がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十一


◎ 二十ー、「帯解寺の今昔」

 JR桜井線「帯解駅」を出て東側にある道を北に進む。この道は上街道とよばれ、古代から利用されてきた道である。近世には、奈良と吉野方面、また初瀬から伊勢へと通じる参詣道として栄えた。
 帯解寺はまもなく左手に見えてくる。本尊は鎌倉時代の作とされる木造地蔵菩薩像(国重文)で、左手に宝珠、右手に錫杖をもち、左足を踏みさげて岩座に坐す。また腹部に結び紐があらわされるところから、「腹帯地蔵」として、安産祈願の対象としても信仰を集めてきた。
 寺伝によれば、文徳天皇の皇后(藤原明子)が、春日明神のお告げにより、勅使を立てて「帯解子安地蔵菩薩」に祈ったところ、まもなく懐妊し惟仁親王(後の清和天皇)が生まれた。そこで文徳天皇はこれに感謝して、八五八年(天安二年)にこの地に伽藍を建立し、寺号を帯解寺と定めたと云われる。
 江戸時代に入ると、二代将軍徳川秀忠が初め世継に恵まれず、お江与の方が帯解寺に祈願したところ、竹千代(後の三代将軍家光)が生まれた。そこで秀忠は本堂の再建を援助し、仏像、仏具を寄進したという。三代将軍家光のときにも同じような話が伝わっていて、その後ちしほしば将軍家や皇室の安産祈願の対象となり、現在も安な祈阪に訪れる参拝者が後をたたない。山門を入った左手にある手水鉢は、四代将軍家綱から寄進されたものである。
 友子は「まるで皇室や将軍家のご用達じやない…」と驚いた様子だ。
 次郎が答える。
 「実際は地域の住民に代々支えられてきている。しかし、東大寺を大本山とし新薬師寺、帯解寺、安倍文殊院などが属する、南都亠ハ宗の一つ華厳宗は成立時期が古く、宗派としては一般にはなじみが薄いのかもしれない」
 少し考えた友子は目を見開いて、こう言った。
 「阪急沿線の中山寺も安産祈願の寺として有名だけど、ここも駅の前で、エスカレーターはあるし、売店、休憩所とまるで人きなスーパーみたいで至れり尽くせり。対照的ね」
 次郎は一度頷き、「しかし今や巷では、生んだ後の保育所の体制が政治問題化しているね」と語気を強めた。
 友子は以前からこの問題に興味があり、「知ってる」と自信満々に説明を始めた。
 「『保育所落ちた』という母親のブログがきっかけで、子供が認可保育所に入れなかった父母らの怒りが爆発しているわね。『一億総活躍社会』を打ち出し、待機児童ゼロを掲げる安倍首相、厚生労働省の調査では待機児童は解消するどころか五年ぶりに増加しているのよ」(二〇一六年に執筆)
 次郎がさらに詳しく話す。
 「国が発表した昨年四月の待機児童は二万三千百六十七人。しかしほかに少なくとも四万七千人の『隠れ待機児童』が居たと塩崎厚労相は国会答弁で認めているよ」
 友子が熱くなって提案する。
 「保育や幼児教育に対する公的支出はイギリスやフランスの半分以下。乳幼児期の保育や教育は公共財産であるべきよ」
 珍しく白熱した様子の友子だったが、帰り道ではすっかり落ち着ハて、いつも通り介護中の次郎を労う優しい友ちゃんに戻っていた。
 「認知症のお兄さんの介護、頑張ってね」
 次郎は「ありがとう。また相談するよ」とお礼を言つた。

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