南大阪歴史往来(004)

西成、住吉歴史の街道シリ—ズ(二)

粉浜《こはま》の閻魔《えんま》地蔵堂《じぞうどう》(東粉浜三-五)


 勝間街道の住吉側からの出発地点は東粉浜三丁目にある、地元では「六道《りくどう》の辻《つじ》の閻魔さん」とよばれて親しまれている、閻魔地蔵尊のお堂であった。場所は上町台地の西の坂を下りたところで、道路が六方向に集中する一角にあったが、戦後|交差《こうさ》部分が拡張《かくちょう》されたため七方向の道路が集まるところになった。
 交通の要所《ようしょ》にもかかわらず、裏道《うらみち》になってしまったために自動車がほとんど通らず、町並みも戦前の建物が八割方を占め、現代の奇跡《きせき》を見ているような、不思議な空間と時間を生んでいる。

四百年間、 勝間を守って

 閻魔|大王《だいおう》という恐ろしい冥界を支配する死の神と、地蔵|菩薩《ぼさつ》という一番優しい仏さんが一体となっている閻魔地蔵尊のお顔は、自然石《しぜんいし》に彫られた大人のそれ位で、黒光りに変色していた。こまごました細工《さいく》は一切なく、粗削りの中にも現代の抽象画《ちゅうしょうが》のような、見る人に様々《さまざま》にかんがえさせるものであった。
 掲示されたものによれば「本尊閻魔地蔵は難波の浜辺におわしましたが、われを住吉大社へとのお告《つ》げにより背負《せお》われて、住吉へはこばれました。ところがこ
の地までくるとどうしたことかにわかに重くなられ、ここにとどめてまつられるようになりました。
 尊像《そんぞう》には天文七年(一五三八)の銘《めい》が刻まれていますから、四百三十五年前で戦国争乱《せんごくそうらん》の世でした。内陣《ないじん》の本尊《ほんぞん》は石造《いしづくり》の座像《ざぞう》で、お姿は閻魔大王の憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》でしやくをもっ ておられ、お地蔵さまというイメージとはちがっていますが、閻魔は地蔵菩薩の化身《けしん》といわれていますので、いつしか近郷近在《きんごうきんざい》の人びとに霊験あらたかな閻魔地蔵として、崇められるようになりました」とある。
 天文七年とは大坂では十一年におよんだ、織田信長と一向宗《いっこうしゅう》の本山石山|本願寺《ほんがんじ》との石山合戦が終わりをつげ、顕如《けんにょ》らが大坂を退去した後、石山本願寺は三日三|晩《ばん》燃《も》えつづけ、すべての堂舎《どうしゃ》が焼《や》け落ちた前の年のことである。この仏像が難波にあったということであれば、当然石山合戦とは無関係ではあり得ず、あわただしい情勢の中で、作者は粗削りな作品の中に後世《こうせい》の平和を願ったとよみとれないだろうか。

心のいやされる時空

 がたがたと戸を開けて中に入ると、右手のちよつとした畳《たたみ》の間に女の方がお堂の守をされていた。近頃は神社でも無人《むじん》のところが多いのに、ここはいつ来てもだれかがおられるので、ローソクや線香《せんこう》のたえることがない。掃除《そうじ》がゆきとどいて柱や板もすべて黒光りしている。床にも打水《うちみず》がされていて気分が落ち着く。白いカバーのかけられた小さな座布団《ざぶとん》に腰掛《こしか》けて、いろいろお聞きすると親切《しんせつ》に答えてくださる。先日も縁起書《えんぎしょ》を少し余分《よぶん》にお願《ねが》いすると、わざわざさがして、追いかけてきて下さった。今時《いまどき》こんなところはちょっとなく、閻魔堂でのひとときは本当に心のいやされる時間だといえる。
 実は私の一家は戦後疎開先から引き上げてきて、この閻魔堂の近くに住み、私はここで少年時代を過《す》ごしたのであった。その家は今も地元のお母さんたちが運営《うんえい》する乳児《にゅうじ》の共同保育所としてそのままの姿で残っている。東粉浜での思い出は語りつくせない程あるが、例えば戦後いち早く地蔵盆が盛大《せいだい》に復活され、この辻で盆踊りや演芸《えんげい》大会が何日もやられ、大人《おとな》たちが目の色をかえて取り組んでいたこと。縁日《えんにち》には数多くの露店《ろてん》も出てにぎやかな中で、お堂の中では山伏《やまぶし》たちが、炎《ほのお》を天井に吹き上げながら護摩をたくのを、石の玉垣《たまがき》にぶらさがって顔を真つ赤にして見ていた子供たち。
 夾竹桃《きょうちくとう》の木の下に毎日来た紙芝居《かみしばい》。タ焼けの中に友達が一人づつ家から「ごはんやでー」とよばれてきえていき、やがてだれもいなくなったお堂の前の小さな広場……。
 堂内に掛けられた地獄絵《じごくえ》は大正時代に信者《しんじゃ》が描《か》いて持ってきたものだそうで、昔と同じところに今もあったが、子供の頃の印象《いんしょう》からすればうんと小さく感じられた。子供心に夢にまで見たこんな絵を、昨今《さっこん》世間を騒がせている官僚《かんりょう》や銀行のエリート・自民党らの政治屋は見て育ったのだろうかと、お参《まい》りに来ていた人たちと話し合った。

