
「こちらこそ、ではまたね」
 次郎は頭を軽く下げ、電車の改札へと向かった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十五

◎十五、江戸の世界に誘う草津宿本陣

 今回の場所は次郎が今、認知症の兄の介護で住み着いている草津にある「草津宿本陣」。
 友子に「歩いてきたの?」とひやかされた次郎は「いや、草津線を一駅だけ乗ってきた」と答えた。
 さっそく友子を我草津駅から歩いて十分の本陣へ案内した。
 説明書にはこう記されている。
 「江戸時代街道沿いに、大名・公家・幕府役人などの宿泊旅館である本陣を中心にさまざまな施設が集まっていた。草津宿も東海道と中山道が合流する交通の要所。本陣ニ軒・脇本陣ニ軒・旅籠七十軒余りを構え、多くの旅人で賑わっていた。本陣屋敷は建坪四百六十八坪を有し、桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。表門をくぐると左手には番所が置かれ、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延びている。そして畳廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋及び主客専用の湯殿や上段雪隠を配している。屋敷裏手には、厩、土蔵、避難用門があり、屋敷の周囲にめぐらされた高塀や堀などが広大な敷地を護っている」
 二人は案内書の示すようし時間をかけて見て回った。本当に江戸の世界に入っていくような気がして、次郎はおもしろさを感じていた。
 「こんなふうにほぼ昔のままで残っているのは全国でもあまり例がない。江戸時代の参勤交代には本陣は無くてはならないものだった」
 友子は「参勤交代って正確にはどういうことなの?」と次郎に聞いた。
 「江戸時代の大名の数は二百七十位。関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えて大名になった、五万石以下の譜代大名が多かったけど、大・中の大名もかなりいた。それらの大名統制のために、一定の期間諸大名を江戸に参勤させた制度のことだ」
 次郎は続ける。
 「一六三五年(寛永十二年)武家諸法度の改正で制度化された。多くは在府・在国一年交替が原則。同時に大名は妻子を人質とすることになり、道中の費用や江戸屋敷の維持などの膨大な出費に悩まされた。幕府にとっては大名統制策として有効であったんだ。一方、経済機構の整備、文化の全国交流、江戸の繁栄など諸方面に大きな影響を与えた。一八六二年(文久二年)幕政改革の一つとして大大名は三年に一年、他は三年に一度百日在府と改正したけど、このことによって幕府の大名統制は緩んだんだ」
 友子は次郎に疑問を投げかけた。
 「ニニ七年間もやっていたのはすごいね。大名行列に何か規制はなかったの?」
「参勤交代で大名が江戸と国もとを往復する基準は、武家諸法度で百万石以下二十万石以上は二十騎以下と規定した。しかし、実際にははるかに大規模で、多い場合は数千名、少なくても百名以上。諸藩は威を張り見栄をかざつたんだよ」
 友子は続けて「幕府は大名が浪費して潰れるのを待っているのね。それにもう幕末近しではないの?」と聞いた。
 「この年だけでも坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件:.大政奉還、徳川幕府崩壊まであと五年だからね」
 友子は頷きながら本陣の柱にそっと手を添えた。

 二人は草津宿本陣から少し離れた商店街を歩いていた。
 今日の帰り道も友昨は次郎の兄を気にかけた。
 「その後お兄さんは?」
 次郎は思い出したように話し始める。
 「以前は兄もこの商店街に自転車で来ていたらしいけど。最近はスーパーで目覚まし時計を五台も買ってきたよ」
 友子はびっくりした表情で「安かったから配るつもりかしら」と眩いた。
 次郎は微笑みながら友子に「またね」と挨拶し、友子も手を上げてそれに答えた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第53回

◎法住寺ー大石内蔵助も詣った身代不動尊

 京都は三十三間堂の東にある法住寺は、後白河法皇の院政の舞台「法住殿」の後に建てられた。本尊は身代不動尊。討ち入り前の大石内蔵助も参拝したという。
 「身代わり」とは後白河法皇が法住殿に住んでいた時、木曽の義仲が院の御所に攻め入り、あやうかったところを当時の天台蔵王、明雲大僧正が身代わりとなって、後白河法皇は難を逃れることができた」と伝えられていることによる。
 「山科に身をひそめて、江戸の吉良邸への討ち入りを計画していた内蔵助が、わざわざ一体何を…。友ちやんはどう思う」と次郎。「やはり、自分らに代わって吉良をこらしめてほしいと、率直にお願いしたのではないの」
 「天災もあれば急病もあるしね。内蔵助は仇討決行による悲惨な結末を予想して万が一の身代わりをすがったのか…」
 赤穂浪士が吉良邸へ討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、世間に悟られないよう、バラバラの服装でバラバラに集まってきて、表門と裏門に分かれて侵入。時代劇にあるような、かっこうのいいものではなかったのです。
 「戦争中に小学校で忠臣蔵が戦意高揚に使われて、四十七士の名前の暗記などやらされた」「学童疎開や空襲、もう絶対いやね」

