今昔木津川物語(039)

◎四天王寺 (天王寺区四天王寺一)

 四天王寺は推古天皇元年(五九三)現在の地に聖徳太子の発願により建立された。
 用明《ようめい》天皇の後継者争いで蘇我馬子《そがのうまこ》厩戸皇子(後世になって聖徳太子と呼ばれる)らが、物部守屋を滅ぼした戦いの際、厩戸皇子は楓の樹を切り取り、四天王の像を作り、頂髪にそれを置き「今もし我をして勝たしめるならば、寺塔を建てよう」と誓願し、馬子も誓い、諸兵を督励《とくれい》し攻めて勝利した。その時の約束を果たしたもの、と寺の縁起で書いているが、今では疑問視されている。
 しかし、守屋滅亡の経過や戦いの場所、守屋の財産投入によって四天王寺が建立された事実からみて、全てが作り話とは云えない。

再三の災害、室戸台風、空襲

 四天王寺式といわれるその伽藍《がらん》は、塔婆が前面に、金堂がその背後にあり、法隆寺の塔婆と金堂が左右に並列するのと違っている。
 創建当時の四天王寺は、敬田院・悲田院・施薬院・療病院からなっていたが、再三の火災をうけ、そのたびに主要伽藍が焼けた。
 享和元年(一ハ〇ー)の雷火による災害のあと、大阪の淡路屋太郎兵衛の発願で喜捨が集められ、文化九年 (一ハーニ)再興供養が営まれ、その時の姿で近代に入ったが、昭和九年(ー九三四)室戸台風で塔と中門が倒れ、二〇年三月の空襲で伽藍の主要部分を焼失した。

夕陽ヶ丘で「日想感」信仰

 平安末期から鎌倉時代にかけてのあいつぐ戦乱は、人々に現世否定、浄土への再生・憧憬となって現れた。阿弥陀や浄土の姿を思い浮かべることによって、浄土に再生することができると説く浄土教では、それには一六種の方法があり、その第一は日想観であるとした。
 太陽が西に沈むのを見て極楽を思うわけで、当時、上町台地の西端はそそり立つ崖の上になっていて、各地で「タ陽ヵ丘」と呼ばれていた程で、その上に立ち大阪湾を一望すれば、はるか西海に沈む落日の荘厳さは、見るものに現世の苦しみを逃れて、西方浄土に生きたい気持ちをかりたてるものがあった。

救いを求めて庶民が病者が

 そして彼岸の中日には、四天王寺の西門は極楽の東門に向かっていると信じられ、四天王寺が浄土信仰の霊地となっていった。
 四天王寺の特徴は、救いを求めて集まってくる人々の大部分が、あいつぐ戦乱や苛酷な収奪からはじき出された、庶民であり病者たちであった。
 四天王寺の近くに、一心寺・大仏念寺・長宝寺などがあるのは、この地域が当時の浄土信仰の拠点であったことを示している。

小泉支持は切実な要求付き

 さて、目を現代に転じたら、マスコミの調査によれば小泉内閣は、異常な位の高い支持率だという。調査の仕方や、マスコミの世論誘導的な報道の仕方にも大いに問題があると思うが、私は小泉首相はとんでもないくわせものだと指摘したい。なぜなら彼は、「自民党を変えて日本を変える」と公約して首相になった。人々は「これが一番てっとり早い」と考えて支持したのであって、決して白紙委任したわけではない。むしろ「景気回復・リストラ反対・将来不安の解消」という切実な要求付きの支持なのである。そしてこれらは必然的に自民党的政治のやり方を抜本的に変えなければ実現できないものばかりなのだ。

自民党的政治を変えないと

 ところが小泉首相は「自分が当選したことは自民党が変わったということなんだ」と詭弁を弄し、公約に早速違反し、KSD汚職や機密費問題については追及しないという態度である。
 そして「日本を変える」として持ち出してきたものは、元々古い自民党がやりたくても国民の批判を恐れ出せなかった最悪のシナリオ。
 すなわち、中小企業ーー〇万〜三〇万社を倒産させ失業者を三百万人も増加させる。福祉・医療の更なる改悪。新たに高齢者から老人保険料の料金を取る、健保本人を三割負担にする。消費税の大幅引き上げ。憲法を改悪しアメリカの手先としての海外派兵。首相公選で独裁的な権カ確保。
 これでは自民党は少しも変わっていない。政・官・財の癒着も反省もなく続けられていくし、小泉内閣の高支持率のかげで自民党の高笑いが聞こえてくるではないか。

公約違反に国民の総反撃を

 いま、夕陽ヵ丘から見下ろしても、都会の喧騒とゼネコン・大銀行をボロもうけさせるだけに終わった、府、市立の「赤字発生巨大ビル」の林立をまのあたりにするのみ。荘厳な気持ちになるどころか、自・公・民オ—ル与党の悪政を思い起こし、怒りがこみあげてくる。
 今やらねばならないことは、あきらめや逃避ではなく、たたかいに立ち上がること。そして四天王寺にこめられた、これまでの何億という人々の願いを実現することこそが、本当の意味での「浄土への再生」ではないであろうか。

