今昔木津川物語(021)

◎阿弥陀池《あみだいけ》 (西区北堀江三—七)

編者注】今回の投稿は、冊子版「今昔《こんじゃく》木津川物語」に掲載された「阿弥陀池」の部分です。

 先日次回の「百景めぐり」の下見をかねて、再び西区の史跡を訪ねた。南海汐見橋線で終点の汐見橋駅へ着いて、駅の壁を見上げれば南海沿線の名所・観光地などが、地図の上にマンガ的に画かれている大看板があつた。
 かつては各駅にあったものだが、高架化などのために駅が新しくなり、市内ではここだけにしか残っていない、貴重な「文化財」となつてしまった。しかし、痛みも大分すすんでおり、実物を見ておきたい方はお早く、と云っておきたい。

供養碑は後世に警告している

 浪速区の北西端と西区の境、大正橋東北詰に、「安政元年(一八五四)六月十四日の大地震・津波による惨状を記し次いで地震のときの諸注意を述べている碑が建っている。特に「すべて大地震の節は津波起こらん事をかねて心得、必ず船に乗るべからず」といましめている。地震を恐れて船に逃げていた人が津波で多数犠牲になっている。
 大正橋を渡って大阪ド—厶の方へ行くと、地下鉄の駅で「大阪ド—厶前千代崎」というのがある。長い名前だが、千代崎というのはここの土地の名前だ。木津川にかかる千代崎橋からとったらしい。橋の名前が先といえば、大正区の区名も大正橋からもらっている。

千代崎と西成の千本は姉妹町

 千代崎というのは別にお千代さんが住んでいたわけではなく、実は木津川の河口近くにかってあった防波堤に植えられた松並木のことを「千株の竝松蒼々(なみまつそうそう)として千代の栄えの色を現わし」と表現されていたことによると、西区役所は云っている。これは意外であった。千本松は防波堤とともに、大正時代の造船所建設ブームのなかで破壊され、いまは西成区の町名に「千本」として残るだけである。

落語のおち
「阿弥陀が行け」

 あみだ池へ行った。講談・落語・演劇の題材として取り上げられているが「摂津名所図会」にあるように「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称した。江戸時代には本堂の他に観音堂・普門堂・愛染堂などを有する大寺であった。
 境内および周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。今はビルに囲まれた大寺で、ひつそりと静まりかえっていた。

三菱のマ—ク
稲荷神社で発見

 以前に来たときには発見できなかった、土佐稲荷神社にあるという三菱のマークを、今回はついに発見した。「土佐稲荷神社には三菱のマークがある」というのは聞いていたが、どこにあるかは聞いていなかったので、今回も大分時間をかけて探した結果、とうとう賽銭箱の正面に野球のボール位の金色の家紋のようにして、稲の束とともに三菱のマークがさんぜんと輝いているのを見つけた。
 土佐稲荷神社と岩崎弥大郎と三菱財団とのなみなみならぬ関係が一層よくわかった。
 最後に艱公園へ行った。
 「うつぼ公園の一帯は、江戸時代以来海産物を取り扱う問屋・仲買が集中していたところであるが、昭和六年十一月に、これら問屋・仲買が大阪市中央卸売市場に吸収統合されたあと、第二次世界大戦のアメリカ空軍の空襲により荒地となった。戦後、この地に目をつけた在日アメリカ軍が整地し、小型飛行機の離発着場となり、昭和二十七年六月に飛行場が返還された後、大阪市は約九万二〇〇〇平方㍍の大公園を三年後に完成させた」(西区役所発行パンフ)とあるが、大公園の割には一般入園者用トイレの貧弱さにおどろいた。直ぐに改善してほしい。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第1回

◎「日本の仏教伝来の地が西区阿弥陀池」

編者注】2016年3月号の大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に「がもう健の〉次郎と友子の『びっくり史跡巡り』日記」が始まりました。まずは、その1回目の記事からです。出版本の「今昔《こんじゃく》木津川物語」にも同一のテーマでの記事があります。こちらの方も次回に公開予定です。まずは、当時の「新連載の紹介」から…