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今昔西成百景(009)

先々代の診療所のお話です。写真は、先代。

◎民主診療所

 黒田革新府政誕生の一年前、一九七〇年に西成民主診療所は、潮路二丁目五番地につくられた。「西成にもやっと民主的な医療機関ができた」と、建設委員会の人々や区内各民主団体の代表は、喜びと期待に胸ふくらませて開所式にのぞんだ。

戦前の無産者診療所のたたかいをひきつぐ

 「民診」は医療活動のかたわら、地域活動にも積極的に取り組む方針を生かし、ただちに近くの児童公園廃止反対の運動に参加、四方理事長の市会初当選も力になり公園存続に成功。西成民主診療所「民診」は一挙に地域に根付いた存在となった。今もその公園は子供のあそびば。
 木津川にル—プ橋が架けられることになり、連綿とつづいていた千本松渡船の廃止が市で決定された。しかしこの橋はあくまで自動車中心の橋で、人が歩いたり自転車で渡ったりはできない。「民診」では所長を先頭に総出で現場へ行き、老若男女のモデルに歩いて渡ってもらい、各人の疲労度を測定し科学的デ—タを作成。「橋はできても渡しは残せ」の名文句で広がった住民運動と協力してついに市の決定を撤回させた。今日も多くの人を乗せて渡船は通っている。
 自民党政府は「高齢者社会の到来に備えるため」と称して消費税を導入しておきながら、一方で医療を営利企業の市場にかえる目的をもって医療法改悪を行ない、次いで老人保険法の改悪を矢つぎばやに出してきた。
 「民診」は、厚生省のこのようなやり方は「国が医療を捨てるとき」と、追及バクロし署名や集会、デモで区民に訴えた。
 「民診」のモットーは「いつでも、どこでも、だれでも安心して医療を受けられるように」である。創立以来二十三年の間に「民診」の理事などで地域で奮闘され物故された方々は、西口喜代松(今宮)・松本正堅(南津守)・松本克義(潮路)・佐藤虎喜(橘)・本間のぶえ(梅南)・福井由数(出城)の諸氏である。それぞれの方々と「民診」の結びつきを回想すれば正に走馬燈の感がある。
 今、「民診」もいよいよ建て替えの時期をむかえ、六月末上棟式、十月新設開所のはこびで工事が進められている。その間は医療生協会館で診療はつづく。
 西成になくてはならない存在となった「民診」は、新しい建物でより大きな活動を目指している。(一九九三・六)

予防接種(ワクチン)の一部変更について

2024年4月から、予防接種(ワクチン)の種類などを一部変更しています。

  1. 4種混合ワクチン(ジフテリアワクチン+破傷風ワクチン+百日咳ワクチン+ポリオワクチン)を、5種混合ワクチン(以上に加えて、ヒブワクチン®[インフルエンザ桿菌ワクチン])とします。接種月齢は、生後2ヶ月からです。これにより接種回数を毎回1回づつ減らすことができます。
  2. プレベナー13®ワクチン[13価肺炎双球菌ワクチン]をバクニュバンス®[15価肺炎双球菌ワクチンに変更します。


1.の場合は、新しくワクチン接種を始める生後2ヶ月からの子どもが対象で、4種混合ワクチン接種途中の子どもは、従来通りの種類で、接種を継続します。2. の場合は、接種途中でも、力価のより高いバクニュバンス®に変更します。ご不明なことはお問い合わせください。