今昔西成百景(038)

◎天下茶屋公園

 旧住吉街道沿いにある現在の天下茶屋公園が、是斎(ぜさい)屋の跡である。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「歩いて知ろう西成区」には、「この地は今から約四〇〇年前の天正年間(一五七三—九十)、太閤さんが旧主で遠州の豪士松下嘉兵治の恩義に報いるため、約ー〇八九〇㎡(三三〇〇坪)の広大な邸宅と名園を贈った。のちに松下姓を是斎と改める。太閤さんはこの縁で大阪城中からしばしば来遊、茶をたて名園を楽しんだと伝えられている。公園内には、太閤さん愛好の井戸や灯ろうがあり、中央にあるくすのきの大樹には、天下茶屋守護の鎮八大竜王が祭られている。現在は大阪市の萩の花名所公園になっている」と記されている。

「恩義の秀吉」実証のはずが

 豊臣秀吉との関係などは極めて具体的で全国的にみても貴重なものにまちがいないと、西成区民の自慢の一つであった。恩義にあつい秀吉とよくいわれるが、歴史的にみて実際の恩返しで有名なのは放浪時代に世話になった野武士の蜂須賀小六と、最初の武家奉公をした今川家の家臣松下嘉兵治の二人である。その松下の子孫が明治時代までこの地で「和中散」という薬を売り、茶店を営んでいたというのだから、大閤さんを身近に感じる「物的証拠」といってもいいはずであった。「はずであった」となぜ過去形で書くのかといえば、実はその「史蹟」が最近になってこつぜんとして消えてしまったからである。

歴史のすりかえがやられた

 平成七年(ー九九五)西成区コミュニティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると「現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、薬屋是斎屋は寛永年間(一六二四—四四)近江の国の津田宗衛門が住吉街道に面した当地に『和中散』という薬を商ったのが起こりで、街道の商人たちで大いに繁盛したという。また茶店としても有名であった」と記すのみで、太閤の名前はまったく出てこないのである。
 それもそのはず、寛永といえば世は徳川三代将軍家光の時代で、秀吉の死後二十六年、大阪城落城し秀頼・淀君らの自害により豊臣家が滅亡してから九年、徳川家康による徹底した豊臣の残党狩りが行われ、この世から豊臣色を一掃してしまった後のことである。豊臣秀吉が茶店へ来遊するどころか、だれかが秀吉愛好の井戸や灯ろうをかくしもっているだけでも首がとぶ。秀吉を神として祭った豊国神社や秀吉の廟墓まで家康によって破却処分され、影もかたちもないようにされたというのが歴史的事実なのである。

市教委による証拠いんめつ

  三月二十三日、中央区の「街づくりネットワ—ク」が主催する「連続テレビ小説『ふたりつ子』の世界、今もかつての大阪の下町がある西成天下茶屋かいわいから通天閣へ」というウォッチングに私もガイド役として参加した。天下茶屋の由来を説明するために天下茶屋公園へ行けば、案の定、コミュニティマップにつじつまを合わせるように今まであった太閤秀吉とのゆかりを説明する表示類は一切撤去されていた。大阪市教育委員会は何を思ったのか。同公園内の阿部寺塔心礎石(約ーー〇〇年前白凰時代の五重の塔の礎石。大阪府指定文化財考古資料第十二号)の表示板までなくしていったので、中央に舎利穴がある柱穴にはブロツクの破片が投げ込まれ、貴重な文化財がまるで大型ゴミのように扱われており、無残であった。
 大阪市が今頃になってひそかに「歴史の訂正」をやる必要がはたしてあったのかという疑問がわいてくるが、実はそれがあったのである。

西成子ども食堂(キッズダイニング)開催

 3回目の「キッズダイニングティクアウト版(お持ち帰り)」を開催いたします。今回は住之江区の「味平」さんのご協力をえて、子どもさんに人気のお弁当をご用意しています。お気軽にお越しください。今回もネット・題話での申し込み予約を受け付けしております。(10日の夕刻5時までに事前申し込みをお願いします)

・日時:9月11日(水)午後4時半から7時
・ところ:こつまの里1階(大阪市西成区松2-1-35)

 今回はテイクアウト(持ち帰り)です。是非、ご参加よろしくお願いいたします。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号

子宮頸がんは、HPVワクチンで予防できます。

16歳~27歳の女性の方(1997年4月2日~2008年4月1日)キャッチアップ接種対象者の公費接種の期限が迫っています!

期限は、2025年3月31日まで

2025年4月1日よりは、実費負担4~10万円が必要となります。

是非、公費期間内に予防接種をしましょう!お問い合わせは西成民主診療所まで

電話06-6659-1010