 今月号より連載開始の”次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記”。郷土史家・がもう健さんの書き下ろし作品です。ぎづがわ往来とは一味違った次郎と友子の史跡巡りや掛け合いをお楽しみください。

 南田次郎は大阪駅の待合室で北山友子を待っていた。ここは金沢行きのサンダ—・ハードの発着ホー厶にあるが、ゆっくりとくつろげる場所になっている。
 次郎は認知症で要介護2の兄太郎を介護するため、既に五年も滋賀県草津市に通っているが、今まで何度もこの待合室を休息に利用してきた。
 友子のすらりとした姿がガラス越しに見えたので、次郎は待合室を出た。
 友子は次郎の高校の同級生で放送部にいた。次郎は相撲部の万年補欠選手、友子の落ち着いた声は憶えているが、個人的には特に接点はなかつた。
 数年前の同窓会で、次郎が兄の介護の話をしたところ、実は友子も両親が認知症になり十年近く介護してきたことがあるとのこと、それで話が合い、以後時々二人でお茶会をするようになった。そして今では、次郎がかねてよりライフワークとしてつづけてきた「南田次郎の史跡巡りの会」のメンバーとして、特に下見活動の欠かせない相棒として大活躍してくれている。
 さて今日の二人の行先は、いま朝の連続テレビ小説「あさがきた」の主人公、明治の初めに大阪で大活躍した女実業家広岡浅子の嫁いだ先が西区にあったとのことで、西区の「びっくり史蹟巡り」となった。
 地下鉄西梅田駅をスタート地点として「阿弥陀池」に行った。講談、落語で取り上げられているが「摂津名所図会」に「世の人寺号を唱えずして阿弥陀池というのみ」とあるように、本当は蓮池山智善院和光寺と称し、江戸時代には本堂の他に、観音堂、普門堂、愛染堂なども有する大寺であったとか。
 かっては境内および周辺には、講釈の寄席、浄瑠璃の席、大弓や揚弓、あやつり芝居や軽業の見世物や物売りの店がにぎやかに並んでいたという。きっと広岡浅子らも通ったであろう。
 元々は、元禄十一年(一六九八)信濃善光寺大本願智善が幕府の命により開設した寺で浄土宗の別格尼寺であった。
 「私達が来たのは単にちょんまげ時代を懐古するためではないわね」
 「もちろんそうだよ。実はこの地が欽明天皇(六二九〜六四一)の時、朝鮮より伝来した仏教について、当時の最高権力者物部氏と蘇我氏がその是非を論争。ついに物部氏が仏像を難波の堀江に投棄し寺に火を放った。そのうえ尼僧にも弾圧を加えた。『あみだ池』がその旧地と伝えられるため、千年後に幕令で寺と堀をつくったという。物部氏と蘇我氏の争いはついに武力抗争に発展して、聖徳太子が加わった蘇我氏の勝利となり、その後の日本の行末に仏教が大きく関わってくる」
 「仏教伝来で時代の先端を切ったのが西区の尼さん達だというのと、広岡浅子の奮闘に通づるものがあるのかなあ」
 「今日もお付き合いありがとう。五時に兄がディサービスから帰宅するのでこれで失礼します」
 「ご苦労さんがんばって」
 「ありがとうまたね」

今昔西成百景(028)

◎津守「新田」ー津守神社

 「新田」とは、近世になって新しく開発された土地のことである。木津川・大和川を中心とした大阪湾沿岸では、江戸時代を通じてこの新田の開発が積極的に行われた。津守新田は元禄期(一六八八 一七〇四)に造成され、同時期の他の新田には、市岡新田・泉尾新田・春日出新田などがある。これらは町人請負新田と云われるもので、当時の町人社会の経済力がいかに大きかったかが偲ばれる。

