今昔西成百景(038)

◎天下茶屋公園

 旧住吉街道沿いにある現在の天下茶屋公園が、是斎(ぜさい)屋の跡である。
 昭和五六年八月、西成区役所区民室発行の「歩いて知ろう西成区」には、「この地は今から約四〇〇年前の天正年間(一五七三—九十)、太閤さんが旧主で遠州の豪士松下嘉兵治の恩義に報いるため、約ー〇八九〇㎡(三三〇〇坪)の広大な邸宅と名園を贈った。のちに松下姓を是斎と改める。太閤さんはこの縁で大阪城中からしばしば来遊、茶をたて名園を楽しんだと伝えられている。公園内には、太閤さん愛好の井戸や灯ろうがあり、中央にあるくすのきの大樹には、天下茶屋守護の鎮八大竜王が祭られている。現在は大阪市の萩の花名所公園になっている」と記されている。

「恩義の秀吉」実証のはずが

 豊臣秀吉との関係などは極めて具体的で全国的にみても貴重なものにまちがいないと、西成区民の自慢の一つであった。恩義にあつい秀吉とよくいわれるが、歴史的にみて実際の恩返しで有名なのは放浪時代に世話になった野武士の蜂須賀小六と、最初の武家奉公をした今川家の家臣松下嘉兵治の二人である。その松下の子孫が明治時代までこの地で「和中散」という薬を売り、茶店を営んでいたというのだから、大閤さんを身近に感じる「物的証拠」といってもいいはずであった。「はずであった」となぜ過去形で書くのかといえば、実はその「史蹟」が最近になってこつぜんとして消えてしまったからである。

歴史のすりかえがやられた

 平成七年(ー九九五)西成区コミュニティ協会(区役所が事務局)が発行した「わたしたちの西成区コミュニティマップ」によると「現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、薬屋是斎屋は寛永年間(一六二四—四四)近江の国の津田宗衛門が住吉街道に面した当地に『和中散』という薬を商ったのが起こりで、街道の商人たちで大いに繁盛したという。また茶店としても有名であった」と記すのみで、太閤の名前はまったく出てこないのである。
 それもそのはず、寛永といえば世は徳川三代将軍家光の時代で、秀吉の死後二十六年、大阪城落城し秀頼・淀君らの自害により豊臣家が滅亡してから九年、徳川家康による徹底した豊臣の残党狩りが行われ、この世から豊臣色を一掃してしまった後のことである。豊臣秀吉が茶店へ来遊するどころか、だれかが秀吉愛好の井戸や灯ろうをかくしもっているだけでも首がとぶ。秀吉を神として祭った豊国神社や秀吉の廟墓まで家康によって破却処分され、影もかたちもないようにされたというのが歴史的事実なのである。

市教委による証拠いんめつ

  三月二十三日、中央区の「街づくりネットワ—ク」が主催する「連続テレビ小説『ふたりつ子』の世界、今もかつての大阪の下町がある西成天下茶屋かいわいから通天閣へ」というウォッチングに私もガイド役として参加した。天下茶屋の由来を説明するために天下茶屋公園へ行けば、案の定、コミュニティマップにつじつまを合わせるように今まであった太閤秀吉とのゆかりを説明する表示類は一切撤去されていた。大阪市教育委員会は何を思ったのか。同公園内の阿部寺塔心礎石(約ーー〇〇年前白凰時代の五重の塔の礎石。大阪府指定文化財考古資料第十二号)の表示板までなくしていったので、中央に舎利穴がある柱穴にはブロツクの破片が投げ込まれ、貴重な文化財がまるで大型ゴミのように扱われており、無残であった。
 大阪市が今頃になってひそかに「歴史の訂正」をやる必要がはたしてあったのかという疑問がわいてくるが、実はそれがあったのである。

西成子ども食堂(キッズダイニング)開催

 3回目の「キッズダイニングティクアウト版(お持ち帰り)」を開催いたします。今回は住之江区の「味平」さんのご協力をえて、子どもさんに人気のお弁当をご用意しています。お気軽にお越しください。今回もネット・題話での申し込み予約を受け付けしております。(10日の夕刻5時までに事前申し込みをお願いします)

・日時:9月11日(水)午後4時半から7時
・ところ:こつまの里1階(大阪市西成区松2-1-35)

 今回はテイクアウト(持ち帰り)です。是非、ご参加よろしくお願いいたします。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号

子宮頸がんは、HPVワクチンで予防できます。

16歳~27歳の女性の方(1997年4月2日~2008年4月1日)キャッチアップ接種対象者の公費接種の期限が迫っています!

