◎宝山寺・十三仏(住吉区住吉一ー 五)
平安・鎌倉時代に盛んであった「蟻の熊野詣」の熊野街道も、今では路面電車や自動車の行き交う基幹道路となり、その面影は阿倍野区では阿倍清明神社や阿倍野王子神社辺りに少し残るだけである。
しかも、住吉区に入れば帝塚山周辺はマンションがでこぼこに建ち並び、かつてのお屋敷町としての趣は無く、わずかにチンチン電車だけがすこしレトロな気分にさせてくれる位だ。
「神ノ木」から史跡ゾ—ン
上町線の帝塚山四丁目駅から、たった一両の電車が左右に力—ブしながら、こころもとなげに坂を登り、次の「神ノ木」駅へと姿を消していくと、後には街道だけが残った。
熊野街道はこの辺りから線路とは逆に少し下り坂となり、ー柄何の変哲もない道路を南下する。しかし、南海電車高野線の踏切を越えて左に曲がり少し行きだすと、沿道の雰囲気は段々に変わってくる。それもそのはず、この辺りは江戸時代から、足利、南北朝、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、古墳、そして神代の時代に至るまでの史跡が、大和川までの約半里(二キロ㍍) の熊野街道を中心にして「密集」しているのである。
誰でも「懐かしく思う町」
郷土史愛好家がもしこの地に足を踏み入れたなら、「なぜ」「なぜ」の言葉を連発し、しばしぽうぜんとするにちがいない。なんとなれば、これだけ「一級品」の神社、仏閣、文化財、史跡が戦前の姿のまま現存して、しかもそれらの多くが今も活発に、何百年来の活動を続けている。また、それぞれが、おそらくは経済的には悪戦苦闘しながら、拝観料等は一 切取らず、万人に独自の景観を提供し、森や大樹を保護育成し、環境にも永年に わたり貢献してきている姿を見るからである。
しかも、周辺の酒屋、米屋、味噌屋等の商店が、江戸時代のままの店舗を残してくれていることにも感激させられる。 しかもそれぞれが盛業中である。
実は、これらの家には、かつて絶世の美少女がいたし、スポーツ万能のすこしはにかみやの好少年がいた。共に私の、 終戦直後の新制中学二期生の懐かしい同級生である。
いつか「大阪南部百景」を
上町台地の北側には大阪城があるが、その以前は石山本願寺であり数多くの神社・仏閣がそれを取り巻いていた。今ある「寺町」は徳川幕府の戦略として、その後強制的に集められたものである。台地の中央部には四天王寺がそびえ建ち、前方の夕日が丘を中心にして、有名な神社や寺院が今も信者をあつめ、観光客を呼んでいる。
そして、上町台地の南側には、住吉大社の背後を固めるようにして、空襲に会っていない何十という神社やお寺が適当な距離を置いて存在し、それぞれの地域に根付いて活動しているのである。中には住吉大社よりも古い歴史を持つものもあるという。
私は機会があればぜひとも「上町台地南部百景」なるものを書いてみたいと真剣に思う。
十三仏は太閤の忘れ石から
今回はその中から、宝山寺・十三仏を紹介する。
この寺院は、万年山と号し、平野大念仏寺派末。寺伝によると、惠心僧都が四十ニオの厄除けのため、天元五年(九八二)に融通念仏宗の念仏堂を創建したことに始まる。本尊阿弥陀如来像は惠心自作と伝える。元亀二年(一五七ー)宝泉上人が本堂を建立、現在の寺名になった。堂宇は元和元年(一六一五)大阪<ママ 坂?>の陣で失、寛永十一年(一六三四)再建、その後修復を繰り返している、という。
宝泉寺の前を行き過ぎようとして、ふと視線を感じて振り返ると、街道沿いにあるお堂のような中に人影がする。近付いてみるとお堂には「住吉名所十三仏」と書いてあり、等身大の石仏が十三体ずらりと街道に面して並んでいる。「立派な」と思わず声を上げてしまう程、見事な、傷一つない仏たちである。
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・楽師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦(しゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩等である。
七福神が生きている間の守り神であるように、十三仏は死後の世界の救済者である。これだけの本尊を網羅すれば、救われること疑いなしとする気持ちのあらわれである。
十三仏の石材は、この付近から出土したものと伝えられるが、一説には豊臣秀吉が大阪城築城に際して集めた巨石が、何かの事情で置き去りにされたのを、十三に割って活用したと云われている。十六世紀後半の作と推定される。
一度洗ってあげたい十三仏
実は、十三仏が沿道のほこりにまみれて、 特に頭や肩の部分が黒くなっているのである。露天であれば雨で洗われるが、お堂の中なのでそうはいかない。仏像を洗うということは、いいことかわるいことかは知らないが、水掛け不動さんの例もあることだし、いつも由来書等を気安く下さる住職に、今度こそ勇気を出して聞いてみようと思う。