◎天神の森天満宮
阪堺線天神の森停留所の西側に、天神の森天満宮はある。線路にそってひろがる境内のもう一方のはしは旧住吉街道に面しているが、数軒の商店などが道路ぎわにあるので、神社は少し入りこんでいる。
樹齢六百年の森
境内にある樹齢六百年と推定されるくすのき(十三本が大阪市保存樹林に指定されている)は、大きなもので高さ十八メートル、幹回り四メートルあまりもあり、西成区における唯一の森である。
拝殿の前に立っていると、聞こえてくるのは鳥の声と神社の人が落葉をはきよせる音。ときたまに阪堺線のレールのひびき、チンチンという発車の合図。踏切の警報機の音は高いが、それがやむと静けさがかえって前より深く感じるのが不思議だ。ゆっくりとすぎてゆく時間に合わせて、境内を散策すると、落ち葉焚きの匂いと煙が不意に昔のことを思い出させる。
阪電のたたずまい
ここは京都の嵐電(京福電鉄嵐山線)や鎌倉の江ノ電(江ノ島鎌倉観光電鉄)の沿線にある古い神社や佛閣のたたずまいにひってきするものがあり、こんな貴重な環境を残してくれている人々に、心から感謝したいと思う。
大阪市は保存樹の指定はするが、後の管理は個人まかせにされる。毎日の落葉の処理だけでも大変な仕事になる。普通の樹木とはひとけたもふたけたも、落葉の量がちがうのである。
森林浴の関係もあるのか、つかれたときに十分か十五分、こもれびの中に身をひたすだけでも、心身共ににリフレッシュできる。都会のどまんなかで、オアシスの役割を果たしてくれるこの天神の森天満宮を、地域の宝として大切にしなければと思う。
秀吉の空手形
「大阪史蹟辞典」(清文堂)によれば「紹鴻の森の天満宮は祭神は菅原道真。社前に子安石のあるところから子安天満宮ともいわれ安産祈願で有名だった。淀君が懐妊したとき、堺の政所(奉行所)に往来していた豊臣秀吉も立ち寄り、無事男子秀頼の出産のため大喜びで寄進し、淀君もお礼参りに訪れたといわれる」となっているが、神社の由緒略記によれば「安らかに秀賴公の出産を見られたことにより、社地一町四方その他神田]を寄進されたが、大阪の陣で御朱印焼失し、延宝検地改めのとき申し出たが認められず、現在の境内地となった」と記されているのもおもしろい。
「大阪史蹟辞典」は「社前の石牛は住吉の名工細井丈助の作。明治四十二年
(一九〇九)南区法祐寺にあった火除天神を合祀している。境内西の大鳥居傍に建つ「紹鴎の森碑」は芽木家が建てたもの。字は芽木四世昌包の筆。また傍に宝塔が二つ並んでいて、大きい方が「天下
茶屋仇討」の悪人、当麻三郎右衛門の墓だと伝えられるが、これは単なる風説である」
神社の由緒略記にはまた「茶道中輿の祖、武野紹鴎がこの森の一隅に茶室をつくり、風月を友として暮らしたので『紹鴎杜』と云われている。紹鴎は若くして京都にでて歌道を学び、歌道の奥義をきわめることによって、茶道の極意を感得し、茶名を紹鴻と定め、わびの境地をもって茶道の理想とした。晩年の門人に千利休がいる。秀吉公が堺政所への往来の途中、天満宮西側の茶店で休息、この付近の風景を賞したことからこの地を殿下の茶屋—天下茶屋と称するようになり、当社も『天下茶屋天満宮』と呼ばれるようになった」
「中世には、天神の御霊神としての性格はうすれ、学問の神として各地に天神さまをまつる天満宮・天神社がつくられた。
菅原道真休息の地
天神の森天満宮は、道真公が筑紫へ左遷されるおり、住吉明神へ参拝の途中この地に休息され、その後村人によって祠が建立され、応永年間(一三九四— 一四二八)に京都北野天満宮の御分霊を奉斉したと伝えられている。
現在の本殿は元禄十五年(一七〇二年)七月、拝殿は昭和十二年に建設されたものである」とある。
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