がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十

◎三十、「ぽっくり往生の寺」吉田(きちでん)寺

 JR法隆寺駅より西へ約一・五キロ、次郎と友子は「ぽっくり往生の寺」として有名な吉田寺にやってきた。この寺は初めての参詣だ。
 寺の案内にはこう書かれている。
 ―千古の歴史を秘めた日本上代文化発祥の地、斑鳩の里に吉田寺がある。世界文化遺産の法隆寺と万葉の古歌で有名な竜田川の中間にあり、竹藪や樹木の生い茂った森の中にひっそりとたたずんでいる。永延元年(九八七年)に恵心僧都が母の臨終に、除魔の祈願をした浄衣を着せると、母は安らかに、称名念仏のなかに往生を遂げられた一
 寺では一人一回五千円で三回以上の祈祷を推奨しており、都合で直接衣を持参できない方には郵送でも受付けているとのことだ。
 「次郎ちやんどうするの。いつも僕はぴんぴんころりが望ましいと言っていたから」と友子。
 次郎は手を前に出して、こう言った。
 「いや、大金を出してまで祈祷してもらうつもりはない。それに私は日頃からこの寺を開基したという源信の『往生要集』に疑問を持っているから」
 友子は驚いて「源信とは地獄からの救済者として地蔵の信仰を広めた人ではないの?」と次郎に聞く。
 「わが国での地蔵信仰は九世紀当時まではきわめて不振だった。ところが十世紀末になると源信の『往生要集』で、地蔵が地獄に入つて衆生を救う悲願は他の仏菩薩にすぐれていると云いだし、源信は運動の指導的役割を果たすようになっていく」
 友子は「あら」と口を開けて「源信は、根も葉もない地獄の惨状を極楽と対比して描くことによって、地蔵と共にちゃつかりと自分も押し上げたというわけね」と答えた。
 次郎は続ける。
「その結果、聖(ひじり)など多数の民間布教者が好んで行なったであろう因果応報の説法、現在苦しい生活をしているのは前世の因縁であり、さらに現世で功徳を積まなければ来世では地獄に堕ちるという、逃れることのできない宿業の恐ろしさ、来世での地獄必定の恐怖を人々の心に植えつけてしまった」
 「そこから逃れるためには少々の御祈祷ではダメだというシステムが今でも脈々と生き続けている現実は深刻ね」と頷きながら友子は答えた。
次郎は友子の目を真っ直ぐ見て、いつも以上に真剣に話し始める。
 「人間の心なんて弱いものだ。しかしだからこそ強く持たねばならない。こうしてお寺巡りをしていると、どちらを信じてよいのかと振り回されることがある。しかし、その中で、びっくりするような矛盾を見付けると、みなさんにお知らせするのが二人の役目ではないかと思うのだが、見解はいかがかな」
 次郎は友子に返事を求め、友子は少し考えてこう言った。
 「昔の人は、特に女性は物見遊山でお寺巡りをやっていた。花や緑、おいしいもの、それにウォーキング。それでいいのでは…?」
 次郎は納得したように「押しつけない、押しつけられない心構えだね」と感心した。
 吉田寺からの帰り道。友子はいつも通り、次郎に兄の介護について聞く。
 「お兄さんはその後どう?」
 次郎は暗い表情で「認知症の兄は最近ではトイレの水の流し方、テレビのつけかたも忘れだしている」と答えた。
 友子は一瞬かける言葉に悩んだが、「毎回丁寧に教えること、諦めずにね」と友子らしく励ました。
 「ありがとう、では今日はこれで」
 「またね、頑張って」