難工事に袴屋八ケ年の努力

 津守新田の最初の請負者は横井源左衛門、金屋源兵衛の二名であったが、土堤が高波にさらわれることとなり、湊屋九兵衛に譲り、湊屋は石堤としたが、又又大風高波のため堤敷石、浪除けはもちろん百姓家までことごとく流失し、遂に親族の挎屋弥助に再び譲ることになった。弥助の工事は古船に大石を積込み、そのまま沈め五、六尺の基礎の上に亀甲型の石垣堤を築き上げるという大工事で、ハヶ年の努力の後、元文五年(一七四〇)漸く完成をみた。時の代官は弥助こそ津守新田の開発者と激賞し、津守新田はその後永く、袴屋新田と呼ばれた。
 そして天明四年(一七八四)津守新田は再び初代炭屋善五郎に譲渡されるに至った。その元祖は淡路白山から大阪にでて、縁あって炭屋の養子になった後分家した人。初代善五郎は自ら津守に移り新田の経営に専念した。津守新田はその後幾度となく拡張され、一般には一六〇町歩と称され、明治七年の調査では約四〇万坪となっている。
 現在、津守小学校内の北西角に「津守新田会所跡」の碑が立てられており「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。

歴史を見てきた津守神社

 津守神社は新田開発のときに勧請され、初めは五所神社、五所大明神といわれ、元禄時代には単に稲荷神社と呼ばれたが、明治四年津守神社と改称し、同五年村社に列した。祭神は天照大御神・稲荷大神・大歳大神・綿津見大神・住吉大神。
 ある日の昼下がり、境内に入ってみたが、表通りの新なにわ筋の騒音も途絶えて、まるで別世界。大木もある。鳥居や石垣に「紀元二千六百年」の文字が刻みこまれているのをみて、かっての出征軍人を送る埸面を連想していた。

風水害とたたかいつづけた住民

 そこで気がついたのだが昭和十一年建立と記されたものも多いということであった。この謎はすぐに解けた。昭和九年九月二十一日大阪を襲った室戸台風のために、津守町方面は、大阪港から木津川一帯にわたる高潮により各所で堤防が決壊し、濁水氾濫したちまち泥海と化し、全町約三千戸はその殆どが浸水床上に達した。しかも土地が低いため容易に減水せず浸水のまま数日を経過したため、同方面の水禍被害は当区中もっとも激甚を極めた。以上のように記録されている風水害により、津守神社は倒壊していたのである。戦後もジェーン台風、第二次室戸台風と津守地区は大きな被害を受けたが、住民は木津川沿岸防潮堤の完成を要求してたたかった。
 今日津守地区の、町づくりでの最大の問題点は、新なにわ筋のダンプ公害と広大な工場跡地ではないだろうか。区民の切実な公営住宅大量建設の要望に応えられるだけの土地が津守に生まれている。抜本的な公害対策を立てるなどを行いながら、こんどは住民による住民のための「新田」づくりにとりくまなければならないと思う。

今昔木津川物語(020)

【編者注】
 「がもう健の郷土史エッセー集」は、2012年9月以降、大阪きづがわ医療福祉生協の機関紙「みらい」に連載記事として、引き継がれています。今後は、機関紙掲載の記事を底本とし(画像も新たに追加)、旧版(出版本)にあった文章もできる限り追加し投稿したいと思いますのでよろしくお願いします。本投稿は、2013年2月号の「みらい」に掲載された分を編集したものです。

◎吉田兼好《よしだけんこう》の藁打石《わらうちいし》

 聖天山天下茶屋正円寺の南坂参道入口に「兼好法師藁打石《けんこうほうしわらうちいし》」がある。
 吉田兼好《よしだけんこう》とは、鎌倉時代末期の歌人・随筆家で本名は卜部兼好《うらべかねよし》、京都吉田に住んでいたので、この姓を称した。十九オで二条天皇に仕え二十代の半ばに従五位下|左兵衛佐《ひょうえのすけ》(官位)に任じられるなど早い出世で、すでに歌人として、認められていたようである。その後、彼が何故いつ出家したのか、名作「徒然草《つれづれぐさ》」はいつどこで書かれたのかは殆ど判っていない。正平《しょうへい》五年(一三五〇年)六十七オ没といわれる。

