◎続西成と京都のつながり
西成区の地名に京都の地名と同じものがいくつかあり、旧今宮村と京都とのつながりを考えさせるきっかけとなった。旧今宮村とは現在でいえば、岸の里交叉点を南北に分ける松虫通(木津川平野線)から北側へ、浪速区の南側の一部にも入り込んだ地域で、その中で例えば、今は町名改称のためなくなってしまったが、「東四条」とは今の今宮中学校辺りで「西四条」とは今宮工業高校辺りで、「油|小路《こうじ》」とは今宮高校辺りのことであった。これらは、難波江のー漁村であった旧今宮村がかかわっていた、朝役・神役の故事と深く関係している。すなわち、朝役とは朝廷に日々の魚を奉ずる役で、この起源は平安初期にまでさかのぼるという。神役とは毎年六月の祇園祭に今宮村から百六十人が上洛《じょうらく》して神輿《しんよ》を担ぐ役を奉ずるものである。朝役のために、京都四条通り油小路西へ入る南側に間口十三間、北側に間口二十二間の地を詰め所として使用していたというから、「四条・油小路」の地名のでどころははっきりしている。
花園・今宮の関係は
そしてそれでは、今も西成で地名として使われている「花園」と、地名として西陣の宮・今宮神社は使われていないが、学校などの名前として残っている「今宮」は京都とどう結びつくのか、興味しんしんというところである。
今宮は今宮戎神社から由来するかのようなかきかたを、戦後の浪速区史はしているが、戦前の西成区政誌には、「洛北|紫野《むらさきの》大徳寺付近に今宮と称する地ある」とあり、私は西成区政誌の立場から、残暑きびしい八月のある日、家族と共に京都に探求の旅を行った次第である。
大徳寺近くの今宮神社は大きな神社であり、古めかしい社も多く、歴史を感じさせる予想以上のものであった。
西陣の宮・今宮神社
神社で分けていただいた「今宮神社由緒略記」から次に少し引用させていただく。
「京都市北区紫野今宮町にある今宮神社は平安建都(七五四)以前からこの地に、疫病《えきびょう》(はやり病)を鎮《しず》めるために、疫神《えきじん》を祀った社があったといわれる。ところが平安建都以後、京都は諸国からの来往がはげしくなり、次第に都市として栄えていったものの、疫病や災害がしばしば起こり、このため人心は安らかでなかった。そこで疫災をはらうよう「御霊会」(ごりょうえ)が、八坂神社の祇園会(祭)など各地でやられ、紫野御霊会もそのひとつである。
人形を難波の海へ
すなわち、一条天皇の正暦五年(九九四)疫病は都で猖獗(しようけつ)をきわめ、四月頃には洛中洛外に病者の行倒れがおおく、六月になると洛中を疫神が横行するという流言で家々は門戸を閉して、通行人の影も見られなくなった…。
そこで、同年六月二十九日朝廷では神輿二基を造らせ、病魔の憑《つ》く人形を人間に見たて神輿様のものに乗せ難波江に流したという。
ところが、それから数年もたたない長保年 (一〇〇一)にまたも疫病が流行し都の人々を大いに悩ました。そこでそれまであった疫社を現在の当社の地に奉還しこれを今宮社と名付けた。当時この地は花園とよばれていた」と、あらすじはこうである。
人形の流す海はそれまで「朝役」で縁のあった、難波の漁村の人々が案内したのであろう。そして一層京都とのつながりが深まり、今宮・花園の地名をもらったのではないか。
現代の厄災は消費税とリストラ
さて、地名のなぞはなんとか解決できたが、海に流しようのない現代の厄災はやはり消費税とリストラではないか。これの退治は神頼みでなく、人頼みあるのみ。共にがんばろう。