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十九

◎二十九、興福寺に「廃寺」の過去が

 今日の二人は近鉄奈良駅から約五分、興福寺に向かっている。
 興福寺は法相宗の大本山で、東大寺と並び奈良を代表する古刹である。
 六六九年、京都山科に藤原氏の始祖である藤原鎌足によって創建され、壬申の乱の後、飛鳥に移り、平城遷都(七一〇年)の際に現在の地に移建された。
 鎌足の子、藤原不比等の「国家興福」の発願から興福寺と称され、藤原氏の氏寺として一門とともに栄え、私寺でありながら官寺以上に隆盛を極めた。
 友子が次郎に話しかける。
 「興福寺といえば僧兵が思い出されるわね。比叡山延暦寺とともに、強大な軍事力を備えていたけど、その背景には貴族から多くの寄進を受け、広大な荘園を有していたことがある。ほぼ大和一国を領し、実質、大和国の支配者であったのではないの?」
 次郎は友子の疑問を聞いて、詳しく解説した。
 「僧兵たちはたびたび入洛し強訴している。藤原氏によって創建(七六八年)された春日大社も合体し、その神威をかさに、京の都に押し掛けた。これが結果的には南都焼討を招くが、東大寺や談山神社などともしばしば衝突を起こしている。興福寺に伝わる仏頭(国宝)も元は飛鳥の旧山田寺に安置していたものを強奪し、東金堂の本尊として祀られていたものである。ところが、一八六七年(慶応三年)十二月九日、将軍から天皇に政権が戻った。これからは神様が大切にされる時代だと感じた興福寺は、衆議で全ての僧が興福寺を離れ、同じ経営の春日大社の神官になることを願い出た。興福寺僧は興福寺を見捨ててしまう。興福寺を守るために西大寺と唐招提寺の僧が興福寺に人ったが、守り切れなかった。興福寺は無住の寺、廃寺となった」
 「江戸時代を通じて徳川恭府から手厚い保護を受けてきた、その経済基盤が失われ多くの寺が廃寺になったけど、興福寺がいち早く衣替えするとはね…」と友子。
 「しかもそれは過保護政策が廃止されただけで、神社も同じように領地を没収されたのだから、興福寺の廃寺化は本当にビックリだ。もっと頑張らねば」と次郎。
 「とはいえ、朝廷の権威を振りかざしがちな地域、勤皇思想が特に強い地域、平田篤胤などの神学者や国学者の力が強い地域、こうしたところでは寺がゼロになり仏像も全て壊されているわ」と友子が付け加える。
 「大きなお寺には権力で支配、強奪してきた歴史が今も残っているような気がして、何か素直に手を合わせにくいね」と次郎が渋い顔」語る。
 「興福寺等はその典型で、今や所狭しと国宝の山」
 「やはりわれわれ高齢者が心静かにお参りできるのは、西大寺くらいまでかね。あとの大寺院は『観光寺院』として割り切ればいいんだが…」と次郎が考え込むように腕を組んだ。

 今日の帰り道、次郎は思いついたように友子にこう言った。
 「認知症の人の気持ちは、鏡に映した介護者の気持ちなのだとよく言われるが、あれは正解だね」
 「実感しているのね」と友子が相槌を打つ。
 「友ちやんとの『びっくり史跡巡り』がなかったら、私はとっくに挫折しているよ」
 笑いながら「少しはお役に立てているかしら?」と友子が首を傾げた。
 「大いにです」と次郎は手を叩いた。
 今日も次郎は友子の明るさに助けられたようだ。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十七

◎二十七、泉涌寺の楊貴妃観音

 京都駅からJR奈良線に乗って一つ目の東福寺駅から歩いて約二十分、泉涌寺への参道は総門をくぐると二つに分かれる。左が御陵参道、右が正門の大門前へ通じる。
 ここは斉衡三年(八五六年)、山本左大臣緒嗣が神修上人のために開き、初めは法輪寺と称し、のち仙遊寺と改めたのがおこりとされるが、寺伝ではそれより以前に空海が建立したのを緒嗣が再興したのだという。
 ついで、建保六年(一ニー八年)宇都宮信房が月輪大師に寄進し、泉涌寺と改称した。
 月輪大師は十年余りの歳月を中国に渡り、修学に過ごして帰朝した、当時の代表的な学僧であった。弟子の堪海も大陸へ渡り、帰朝にさいしてさまざまな文物をもたらした。
 その中でふだん拝観できるのは、大門を入った左手、観音堂に安置されている木造の観音菩薩像と羅漢像とである。観音菩薩像は唐の玄宗が美貌で名の高かった皇后楊貴妃を追慕してつくらせたとの伝説があり、楊貴妃観音の名称で親しまれている。豪華な宝冠や装身具で飾られ、あでやかな彩色をほどこしたこの像は、面長な顔立ちと妖艶ともいえるような秀麗さで、こうした伝説が生まれるのも頷ける。
 また山内には、西国三十三札所第十五番目の観音寺や中世の大きな木造釈迦如来立像を本尊とする戒光寺、あるいは毎年十月中旬に行なわれる二十五菩薩お練り供養で名高い即成院がある。
 今日の次郎と友子の目的地だ。
 「泉涌寺は本堂に行き着くまでに、このような楊貴妃観音、本造釈迦如来立像では全国一高いという戒光寺、即成院本堂には阿弥陀如来像をかこむ二十五菩薩の群像などで、それぞれ圧倒的な浄土教の世界を体感できるのが他の寺院にない特徴だね」
 目を輝かせる次郎を見て、友子が「次郎ちゃん、大感激ね」と嬉しそう。
 「時間をかけて拝観することが大事だね。そうすれば極楽を体感できるよ。こんなところは他にはないよ」
 友子の言う通り、次郎は感激した様子だ。
 友子も頷いて「『地獄極楽この世にござる』と云うのだから、何もお金を払って地獄を見にいく必要はないと思う。見るなら極楽、泉涌寺前だね」と同意した。
 極楽気分の次郎はいつも以上に明るい声で「友ちゃん、今日はタクシーで京都駅まで飛ばして、一杯飲んで帰ろうか」と友子を誘った。
 少し間を置いて、次郎は「ホツトコーヒーをね」とお茶目に付け足した。
 そんな次郎に友子が「認知症のお兄さんと同居して介護している次郎ちやんは、極楽間違いなしよ」と励ます。
 「そんなこと云つてくれるのは友ちやんだけや」
 感激する次郎に「みんな見てくれてはるよ」と友子が優しく続けた。
 今日の次郎は極楽帰りと友子の言葉のおかげで、いつも以上に機嫌が良く饒舌になっていた。
 「『日常が何よりも大切で愛しい』という言葉が好きやから、何かあったら兄を抱いてやる、ハグやね」
 「お兄さんは…?」と友子が恐る恐る聞くと、次郎は明るい声で「抱き返してくれるよ」と答えた。
 「今日は何かうれしいね」と二人で笑った。
 極楽気分でホツトコーヒー。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十六