期限は、2025年3月31日まで

2025年4月1日よりは、実費負担4~10万円が必要となります。

是非、公費期間内に予防接種をしましょう!お問い合わせは西成民主診療所まで

電話06-6659-1010

 

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第28回・第29回


 少し、大阪の地を離れ、近畿圏で、「史跡巡り」をしてみませんか?題して、『がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記』、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に連載されていたのを転載します。今回は、機関紙「みらい」2018年7月と8月の記事です。

◎近江の八幡堀と残影・前編・後編

 JR駅近江八幡駅で降りて、直線コースを2キロ30分歩けば、日牟礼八幡宮《ひむれはちまんぐう》と八幡堀に到着する。その間に、伝統的建造物群保存地区に指定された、近江八幡市立郷土資料館のある新町通りや八幡堀周辺、永原町通りなど十三ヘクタ—ルの、白壁造りの土蔵や見越しの松など往時《おうじ》の繁栄《はんえい》をしのばせる町並みを楽しむことができる。
 さっそく、次郎と友子の会話が始まる。「京都や奈良とはまた違った感じの観光地やね」「近江商人の発祥の地と云われているね」「近江商人といえば『三方よし』の考えで有名な」「商いをする以上売手によし、買手によしとするのは当然であるが、近江商人は共通して『世間よし』の考え方を商いに持込んでいる。社会との交流、社会への貢献がなければ本当の商いとは云えないという理念を前提にしているのだ」「すばらしいことだけど、今の世界の大企業や裕福層には根本的に欠けているものね」「儲けさえすれば手段は問わない。そのためには礼儀や作法、法律さえも踏みにじるという思想が、今や政治の世界まで蔓延してきているから恐ろしい」
 夜空を焦がす古代の炎「左義長《さぎちょう》まつり」は実は昨夜行われており、地元は今日はその後片付けの真最中。もちろん二人はそのことを知らないわけではなかったが、次郎には認知症の兄の介護で、午後四時半にはディサービスからの兄を迎えなければならず、せめて雰囲気残る翌日参拝となったわけ。
「友ちゃん焼跡見物みたいでごめん」「これも話の種、今日はお堀をゆっくりと見て一と、いつもながら友ちやんはやさしい。実はこの有名な八幡堀《はちまんぼり》は、城の内堀としての役割と琵琶湖と城下町をむすぶ運河としての役割をもって開削《かいさく》されたもの。
 しかし、戦後の交通手段の変革により、八幡堀は荒れるがままになった。埋め立てて道路や駐車場にしようという声さえ上がっていた。堀の保全と復活を唱えた青年会議所のスローガンは、「堀を埋めた瞬間から後悔が始まる」であった。昭和四十六年に住民の署名運動が起こされてから実に二十年間の、地元有志の地道な除草奉仕《じょそうほうし》もえんえんと続けられる中、ついに八幡堀はよみがえった。白雲橋《しらくもばし》を中心とした一帯は今や時代劇の恰好の場所となっている。
 「実は今介護している兄はアマチュア画家で、この八幡堀の風景画も何枚か書き残している。『その絵売って』と後から声がかかつたこともある、とは兄の話だが」
「暖かくなったら一度兄さん連れてきてあげたら」「うん、そうするよ」と次郎はうなづいた。「きっとね」「うん」次郎は同時に、かつて城跡にたたずむ悲運の青年武将《せいねんぶしょう》豊臣秀次《とよとみひでつぐ》の残影を見ていた。