◎天智天皇陵(沓塚) 山科
第三十八代天皇、天智天皇(在任六六八—六七ー)の墓は京都市山科区にある。
次郎と友子の二人は、今日はこの天皇陵「御廟野古墳《ごびょうのこふん》」に来ている。次郎等の史跡巡りは、今まで何度も堺や羽曳野の巨大古墳を見てきたので、少しは期待してきたのだが…「幹線道路から長く入り込んだ、大きな露地の奥、という感じだね」「何か天智天皇の墓としては物足りない」と友子も。
天智天皇《てんちてんのう》は前の名を「中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》」と言い、中臣《なかとみ》の鎌足《かまたり》(後の藤原鎌足《ふじわらのかまたり》)と共に蘇我入鹿《そがいるか》をだまし討ちというクーデターで倒し、後に「大化の改新」を行った人物。
次郎は語る、「日本の正史とされる『日本書紀』には天智天皇の御陵は明記されていない。天智天皇は病が原因で亡くなったと書かれているのに。また、『日本書紀』にはこれを編纂させた天武天皇の生まれた年が書かれていない。天武天皇《てんむてんのう》は天智天皇の弟だとなっているのに。平安時代の末期に比叡山功徳院の皇円《こうえん》という高僧が書いた歴史書『扶桑略記』には、天智天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。探したが道に天皇の沓が片方、落ちているのが発見できただけで、天皇の姿を見つけることはついにできなかった。仕方がないので、その沓の落ちていた場所を陵とした。と記されている。だから地元の人はこの古墳を『沓塚』と呼んできたとか」「それがここだね」
「天智天皇《てんちてんのう》が病死ではなく、遠乗りに出かけた際に殺されて、遺体はどこかに隠されたというのなら、その犯人は一体どこのだれなの」「殺人事件の場合、被害者が亡くなる事によって結果的に利益を得る人物が犯人として疑われるのが普通だが…」
次郎がつづけて「当時の朝鮮半島は『高句麗・百済・新羅』という三つの国があり、天智は百済派、天武は新羅派で、背景には大国である唐との外交問題がある。結果的には親唐路線を取るべきだと主張する勢力が勝つたことになる」
「実は天武の方が兄だったの」「となれば、兄であるのになぜ先に天皇になれなかったのかという疑問も出てくるし」
「この際、『追号』について述べておくけど。天智とか天武《てんむ》とかいう呼び名は、その天皇が亡くなってから贈られる名前で、現在は、その天皇の治世に用いられた元号がそのまま追号として、例えば大正・昭和がそうだけど。でも昔は天皇が亡くなった時に、その天皇の人柄や業績、好みにちなんだものが選ばれて贈られました。例えば平安期の中頃の醍醐天皇《だいごてんのう》の場合、この天皇が醍醐という食べ物が好物だったからと言われています。基本的には中国の古典から取られているよ」
「認知症のお兄さんの近況は…」「この間ディサービスに哲学の本を持ち込んで読んでいたらしい」「すごいじゃないの」「朝と夜を取り違えて、夜の九時前にディサービスの迎えの車が遅いと怒ったりしているのが増えてきているが…」「今日もありがとう」「お互いにがんばろう」
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2018年3月、4月号
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第24回・第25回” への1件の返信