今昔西成百景(045)

◎阿部寺搭心礎石

 「阿倍野区松崎町二丁目三丁目の境界線近く、庚申街道西に現在松長大明神の小祠があるが、この付近にはかって側南北線上にニケ所の土壇があり、北の方形土壇には長さ三尺余(約九〇センチ)、幅二尺五寸余(約七六センチ)、厚さ一尺二寸(約三六センチ)の円形の凹穴を持つ礎石があって、南の土壇上には巨大な塔心礎が残っていたという。この地から白凰時代の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重弧文軒平瓦が出上していること、付近に『阿部寺』『東・南阿部寺』などの小字名が残っていることから、従来、四天王寺式伽藍配置を持つ阿部寺跡に比定されている。この地に住んだ阿倍(安倍、阿部)氏の氏寺であろう。

一時不明に

 塔心礎は、昭和十年(一九三五)その地の所有者である高津久右衛門邸(当時は住吉区天下茶屋三丁目、現在は西成区岸里東一丁目)に移されたが、高津邸は第二次大戦後大阪市に寄付され天下茶屋公園となった。塔心礎は一時不明となったが再発見され、大阪府指定の考古資料として現在天下茶屋公園内に保存されている。
 心礎は、長径二・〇七メートル、短径ー・五メ—トル、高さ二〇センチ以上の花崗石の上面中央に径六一センチ、深さ一三・五センチの円孔を割り、さらにその中に径ー〇・ーセンチ、深さ八・ニセンチの舎利孔をうがったものである」(大阪市史 第一巻)
 「阿部寺は四天王寺の末寺で、礎石は約千百年前の白凰時代の五重の塔の礎石と思われる。大規模な上代寺院のおもかげを伝える重要な資料礎石である。(昭和四九年三月大阪府指定文化財考古資料第十二号)」(あるいて知ろう西成区)

安倍仲麻呂、 安保<ママ ?>晴明らの氏寺

 安倍家の先祖には「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」で知られる、唐で客死した安倍仲麻呂や、「恋しくばたづねきてみよいずみなる信太の森のうらみくずのは」で有名な、平安時代の中頃、阿倍野に住んでいた安倍保名や救った白狐が葛の葉という女になり、男の子を生み、安倍童子と名づけられ、やがて成長して安倍晴明という陰陽師になり、宮仕えして重用されるという話の主人公らがいる。晴明屋敷跡は現在、安倍野晴明神社になっている。
 大阪市は天下茶屋公園(是斉屋屋敷跡)にあった太閤秀吉愛用の井戸とか燈ろうが、ニセ物であったことがわかり、こっそりと看板をはずしていったのだが、ついでにこの阿部寺塔心礎石の表示板まで持っていってしまったから、今ではこの重要文化財も、無残にも大型ゴミ扱いされているのである。「太闇さん愛用の井戸」なるニセ物には、看板はないか今でも鉄のくさりでかこいをしているのだがそんな無意味なことはやめて、とりあえずそのかこいを、西成区で最古のしかも有型の文化遺産であるこの礎石にこそして守るべきである。
 大阪府指定の考古資料だから、大阪市の公園だからとつまらぬセクトを出して押しつけ合いをしていると、又、行方不明になりかねない。もうこれ以上のだまし合いはやめてくれ、が率直な市民の声だ。

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