◎三十二、義仲寺(芭蕉の時空を越えた情の寺)
寺伝にはこう記されている。
―義仲寺は大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
治承四年(一一八〇年)義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(一一八三年)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日、鎌倉の源瀬朝の命を受けて都に上がってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なくこの地で討死された。
享年三十一歳。その後年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓地のほとりに草庵を結び日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみであった。この尼こそ、義仲公の愛妾巴御前の後身であった。
尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺ともいい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、鎌倉時代後期弘安頃の文書にみられる。
時代は移り、戦国の頃には当寺も大いに荒廃した時に、近江国守佐々木侯は『源家大将軍の御墳墓荒らるるにまかすべからず』と当山を再建し寺領を進呈―
貞享年間(一六八四〜八年)に大修理の記録あり、松尾芭蕉がしきりに来訪し宿舎としたのはこのころである。
元禄七年(一六九四年)十月十二日、笆焦は大坂の旅窓で逝去するが「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、去来・基角・乙州・支考・丈年・素牛・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛がしたがい、淀の河舟で迎ぶ。十月十三日、遺骸は義仲寺に着。十月十四日、子の刻に埋葬。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」とかって芭蕉が宿泊した時に、弟子の又玄がよんだ句がそのままになってしまった。
次郎は受付の男性に話しかけた。
「旅の俳人芭焦が木曽寺を定宿のように利用していたのは、交通の要所にあったことと琵琶湖のさざ波に洗われる景勝の地であったこと以外に何かわけがあるのですか」
男性からは「情でしょうね」という答えが返ってきた。
「情とは思いやりの心といチことだが、芭蕉がなぜ五百年も前に亡くなった木曽義仲にそんな気持ちを持ったのだろう。友ちゃんはどう思う?」
「芭蕉の句に『木曽の情雪やはえぬく春の草』というのがあるわ。義仲は朝廷の命で平家を京から追い出した。そして、今度は同じ朝廷の命で義経が義仲を討ちにくる。源氏の若武者を同士討ちさせるなど、まったく情のない話だけど…」
友子は言葉を詰まらせたが、次郎がすぐに続けた。
「その時に、武勇すぐれた美女で義仲に最後まで随従した巴御前を、義仲は泣いて諫めて戦列を離脱させた。その結果、巴御前は生き残り尼となって義仲の墓を守った。という話に芭蕉は感動していたのではないかと思う。芭蕉は生涯妻子に縁がなかった。後世に俳聖などと持ち上げられているが、当時は最後まで旅から旅の貧しい暮らしに変わりはなかったというのが本当だ。芭蕉は義仲と何かあい通じるものがあったのだろう」
「いつの時代でも情のある人は忘れられないわ」と友子が微笑んだ。
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十二” への1件の返信