兼好が密勅を北畠顕家へ

 通説では南北朝の争いで、当時伊賀でくらしていた兼好が南朝の密勅《みっちょく》を受けて、奥州の北畠顕家《きたばたけあきいえ》のもとに赴いた。その後、顕家が髙師直《こうのもろなお》と戦った阿倍野のほとりに庵を構え、命松丸《めいしょうまる》という童と寂閑《じゃっかん》という僧の三人で、藁《わら》を打ち筵《むしろ》を織って生計を立て、読経三昧に顕家の菩提《ぼだい》をとむらったという。
 そうだとすると、兼好が阿倍野へ来たのは北畠顕家が討死した暦応六年以後となり、五十五オの頃となるが、顕家はこの年の三月に阿倍野で高師直と戦って負けてはいるが討死はしておらず、同年五月二十二日、南へなかり離れた和泉の石津浜で戦死している。顕家を弔うなら当然和泉へ行くべきはず、と、阿倍野に居たことを疑問視する見方もあるが、私はやはり兼好は阿倍野に居たと思う。

兼好阿倍野説を唱える根拠

 当時、兼好の庵の辺りは手(帝)塚山古墳をはじめ大小のさまざまな古墳が丘をなし、西には玉出の浜も近く活きのよい魚もあり、砂地の畠の作物も豊かにある。また、百年程前まではあれほど栄えた、熊野三山への参詣街道であった熊野街道の、今では草原の中にあり往来する人もまばらという、兼好が筆をとるには最高の環境であった。
 「徒然草」の中に一段だけ政治を厳しく批判したものがある。その内容は、後醍醐《ごだいご》天皇の「建武《けんむ》の中興《ちゅうこう》」や「王政復古《おうせいふっこ》」の実態が、庶民のくらしをいかに痛めつけているかということを指摘したもので、権カから弾圧されるおそれのある内容のものである。
 かって、北畠顕家と楠木正成《くすのきまさしげ》が政権の腐敗を知り、農民への増税を止めよ、税金のムダ使いはするなと激しくそれを批判しながらも、結局は人心の離れた朝廷を保守するために負け戦と知りつつ出陣せざるをえなかったときに、それぞれが後醍醐天皇に諫言《かんげん》したものと兼好の一文は同じ立場のものであった。
 伊賀の忍者と関係し、反権力の思いを持っていた兼好が、顕家戦死の石津浜で顕家の菩提を弔う行為をしなかったのは、むしろ当然のことであったと私は推理する。

圧政に悲憤慷慨した兼好

 兼好が四天王寺や住吉大社に反古紙をもらいがてら取材に行ったことが書かれた一文もあり、阿倍野で藁を打ちながら、圧政に悲憤慷慨していたのは事実ではないか。
 「隠棲庵碑」はもとは阿倍野警察署南横を四百㍍ほど西へ入った所にあった。
 「藁打石」は旧松虫通の柘榴塚という小さな古墳の上の、千両松という巨木の根本に置かれており、土地の人は夜啼石とも呼んで触るのも怖がっていたという。

ディサービスセンター「つれづれの里」オープン

 「聖天山さん」の近くにある、私たちのディサービスセンターがその名を公募した結果「つれづれの里」と命名されたことは、兼好の思いをひきついだものといえよう。

今昔木津川物語(019)

西成・浪速歴史のかいわいシリ—ズ(四)

◎願泉寺《がんせんじ》・唯専寺《ゆいせんじ》(大国ニーニ・敷津西ニー十三)

