がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十六

◎二十六、能勢の妙見は波瀾万丈

 能勢電鉄妙見口駅からバスで約五分、徒歩で行くと吉川小学校前を通り、十五分で妙見山ケーブル黒川駅に着く。ケーブルカーとリフトを乗り継いで、標高六二ニメートルの妙見山頂に登ると能勢妙見堂(日蓮宗)がある。
 能勢町地黄に所属する関西の日蓮宗本拠真如寺に属する仏堂である。
 次郎が前を行く友子に声をかける。
 「長いリフトの下が花園になっていて、一人用の椅子に腰掛けて足を伸ばしていると、色とりどりの花に触ってしまうという、何とも贅沢な登山だなあ」
 友子もハイキング気分になり、「初めて来たけど、のんびりとしたいいところね。どんなお寺なのか早く知りたいわ」と答える。
 天正九年(一五八一年)、能勢の領主能勢頼次が戦乱に備えて為楽山城をこの地に築く。頼次はその後、本能寺の変(一五八二年)で明智光秀方についたため、その後豊臣秀吉に領地を没収された。
 頼次は三宅勘十郎と改名し、岡山県の妙性寺(日蓮宗)に隠れ、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)や大坂の陣(一六一四二六一五年)で奮戦し、徳川家康から旧所領を与えられた。
 妙性寺滞在中に日蓮宗に帰依した頼次は、甲斐(山梨県)身延山から日乾上人を招いて、領内の真言宗寺院などをことごとく改宗させ、北辰妙見大菩薩を奉祀する能勢氏私有の仏堂として、妙見堂を開基した。明治十八年(一八八五年)に一般に公開された。
 友子が興味津々に聞く。
 「光秀の三日天下に、どんな経緯で参加したのか知りたいわ」
 次郎も同意してこう答える。
 「名前を変えて秀吉の手を逃れ、その後家康に旧領を与えられるまでの三十年間のドラマも知りたいね。しかも返り咲いただけに止まらず、能勢に日蓮宗の一大拠点をつくり、その中に私有の妙見堂をひらき、その後『能勢の妙見さん』として世に知られるまでの、波瀾万丈の歴史を、歴史小説として書きたいものだ」
友子が「もうあるんじゃないの?」と首を傾げると、次郎は「二番煎じか」と笑った。
 奥の院バス停横に、町立東中学校の石垣が見えるが、能勢頼次以来の能勢氏の居館跡である。バス通りから東中学校正門前の道を入っていくと、無漏山真如寺がある。
 頼次が建立した寺であるが、日蓮上人の分骨も行なわれ「関西の身延」と呼ばれるようになった。
 真如寺の梵鐘には「元応元(一三一九年)」の銘がある。大坂の陣の際に、金属供出により徴発され、夏の陣後、淀川に捨てられていたものを頼次が拾って持ち帰り、能勢の布留大明神に奉納したが、その後、神仏分離のため真如寺に移された。鐘には、真言陀羅尼を二十九首も漢字と梵字で記した珍しいものである。
 山の麓の清普寺には、初代能勢領次から代々の当主の墓が三方に並んでいる。
 下見の帰り道。友子は次郎の介護近況報告を聞くことがお約束になっている。
 「認知症のお兄さんはディサービスに元気に行っておられる?」
 「三年間無遅刻無欠席でがんばっているけど、三日に一度は行かないと言い出すんだ」
ため息混じりで次郎は答えた。
 「なんで…」と友子も一緒に困り顔。
 次郎は手を横に振って「でも、中身と意義を説明すると『いつものとこか』と安心して行ってくれる」と友子に教えた。
 それを聞いた友子は「昨日のことを忘れているのね」と、複雑な顔をする。
 帰り際、二人は穏やかな笑顔で「またね」と言ってお互いの道を歩いた。