がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 三十一

◎三十一、「法隆寺」聖徳太子は架空の人物?

 法隆寺の由来には、こう記されている。
 ―用明天皇が自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されました。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、推古十五年(六〇七年)に寺とその本尊、薬師如来を造らせたのがこの法隆寺(斑鳩寺ともよばれる)であると伝えられています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ十八万七千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建造物が軒を連ね、たくさんの宝物類が伝来しています。
 国宝・文化財に指定されているものだけでも約百九十件、点数にして二千三百余点に及んでいます。
 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、千四百年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、特に一九九三年十二月には、ユネスコの世界遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています―
 次郎と友子は、法隆寺とその近くの聖徳太子にゆかりの深い「中宮寺」「法輪寺」「法起寺」を巡り歩いてきた。
 次郎は友子に話しかける。
 「法隆寺は遠足の子供達で大盛況だが、今や世間では『聖徳太子は架空の人物だった』とか『聖徳太子は蘇我入鹿であった』などと云われているのに、どうして教えているのだろう。それが心配だ」
 友子は仰天して「なぜ変わってきたの」と興味津々だ。
 「聖徳太子が潛いた傑作といわれる仏典の解説書『三経義疏」と同じものが屮国の敦煌の莫高窟から出土した。それで聖徳不在が証明されたというわけだ」
 「日本にある方が偽物なの?」と友子が詳しく聞く。
 「中国に行った遣唐使が髙い値段で買ってきて、表紙だけ張り替えて日本製にしたのではないかと云われている。その他にも、仏教に深く帰依し日本の文化人、知識人の始祖、絶対の平和主義者としてきた人物が、物部氏を滅ぼす先頭に立って活躍するなど疑問点も多くあったのだ」
 次郎も興奮して言葉を続けた。
 法輪寺の沿革には、こう記されている。
 ―創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の御子山背の大兄君が太子の病気平癒を願ってその子由義王とともに建立されたと伝えられています。しかし、聖徳太子と推古天皇の没後、有力な王族である山背の大兄王は皇位継承の政争に巻き込まれ、皇極二年(六四三年)ついに斑鳩寺で一族もろとも自害された―
 「根絶やしよね」と訝しげに友子は言った。
 「架空の聖徳太子を『日本書紀』に潜り込ませ『日本の正史』にした犯人は、以後子孫の消息偽造の手間が省けたわけだ」と次郎も目を細める。
 「一体だれが、何のために歴史の偽造をしたの?」と友子の疑問は止まらない。
 「蘇我三代、稲目・馬子・入鹿の実績を架空の人物聖徳太子の成果と偽り、その立派な一族を集団自決に追い込んだ悪者蘇我一族。これら悪者をだまし討ちにした大化元年(六四五年)夏の中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らの行為は正しかったからこれを『大化改新』という。歴史偽造の犯人はこの『大化改新』で得をした人物ということになる。鎌足の次子で右大臣、その後の藤原氏隆盛の基礎をつくった藤原不比等だ!」
 小さな声で説明していた次郎だが、最後は熱が入って大きな声になっていた。
 友子は驚いて顔を上げた瞬間、パッと時計が目に人った。
 「あ!お兄さんがディサービスから帰られる時間よ」
 次郎も時計を確認し、焦った様子で「白熱してしまったよ。ありがとう、帰ろう」と言い、二人は足早に帰路についた。

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