 願泉寺はその伝《でん》によると開祖《かいそ》永証《えいしょう》は小野妹子《おののいもこ》の八男《はちなん》多嘉丸《たかまる》と称し、聖徳太子《しょうとくたいし》の守屋征討《もりやせいばつ》に加わって功《こう》があり、太子四天王寺を造営《ぞうえい》のとき、運河《うんが》を開削《かいさく》して諸国よりの木材の運搬《うんぱん》を容易《ようい》にした。

定龍が地域を統一

 その後二十七世乗教《せじょうきょう》の時蓮如上人《れんにょしょうにん》に帰依《きえ》し本願寺《ほんがんじ》に加わる。天正《てんしょう》年間本願寺|門徒《もんと》、織田信長《おだよぶなが》と戦った時、時の願泉寺|住職《じゅうしょく》定龍《ていりゅう》は極めて武略な人で木津一難波・今宮・高津《たかつ》・勝間《こつま》・三軒家等の門徒を指揮《しき》して一方の将《しょう》となり、摂河泉《せっかせん》の間に転戦《てんせん》し大いに軍功《ぐんこう》を上げた。その功により、本願寺の願の一字を賜《たまわ》って願泉寺と称《しょう》したという。
 唯泉寺もその伝によると用命天皇《ようめいてんのう》の御《おん》宇天種|命《みこと》の裔《すえ》である跡見《あとみ》赤摂が、聖徳太子の四天王寺建立に際し木津浦《きづうら》に来たりて住《すまい》し草庵《そうあん》を構《かま》えていたが三十三世跡目光重に至って蓮如上人の弟子となって真宗《しんしゅう》に転じた。本願寺と信長の合戦の際|抜群《ばつぐん》の功《こう》をあげ、夭正八年四月|顕如《けんにょ》上人石山|退去《たいきょ》の時当寺に一泊の上|雑賀《さいが》に出発したとのこと。

手をたずさえ「魔王《まおう》」信長とたたかう

 願泉寺、唯泉寺共に聖徳太子と四天王寺造営にゆかりがあり、またその後の石山合戦でも手をたずさえて「魔王」信長と戦い、空襲で焼失したのも一緒で、それぞれ戦後再建された。
 足利《あしかが》時代より木津川口の陸地化がすすむとともに、海浜《かいひん》であり大坂に入る軍事上の要衝《ようしょう》の地として、この辺りの争奪戦《そうだつせん》が盛んに行なわれたのである。

反戦の伝統生かして

 ガイドライン法という名の戦争法が国会で強行採決されると、待っていたとばかりに、海上自衛隊が艦船《かんせん》二十五隻、航空機二十一機を出動させて、大阪湾での戦後最大規模の軍事演習を実施した。
 歴史に学んで今こそ地域ぐるみの、戦争法反対の発動をゆるさない大運動が必要なのではではないか。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号

今昔木津川物語(018)

西成、浪速歴史のかいわいシリ—ズ(三)

◎鉄眼寺《てつがんじ》(瑞竜寺《ずいりゅうじ》)(元町一―一〇)

 瑞竜寺は、黄檗宗《おうばくしゅう》萬福寺末《まんぷくじまつ》にて薬師如来《やくしにょらい》を本尊《ほんぞん》としている。寛文《かんぶん》十年(一六七〇)難波村《なんばむら》の信者らが薬師堂に鉄眼和尚を請《しょう》じてその再興《さいこう》を図《はか》り、瑞竜寺としたが、俗《ぞく》に鉄眼寺と言われるのは、この鉄眼の再興による。昔は寺域《きいき》も広大であったが明治|維新後《いしんご》狭《せば》められた。仏殿禅堂《ぶつぜんせんどう》のほか天王堂《てんのうどう》・祠堂《しどう》・禅悦堂《ぜんえつどう》など有《ゆう》したが、戦災《せんさい》にて天王堂焼失を免《まぬが》れたほかほとんどの建物を焼失、現在の本堂などは戦後の復興《ふっこう》によるものである。