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年11月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第58回

◎広隆寺ー国宝第一号の弥勒像で有名

 嵐電嵐山本線の太秦広隆寺駅前にあるこの寺は、京都における最も古い寺院のひとつで、日本書紀によると、大陸からの帰化人である秦河勝が推古11年(603)に新羅、任那の両国から送られた仏像を祀ったのがはじまりだという。
 その後、弘仁9年(818)と久安6年(1509)の二度にわたり建物が焼失し、現在のものは永承元年(1046)に建てられた講堂が最も古い。
 霊宝殿にある本造の宝冠弥勒菩薩半珈思惟像は飛鳥時代の作といわれ、その日本的な徴笑に魅せられたのか、1970年ごろにいち高校生によつて右手指を折られてしまった。
 この寺には同じく、もう一体の今にも泣きだしそうな弥勒菩薩があり宝髻弥勒とよばれている。
 今は寺の隣に、日本映画発祥の地ということで、東映太秦映画村が昭和50年に開設され、時代劇の世界を体験できるテーマパ—クとして、さまざまなイベントが行われている。
 「霊宝殿での守衛さんが少し厳しく感じたのは、過去にそんなことがあったのだね」と次郎がつぶやく。
 「太秦は秦氏によって平安京以前から開かれていた。レトロな嵐電で嵐山を正面に見据えながら、寺社を巡るそぞろ歩きも」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年5月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 七

◎廬山寺は「紫式部邸阯」にある

 廬山寺の沿革にはこう記されている。
 「廬山寺は京都御所に隣接しており、それは鴨川の西側の堤防に接しており、明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院四ヶ寺の一つであった。明治五年九月、太政官布告をもって総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年園浄寺として元の四宗兼学の道場となり、今日に至る」
 元々この地は、紫式部の曾祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅である。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた『古い家』で一年の大部分を過ごしていたといわれる。
 この邸宅で藤原宣孝との結婚生活(二年で死別)を送り、一人娘の賢子を育て、日本文学史上の傑作といわれる『源氏物語』を書き上げたのである。
 地下鉄今出川駅を上がれば、同志社女子大の前に出る。若い学生たちが立ち止まったりしている中を、八十歳の次郎と友子がいそいそと紫式部邸址に向かう。何となく華やいだ気分になってくるのは健康的に良いことではないか。
 「紫式部はこんな御所に隣接した、京都のど真ん中で暮らしていたとは知らなかった。源氏物語は石山寺で書いていたのではないの」と、次郎。
 「あれは伝説であり、もしあったとしても一時的なものでしょう」と、友子も興味ありげだ。
 お寺の中にも紫式部色は強く、庭も「源氏庭」と名付けられている。
 友子は次郎に近付いて小声で「紫式部は藤原姓であり、夫亡き後宮仕えをすすめ、その紫式部の文学生活を物心両面にわたり援助をしたのも、時の最高権力者藤原氏だったのよね」と話す。
 「当時紙なども高価なもので強力なスポンサーなしでは本は出せない」と次郎は答える。・
 友子は重ねて「ではなぜ本の題名を『藤原氏物語』にしなかったのだろう。藤原氏のライバル源氏の宣伝をなぜしてやるの」と疑問を投げかける。
 「そこが歴史のおもしろさなんだ」と次郎は友子に顏を寄せて語る。
 「『源氏』とは、天皇の次男ニ二男で天皇を継げなくて臣下になった場合に付けられる名前だが、事情が変わってその後天皇になるかもしれない立場なのだ」
 次郎はつづける。
 「一方、藤原氏はいくら権力を独占しても、代々娘を天皇に嫁がせて天皇の母にはなれても、天皇にはなれない立場。そこで源氏をことあるごとにイメージダウンさせておかなければならない」
 「それで?」と友子も乗り出す。
 「友ちゃん、源氏物語の主人公・光源氏をどう思う?」
 「おんなたらし。女性を次々に悲惨な目に遭わせていく。しかも、政治家なのに庶民の暮らしなどには全くの無関心」と友子。
 「こんな国民にとっては百害あって一利なしの家系が源氏なんですよ、と『源氏物語』は藤原氏の思惑を十二分に伝えてくれている」
 「紫式部は利用されたのね」と、友子は少し淋しそう。
 次郎はそんな友子を見て、小さく首を振った。
「いや、大変な页斤の中で紫式部は鴨川の流れを見つめながら、自分しか書けないものを後世に残したのではないか」
 二人が紫式部邸址を後にして歩いていると、次郎は思いついたように言った。
 「今出川駅で認知症の兄の好物、鯖ずしでも買って帰るわ」
 友子はそれを聞き「私もそうしょう」と頷いた。
 「またね」と二人、鯖ずしを手に持って別々に歩き出した。

・大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 未収載

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