今昔木津川物語(032)

◎釜ヶ崎の歌

 先日、毎月行っている「西成・木津川百景めぐり半日帰りの旅」に参加があった、あいりんの労働者より「センタ—だより三百号記念文芸作品集」をいただいた。ー九七八年に創刊された、西成労働福祉センタ—発行のニュースが今年九月で三百号を数えることになり、その記念として発行された冊子である。

いずくにありや母の星

 その中のいくつかの作品を紹介させていただくと、「われを生みわれをはぐぐむ母の星いずくにありや五十路《いそじ》となりて」「いつまでも耳に残りし母の声ふる里捨てた遠きあの日の」「おふくろとあってる夢をさますのはテントの屋根をたたく雨音」「仕事なし望みを明日に青テント夢みる夢はおふくろの顔」「夕映えの釜の広場に赤とんぼ幼き頃をしのぶふる里」「帰りたいでも帰れないみる夢はあの山川に残る思い出」「わが命捨てたときとぞ幾度か子に妻にわびて野宿の釜ヶ崎」など、母やふる里を思うものが多くあり、読めばあいりんの男たちの気持ちが切々と伝わって来るのであった。
 日本社会特有の「ふる里に錦《にしき》をかざる」「成功とは成功するまでやること」という出世観、根性論がはびこるかぎり、野宿生活者は今の社会では増えることはあれ、減ることはないであろう。

株成金が子どもの夢とは

 九月府議会で太田知事は「大阪産業再生プログラム(案)」なるものを発表したが、その中で「府下の小中学校でパソコ ンセ啜った授業で株の模擬《もぎ》売買をやらせ、失敗を恐れないやる気を育成していく」としている。私が「今深刻な少年問題を解決するために、心の問題、命の大切さを教えることが云われている、なぜ大阪だけが逆に、ギャンブルのようなことを教えるのか」と質したところ、知事は「問題ない」と平然と答弁した。これでは「通産省出向の知事」と云われても仕方がないのではないかと思った。

江戸幕府も失業対策

 また、いただいた冊子の中に「享保《きょうほう》十七年の飢饉《ききん》のとき、当時人口三十五万人の大阪市中に六千人の野宿者がいた。幕府は、救貧対策として、道頓堀大国橋から運河を掘り、元ナンバ球場のところに船入堀をつくり、周辺に米倉を建てさせた。この工事にあたり、当時幕府の公役は奉仕であったが、高札に『土持を致さば米銭をつかわす、老幼のものも差し支えなし』と布告した」とある。
 私は先の府議会で府の商工労働部長に、「空カンを拾つて月三万円位の食費を得ている野宿生活者に、同額の簡易宿泊所の利用券を支給して、野宿をなくすようにしてはどうか」と提案した。
 しかし、失業者のための国からの「緊急地域雇用特別交付金」さえも平気で、大企業のもうけのために使ってしまう、今の太田府政では、当分その実現は望むべくもないものか。

「釜ヶ崎」の沿革

 釜ヶ崎は昭和四一年「あいりん地区」という呼称に変更されたが、名前は「愛隣」でも対策はなされていないとして、今でも釜ヶ崎と呼ぶ人も多い。
 地区は西成区の北東端、JR環状線と南海本線、元南海天王寺線とに区切られたデルタ地带を中心にした十一町丁で面積は〇・六二平方キロ、西成区の約ハ・四%の狭い地域である。人口は三万とも四万とも云われるが流動が激しく正確にはつかめない。
 釜ケ崎という名は「塩焼釜のある岬」が転じた、と岬の地形が鎌の形をしていた、の二説がある。
 明治三六年に今の天王寺公園一帯で内国勧業博覧会が開かれることになり、府の規則で木賃宿《きちんやど》は環状線を越えて紀州街道沿いに釜ヶ崎に移ってきた。これまでは八軒長屋がひっそりと存在していたにすぎない釜ヶ崎も、これを契機《けいき》に膨張《ぼうちょう》を始める。
 戦後は、復興を始めとして、朝鮮戦争・ベトナム戦争の特需《とくじゅ》、臨海工場地帯の造成、万国博、列島改造、と産業界における日雇い労働者、社外エ、下請エの需要は高まり、地区はその供給源として規模をさらに大きくして、日雇い労働者の巨大な街へと変貌《へんぼう》していった。

【編者注】
 どれも、心に沁みる歌です。それにしても、、現在の、IR(カジノ)「推進」の根っこは、自民党太田府政の時代からあり、今は、「万博」に、これらの歌い手の真情を踏みにじるように、余分な金は使うし、もっと大々的に「ばくち」をひろめようとの魂胆ですね。

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