一切経《いっさいきょう》の出版《しゅっぱん》に全力を

 鉄眼は一切経という、仏教に関する書籍《しょせき》を集めた一大|叢書《そうしょ》にして、仏教《ぶっきょう》に志《こころざ》しある者にとっては宝物として尊《とうと》ばれるものが、其《そ》の巻数《かんすう》幾千《いくせん》の多きにつきわが国では出版が極《きわ》めて困難であることから、この一切経の出版を一代《いちだい》の事業として成就《せいじゅ》せんととりくんだ。
 広く各地をめぐり資金《しきん》を募《つの》ること数年、ようやく出版に着手《ちゃくしゅ》せんとした矢先《やさき》、大阪に大|洪水《こうずい》が起こった。

人を救《すく》うのが先だ

 鉄眼は惨状《さんじょう》を目《ま》のあたりにして「我か一切経の出版を思い立ちたるは仏教を盛んにせんが為め、仏教を盛《さか》んにせんとするは、ひっきよう人を救わんが為めなり、喜捨《きしゃ》をうけたる此《こ》の金を一切経の事に費《つい》やすも、飢《う》えた人々の救助《きゅうじょ》に用《もち》いるも帰《き》するところは一にして二にあらず、一切経を世に広むることはもとより必要な事なれども人の死を救うは更《さら》に必要なるに非《あら》ずや」と、喜捨せる人々に其《そ》の志《こころざし》を告《つ》げて同意《どうい》を得《え》、資金をことごとく救助の用《よう》に当《あ》てた。
 苦心して集めた出版費はついに一|銭《せん》も残らなかったが、鉄眼は少しも屈《くっ》せず、再び募金《ぼきん》に着手《ちゃくしゅ》して散年、宿願《しゅくがん》の果《は》たすのも近いと喜んでいるところへ、再び、近畿《きんき》地方に大|飢饉《ききん》があり、人々の困苦《こんく》は前の出水《しゅっすい》以上のものとなつた。鉄眼は再び意《い》を決《けっ》し、出版の事業を中止して、其の資金をもって力の及ぶ限り人々を救い又もやー銭も残さなかったという。

第三の募金に人々の感動

 二度資金を集めて二度救援に使ってしまった鉄眼だったが、敢然《かんぜん》として第三の募金に着手した。すると意外にも、鉄眼の深大《しんだい》なる慈悲心《じひしん》と、あくまで初一念《しょいちねん》をひるがえさない熱心さが感動をよんで、喜んで喜捨するものが続出《ぞくしゅつ》、製版《せいはん》・印刷も着々と進んだ。
 かくて、天和《げんわ》元年(一六八一)鉄眼が最初の募金を初めてから十八年後に至《いた》って、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂《つい》に完成したのである。これが世に鉄眼版と称《しょう》せられるもので、一切経の広くわが国に行われたのは、この時よりのことである。この版木は今は京都は宇治《うじ》の萬福寺に重要文化財として保存《ほぞん》され、現在でも大|般若経《はんにゃきょう》や語録類《ごろくるい》が印刷されているという。以上が鉄眼寺の由緒《ゆいしょ》である。

現代の「洪水・飢饉《ききん》」

 今、天災ではない人災《じんさい》としての、自民党政治のとんでもない悪政の結果、かつてない大|不況《ふきょう》がわが国をおおっている中で、特に大阪が深刻な影響《えいきょう》を受けていることはかくしようもない事実である。
 昨年の大阪市内の自殺者四百人、内西成区内で八十五人ときく。一昨年より倍
加しているという。
 また、大阪市内の野宿生活者約一万人。大阪城公園も長居公園も昔日《せきじつ》の観《かん》はなく、その結果、路上で凍死《とうし》などで亡くなる人、年間に市内で約三百人。
 以上は封建《ほうけん》社会のことではない、自民党が常日頃からほこっている「自由社会・日本」で現実に起こっていることの一部なのである。

