今昔西成百景(046)

◎西成区名の由来に新説

 新たに行政区が誕生する場合に、地元で常に問題になるのが「新区名の選定」である。
 大正十四年の住吉区の埸合は、昔からの住吉大社があり問題はなかった、 同年の浪速区の時は、 最初に大阪市が示してきたのは「難波区」であった。しかし地元では、「字画複雑にして鼻音『ン』を挟みて発音不正確に流れ易き」として反対し、対案として「戎区」と「浪速区」の名をあげて再検討を求めた。戎神社と古事記にいう「浪速之渡」を根拠にしてのことだった。

「古事記」が由来の浪速区

 昭和七年の大正区の場合は、最初に市助役の提案として「新港区」という名が出された。住民は最初「三軒屋区」と「大正区」に変えて対案とした。
 一方、関市長は「市が道路名を付けるときその時の年号をとって、大正通りとか昭和通りとかすることはあるが、区名としてはどうか」ということであったが、最後にはみなが賛成するならと、大正区案に決定した,大正四年に完成していたァーチ型の名橋「大正橋」にちなんだ区名が定められたものであり、大正区にあるから大正橋ではないのである。

ア—チ型の名橋大正橋から

 さて大正十四年の西成区の場合は、最初の市当局の提案は「住江区」もしくは「住之江区」であったが、旧郡名の東成を残した「東成区」が生まれたために、西成郡名も残すべきだということで「西成区」の名となり、これが最終的に決定された。住民からは「今宮区」と「玉出
区」の二案が出され、相当争われていたのに、発表されたのはどちらでもなかったので意外であったという。
 「元来東成・西成の郡名は、奈良時代の元明天皇の和銅六年(七一三)郡郷の名は好字であらわしかつ二字を用うべしとされたことによって、これまでの難波大郡、難波小郡が東成・西成の郡名に改められたものである。そしてその際の境界はおおむね上町台地の屋稜線であった。しかし、当時の西成郡は小郡の名が示すように、その区域は未だ小であったが、年月が経るに従い、陸地造成並びに市街地の形成は屋稜線の東側より甚だしく、今日の大阪市の殆ど全区がこの地域に発達した。従って西成郡の区域としては必ずしも現在の西成区域にとどまらなかったが、大正十四年の大阪市編入当時、北部の西成郡諸町村が、東淀川区、西淀川区の両区に分割され、南部の諸町村においてこの由緒ある酉成の名を残すべしとされたためであった」と「西成区史」には記されている。

西方浄土を意味すると推理

 西成区史は現在の西成区が、西成郡の名を引き継いだ経過については述べているが、西成そのものの言葉の意味や歴史的背景などについては何も語っていない。住吉や浪速、大正の区名については、区名そのものの由来がある程度理解できるのに「西成」にはそれがない。そこで私はかって「西成とは西方浄土のことではないか」と推理をしたこともあった。

古代外国と往来した西の門

 ところが今回、大阪府史第二巻の中から「郡編成の諸類型」の一つとして「王権によって外交、交通、軍車などの要地に渡来氏族が配置され、それとの関連で渡来氏族を中心として編成された郡がある。その代表的な事例は、難波の中心地にある東生<ママ 成?>・西成の両郡である この地が外交上の要地であることはいうないが、六世紀代に朝鮮三国等との外交の必要から、この地に『吉士』一族を中心とする渡来一族が配置されたが、彼らはその後の郡大領・小領の地位を独占的に世襲している」との一文を発見した。
 これを根拠にして西成の由来を考えてみると、西成とは古代において内外の要人が出入りした、西の門ということになる。西方浄土という「あの世」ならぬ、「この世」での目的意識的につくられた政治的ゲートであったわけである。すなわち、例えば「新羅の国の特使西からの
お成り」ということだったのである。もちろん軍事上の要所という面もあり、事実「西城」とかかれたこともあったという。

みなおし郷土史の必要痛感

 これは「好字二字」どころではない。西成は古代における最重要地名の一つということになるのである。
 こんな大事な、そして地元にとっては面白そうなことを、長年にわたり行政の郷土史の担当者はなぜ発見できなかったのか。職務怠慢ではないかと、怒りさえ覚えるのである。
 「大阪の歴史」という、大阪市史編纂所長や大学教授等が執筆者になっている郷土史の本がある。教科書的にも使われ、相当数普及している。ところがちよっと見てみると、古代の大阪の章で天平二年(七三〇)に行基が建立した善源寺の所在地が西成郡津守村となっており興味をもったが、所在地の現在地名が大阪市西成区津守町となっているのをみて、腰が抜けるほどおどろいた。他の行基が同時期に建てた尼院、難波度院、枚松院、作蓋部院もすべて所在地は西成津守村で、所在地の現在地名が西成区津守町になっている。
 大阪市西成区津守町は天平年間にはいまだ海底にあり、元禄時代(一六八八)にやっと新田として造成されたところであるということ位は、大阪の郷土史の最低の常識ではないのか。奈良・天平時代に津守郷とよばれたところは淀川河口の大阪湾岸一帯を指し、現在の西成区津守町とは位置も範囲も別なものである。やはり「みなおし郷土史」の必要性が改めて痛感させられた次第である。

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