南大阪歴史往来(003)

◎一運寺 住吉(二ノ六)

 住吉大社の裏にある大海神社と、東西の道路をはさんで建っている古いお寺が一運寺である。この道路は大正時代に、熊野街道と紀州街道を結ぶために、元の材木川を埋めたてて造られたものである。また材木川そのものも、住吉大社建設のときに、資材を運ぶために掘られたものだという。

弘法大師や親鸞も訪れたお寺

 一運寺は法性山と号し、浄土宗知恩院末。本尊阿弥陀如来座像(約一㍍)は定朝作という。伝えによると一運寺は推古天皇や聖徳太子の創建というから、住吉大社に次ぐ歴史のある寺院となる。宝徳二年(一四五〇)良公上人が再興したが、元和元年(一六一四)大坂の陣に罹災した。
 住吉大社に近いことから高僧の来訪も多く、伝教大師・慈覚大師・弘法大師また浄土宗の祖法然や親鸞も訪れているというが、おそらく宿泊したのではないか。しかしそのような経歴をほこることもなくひっそりと建っている一運寺を私が初めて知ったのは、たしか小学校二年生の頃で、友達から「あの寺には赤穂四十七士のお墓がある」と聞いておどろいたことをいまでも覚えている。

赤穂浪士の名を暗記した先輩

 昭和十八年(一九四三)戦争もミッドウェイ海戦以降、日本軍は連戦連敗だったが大本営発表は、連戦連勝のウソで塗り固められていた。私は上級生たちが、歴代天皇の名をむりやり暗記させられているのを、恐れをもってみていた。自分は暗記ものに自信が無かったからである。
 しかし一方先輩達は、赤穂浪士の名前は実に楽しそうにそらんじているのであった。
 私の当時の担任は、師範学校新卒の男の先生であった。住吉公園の南、浜口町にあった先生の家へ正月にあそびにいくと、お母さんがお餅やみかんをだして下さり、先生が忠臣蔵の一節を朗読してくれた。
戦時下にもかかわらず、忠臣蔵だけは娯楽として認められていたのは、忠臣は愛国に通じると軍部が思い込んでいたからか、散りぎわを特攻隊とにているとしていたのかは分からないが。

帰ってこなかった先生や先輩

 私の担任の青年教師は、自分の宿直の日に希望者にかぎり数学の補習を宿直室でやってくれた。「これからは数学の必要な世の中になる」というのが先生のくちぐせだったが。私達はなにか冒険気分で夜の学校に何回かかよったものである。
 昭和十九年(一九四四)になると、学童疎開で次々に子供たちは学校を去り、担任の先生も最後の出征軍人として秘密の内に入隊していった。
 街では、息子が特攻隊に志願する家々で、特配の酒が飲みかわされ、軍歌が大声で合唱されていたが、真ん中で一人青くなって座っているのが明日入隊する本人であった。私達はそれをものかげからのぞきみては、なんとなく沈んだ気持ちになっていたものである。

天野屋利兵衛が建立を依頼か

 戦後大分たってから一運寺を初めて訪ねると、境内には大石良雄・大石主税・寺坂吉右衛門の墓があり、当寺の西北二百㍍のところにあった竜海寺に四十七士の墓があったが明治維新の廃絶のとき三基のみここに移されたと説明されてあった。そして、竜海寺の墓は天野屋利兵衛ゆかりの人が建立したものだが、その時期、目的は不明とのことであった。
 天野屋利兵衛とは広辞苑によれば「江戸中期の大坂の狭商[ママ 豪商か?]。大坂北組名主。赤穂浪士のために兵器を調達し、後、自首、追放」とある。
 一運寺の南、大海神社の裏に私の中学時代の友人が住んでいた。父親は軍人ですでに戦死していて、彼が当主であり豪邸に三・四人で住んでいた。遊びにいっても迷うくらい広かった。彼はその後地域でPTAの会長などをしていたが、残念なことに若くして亡くなった。
 一運寺は他のお寺のようにビルになったり、門を閉ざしたりはしていない。いつも昔のままの雰囲気を保っている不思議なお寺だ。「一運」とは仏教では何か特別なものを意味する言葉なのか。私は知らないが、私には一度しかない人生を道半ばでいってしまった、心やさしい人たちへの思い出の一隅なのである。

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