見直しは福祉・教育の切り捨てとは

 一方、府政では、中ノ島に財界のための超豪華《ちょうごうか》な、不要不急《ふようふきゅう》な国際会議場が、横山知事の公約に反して、七百七億円もかけて建てられている。この税金の額は一万人の野宿生活者が五年間野宿でなく最低生活できるだけの額《がく》である。市は「オリンピックの誘致《ゆうち》」に、うつつをぬかしている。そして府・市共に、予算の見直しはもっぱら福祉・医療・教育に向けられているといるという。まったくの逆立《さかだ》ち政治の横行《おうこう》は目に余る。
 「鉄眼は一生に三度一切経を刊行《かんこう》せり」のことばの重みをかみしめながら、瑞竜寺からミナミの雑踏《ざっとう》へ 足を踏み出したらすでに夕刻《ゆうこく》であった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第24回・第25回

◎天智天皇陵(沓塚) 山科

 第三十八代天皇、天智天皇(在任六六八—六七ー)の墓は京都市山科区にある。
 次郎と友子の二人は、今日はこの天皇陵「御廟野古墳《ごびょうのこふん》」に来ている。次郎等の史跡巡りは、今まで何度も堺や羽曳野の巨大古墳を見てきたので、少しは期待してきたのだが…「幹線道路から長く入り込んだ、大きな露地の奥、という感じだね」「何か天智天皇の墓としては物足りない」と友子も。
 天智天皇《てんちてんのう》は前の名を「中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》」と言い、中臣《なかとみ》の鎌足《かまたり》(後の藤原鎌足《ふじわらのかまたり》)と共に蘇我入鹿《そがいるか》をだまし討ちというクーデターで倒し、後に「大化の改新」を行った人物。
 次郎は語る、「日本の正史とされる『日本書紀』には天智天皇の御陵は明記されていない。天智天皇は病が原因で亡くなったと書かれているのに。また、『日本書紀』にはこれを編纂させた天武天皇の生まれた年が書かれていない。天武天皇《てんむてんのう》は天智天皇の弟だとなっているのに。平安時代の末期に比叡山功徳院の皇円《こうえん》という高僧が書いた歴史書『扶桑略記』には、天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。探したが道に天皇の沓が片方、落ちているのが発見できただけで、天皇の姿を見つけることはついにできなかった。仕方がないので、その沓の落ちていた場所を陵とした。と記されている。だから地元の人はこの古墳を『沓塚』と呼んできたとか」「それがここだね」
 「天智天皇《てんちてんのう》が病死ではなく、遠乗りに出かけた際に殺されて、遺体はどこかに隠されたというのなら、その犯人は一体どこのだれなの」「殺人事件の場合、被害者が亡くなる事によって結果的に利益を得る人物が犯人として疑われるのが普通だが…」
 次郎がつづけて「当時の朝鮮半島は『高句麗・百済・新羅』という三つの国があり、天智は百済派、天武は新羅派で、背景には大国である唐との外交問題がある。結果的には親唐路線を取るべきだと主張する勢力が勝つたことになる」
 「実は天武の方が兄だったの」「となれば、兄であるのになぜ先に天皇になれなかったのかという疑問も出てくるし」
 「この際、『追号』について述べておくけど。天智とか天武《てんむ》とかいう呼び名は、その天皇が亡くなってから贈られる名前で、現在は、その天皇の治世に用いられた元号がそのまま追号として、例えば大正・昭和がそうだけど。でも昔は天皇が亡くなった時に、その天皇の人柄や業績、好みにちなんだものが選ばれて贈られました。例えば平安期の中頃の醍醐天皇《だいごてんのう》の場合、この天皇が醍醐という食べ物が好物だったからと言われています。基本的には中国の古典から取られているよ」
 「認知症のお兄さんの近況は…」「この間ディサービスに哲学の本を持ち込んで読んでいたらしい」「すごいじゃないの」「朝と夜を取り違えて、夜の九時前にディサービスの迎えの車が遅いと怒ったりしているのが増えてきているが…」「今日もありがとう」「お互いにがんばろう」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2018年3月、4月号