がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第20回・第21回

◎岩屋寺(大石寺)良雄の弁証法

 今日の二人は大石良雄の山科の隠宅があった土地に建ったという、岩屋寺に来ている。大石神社南百メートル の所にあり、当時の本尊不動明王は良雄の念持佛という。木像堂には浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》と四十七士の像が安置されている。十二月十四日の義士忌には、寺宝の良雄以下四十七士の遺品がー般公開される。
 さて、元禄十四年(一七〇ー)三月十四日、この日、例年のごとく年頭の賀使《がし》として江戸に下った勅使が帰洛するにあたって、幕府側より接待を受けることになっていた。ところが、幕府側の勅使馳走人役を仰せつかっていた浅野内匠頭が、諸儀式を司る役目の高家《こうけ》吉良上野介《きらこうずのすけ》を、こともあろうに殿中松の廊下で「この間の遺恨覚えたか」と背後から肩に斬り付け、振り向くその額めがけて二の大刀を打ち下ろした。
 「当時三十五歳になる内匠頭は小心臆病でひよわな人物、強度のストレスと性格的な欠陥に起因した発作的刃傷であったのではないかと云われている」次郎はつづけて、「そしてこの殿中刃傷事件を裁決した将軍綱吉が、大の気まぐれ物で、即刻内匠頭は切腹、赤穂五万三千石は取潰しと決まった」
 江戸から赤穂まで百五十五里、早くて十七日かかろうという道程を、早駕籠をとばした急使がわずか五日間で赤穂刈家城へ到着した。
 「悲報を受取った国家老大石良雄は、直ちに藩札と現銀の交換に着手した」「取付け騒ぎが起きる前にこれをやったとは、すごい…」と友子感激。「同感」と、次郎は語り続ける。「籠城・殉死・仇討と論議が乱れとんだが、大石の腹は『一応|内匠頭《たくみのかみ》の舎弟大学を擁立しての再興を幕府に認めさせること、これがかなわねば仇討で幕府に一矢酬いたい』ということだった」「終始一貫していたのね」「主家が断絶し、あれが元赤穂の国家老だった男よと、世間から嘲られて過ごす余生など考えられなかった」次郎は厳しくつづける。
 「子供の足に嚙み付いた犬を棒で叩いたということで親子が死罪。犬小屋を建て、八万匹に上る野犬を養うのに年額九万八千両も費やし、一方人間の方は凶作で米も買えず、わずかに雑穀の粥をすすっている。十九歳から四十三歳に至まで、国家老として大過なく過ごしてきた良雄の家庭においても、日に一度はにら雑炊、魚といえば三日に一度鯛を焼くのが関の山というつつましさである」「徳川幕府十五代の将軍中、最も学問に造詣ふかいインテリであったと、綱吉をほめる歴史家もいるけど」と友子。「とんでもない。こんな気紛で狂気染みた将軍を絶対者として仰がなければならない武士たちにとって、武士道だとか忠義の思想という精神主義は、その人間性を重苦しく締め付ける格子なき牢獄であったろう。幕府は変えられないが、自分を変えることで『ピンチをチャンスに』、良雄は主君の仇討によって、人生の最後に大きな花火を上げたいと思ったのだ」
 「認知症のお兄さんその後お元気」「財布がない財布がないと…」「叱らないで『一緒に探そう』と言ってあげて。症状の一部だから」「了解。ありがとう」「またね…」

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2017年11月、12月号

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です