◎萩の茶屋
今宮戎神社(浪速区恵美須西一丁目)は浜市での魚座の人々や近郷漁民たちに信仰された戎神社を祀る社である。一月十日の戎祭はこの神社の一年一度の大祭日。前日九日は宵えびす、翌日十一日を残り福といって昔から大いに賑わった。
「浪華の賑ひ」(暁鐘成、一七九三— 一八六一)に、「四季の茶屋 白酒屋 卯の日餅 朝日野茶漬 又は菓 饅頭菓子 饂飩蕎麦 切酢 煮売屋其余種々の食物小間物あげて枚ふるに隙なし」と、十日戎の人出のさまを記している。
明治の初めころまでの今宮戎参拝は、萩の茶屋で知られた広田神社(浪速区日本橋西二丁目)への参拝でもあり、また、隣接する木津村の大国社参拝をもって、七福神信仰ともつながっていた。
広田神社は、かって四天王寺の鎮守であり今宮一帯の土産神(うぶすな)であった。江戸時代から桜と萩が多く、なかでも紅白二種の萩は有名であった。「おとしものひろたの森の萩のはな人の袂にうつりこそせめ」の狂歌とともに、「摂津名所図会大成」(暁金成)に「近年境内に桜樹を多く植て殊更に美景なり」とある。
西成は萩の茶屋南店
広田神社前の茶屋は淡路西浦の八太夫という人が始めたと伝わるが、こうした境内の景観や庭内の萩によって大いに繁昌したという。この茶屋がのちに紀州街道の南、現在の西成警察署のある通りに「萩の茶屋南店」をだし、いずれも庭園に萩が植えられ、旅する人の目を楽しませたという。
「摂津名所図会大成」に、「茶屋には萩あまたありて、中秋の花盛りには貴賤うちむれて甚だ賑わし、今宮の萩とて年久しくこれを賞せり」とある。
南海萩の茶屋駅から国道二十六号線まで、東西にのびている花園北通りは、また萩の茶屋商店街と鶴見橘商店街を結ぶ花園北通商店街ところでもあった。かって津守一帯での造船、鋼鉄、金属の各企業が盛況であったころには、商店もめじろ押しにあってにぎわっていた。
萩の茶屋ゆかりのひと
今から十年位前までは、この商店街の、国道から東へ四・五軒入った北側に、津田古本屋があり、名物の主人が丸顔をほころばせていつも出向えてくれた。日本共産党の演説会にもよく来て下さった津田氏は、貴重な古本がいまどこの図書館や大学の研究室にあるかをよく知っていて、生字引だと、開店前から関係者が待っているとの伝説の主だが、親類に著名な文学者もおられたことだから、うなづける面もある。生前にもっといろいろと教えてもらっておけばと、いつもくやまれる。
津田古本屋の東へ十軒程いったところで、私の父が三十年位前まで、小さなすし屋をやっていた。「いずみずし」といって、当時一皿二十円で西成で最後まで
がんばったうちの一軒だった。ネタはうすいが、味はよかった。
父は戦前は公務員をやっていたが、恩給がつくようになるとさっさと脱サラして、戦後は最初の十年間は飛田遊廓の北門近くでくしかつ屋をやり、次の十数年は萩の茶屋ですし屋をやった。器用貧乏であった。
私は親子二代にわたって西成でお世話になっているわけだが、少年時代に体験したこの地域での思い出が、今でも鮮明だ。
区役所の指示通り団結せよとは
さて、西成区の区花は「萩」と決まった。萩の茶屋にちなんでだが、萩は小さな花が団結しているのがよい、というのが区側の説明であった。
区役所か学校に申請して認定されると、小・中学校で必要な学資の一部が支給される就学援助制度について、今年から市は窓口を学校長のみに限るやり方を一方的に押しつけてきた。二十年来の慣行を破るものである。そして区役所に寄せられた千件近い申請書をそれぞれの申請者へ、一通八百円の配達証明付で不当にも送り返してきた。異例、異常な行政の姿勢である。これでは「団結」をだしにされた萩の花もしぼんでしまうというものである。
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