◎二十六、能勢の妙見は波瀾万丈

 能勢電鉄妙見口駅からバスで約五分、徒歩で行くと吉川小学校前を通り、十五分で妙見山ケーブル黒川駅に着く。ケーブルカーとリフトを乗り継いで、標高六二ニメートルの妙見山頂に登ると能勢妙見堂(日蓮宗)がある。
 能勢町地黄に所属する関西の日蓮宗本拠真如寺に属する仏堂である。
 次郎が前を行く友子に声をかける。
 「長いリフトの下が花園になっていて、一人用の椅子に腰掛けて足を伸ばしていると、色とりどりの花に触ってしまうという、何とも贅沢な登山だなあ」
 友子もハイキング気分になり、「初めて来たけど、のんびりとしたいいところね。どんなお寺なのか早く知りたいわ」と答える。
 天正九年(一五八一年)、能勢の領主能勢頼次が戦乱に備えて為楽山城をこの地に築く。頼次はその後、本能寺の変(一五八二年)で明智光秀方についたため、その後豊臣秀吉に領地を没収された。
 頼次は三宅勘十郎と改名し、岡山県の妙性寺(日蓮宗)に隠れ、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)や大坂の陣(一六一四二六一五年)で奮戦し、徳川家康から旧所領を与えられた。
 妙性寺滞在中に日蓮宗に帰依した頼次は、甲斐(山梨県)身延山から日乾上人を招いて、領内の真言宗寺院などをことごとく改宗させ、北辰妙見大菩薩を奉祀する能勢氏私有の仏堂として、妙見堂を開基した。明治十八年(一八八五年)に一般に公開された。
 友子が興味津々に聞く。
 「光秀の三日天下に、どんな経緯で参加したのか知りたいわ」
 次郎も同意してこう答える。
 「名前を変えて秀吉の手を逃れ、その後家康に旧領を与えられるまでの三十年間のドラマも知りたいね。しかも返り咲いただけに止まらず、能勢に日蓮宗の一大拠点をつくり、その中に私有の妙見堂をひらき、その後『能勢の妙見さん』として世に知られるまでの、波瀾万丈の歴史を、歴史小説として書きたいものだ」
友子が「もうあるんじゃないの?」と首を傾げると、次郎は「二番煎じか」と笑った。
 奥の院バス停横に、町立東中学校の石垣が見えるが、能勢頼次以来の能勢氏の居館跡である。バス通りから東中学校正門前の道を入っていくと、無漏山真如寺がある。
 頼次が建立した寺であるが、日蓮上人の分骨も行なわれ「関西の身延」と呼ばれるようになった。
 真如寺の梵鐘には「元応元(一三一九年)」の銘がある。大坂の陣の際に、金属供出により徴発され、夏の陣後、淀川に捨てられていたものを頼次が拾って持ち帰り、能勢の布留大明神に奉納したが、その後、神仏分離のため真如寺に移された。鐘には、真言陀羅尼を二十九首も漢字と梵字で記した珍しいものである。
 山の麓の清普寺には、初代能勢領次から代々の当主の墓が三方に並んでいる。
 下見の帰り道。友子は次郎の介護近況報告を聞くことがお約束になっている。
 「認知症のお兄さんはディサービスに元気に行っておられる?」
 「三年間無遅刻無欠席でがんばっているけど、三日に一度は行かないと言い出すんだ」
ため息混じりで次郎は答えた。
 「なんで…」と友子も一緒に困り顔。
 次郎は手を横に振って「でも、中身と意義を説明すると『いつものとこか』と安心して行ってくれる」と友子に教えた。
 それを聞いた友子は「昨日のことを忘れているのね」と、複雑な顔をする。
 帰り際、二人は穏やかな笑顔で「またね」と言ってお互いの道を歩いた。