◎二十九、興福寺に「廃寺」の過去が
今日の二人は近鉄奈良駅から約五分、興福寺に向かっている。
興福寺は法相宗の大本山で、東大寺と並び奈良を代表する古刹である。
六六九年、京都山科に藤原氏の始祖である藤原鎌足によって創建され、壬申の乱の後、飛鳥に移り、平城遷都(七一〇年)の際に現在の地に移建された。
鎌足の子、藤原不比等の「国家興福」の発願から興福寺と称され、藤原氏の氏寺として一門とともに栄え、私寺でありながら官寺以上に隆盛を極めた。
友子が次郎に話しかける。
「興福寺といえば僧兵が思い出されるわね。比叡山延暦寺とともに、強大な軍事力を備えていたけど、その背景には貴族から多くの寄進を受け、広大な荘園を有していたことがある。ほぼ大和一国を領し、実質、大和国の支配者であったのではないの?」
次郎は友子の疑問を聞いて、詳しく解説した。
「僧兵たちはたびたび入洛し強訴している。藤原氏によって創建(七六八年)された春日大社も合体し、その神威をかさに、京の都に押し掛けた。これが結果的には南都焼討を招くが、東大寺や談山神社などともしばしば衝突を起こしている。興福寺に伝わる仏頭(国宝)も元は飛鳥の旧山田寺に安置していたものを強奪し、東金堂の本尊として祀られていたものである。ところが、一八六七年(慶応三年)十二月九日、将軍から天皇に政権が戻った。これからは神様が大切にされる時代だと感じた興福寺は、衆議で全ての僧が興福寺を離れ、同じ経営の春日大社の神官になることを願い出た。興福寺僧は興福寺を見捨ててしまう。興福寺を守るために西大寺と唐招提寺の僧が興福寺に人ったが、守り切れなかった。興福寺は無住の寺、廃寺となった」
「江戸時代を通じて徳川恭府から手厚い保護を受けてきた、その経済基盤が失われ多くの寺が廃寺になったけど、興福寺がいち早く衣替えするとはね…」と友子。
「しかもそれは過保護政策が廃止されただけで、神社も同じように領地を没収されたのだから、興福寺の廃寺化は本当にビックリだ。もっと頑張らねば」と次郎。
「とはいえ、朝廷の権威を振りかざしがちな地域、勤皇思想が特に強い地域、平田篤胤などの神学者や国学者の力が強い地域、こうしたところでは寺がゼロになり仏像も全て壊されているわ」と友子が付け加える。
「大きなお寺には権力で支配、強奪してきた歴史が今も残っているような気がして、何か素直に手を合わせにくいね」と次郎が渋い顔」語る。
「興福寺等はその典型で、今や所狭しと国宝の山」
「やはりわれわれ高齢者が心静かにお参りできるのは、西大寺くらいまでかね。あとの大寺院は『観光寺院』として割り切ればいいんだが…」と次郎が考え込むように腕を組んだ。
今日の帰り道、次郎は思いついたように友子にこう言った。
「認知症の人の気持ちは、鏡に映した介護者の気持ちなのだとよく言われるが、あれは正解だね」
「実感しているのね」と友子が相槌を打つ。
「友ちやんとの『びっくり史跡巡り』がなかったら、私はとっくに挫折しているよ」
笑いながら「少しはお役に立てているかしら?」と友子が首を傾げた。
「大いにです」と次郎は手を叩いた。
今日も次郎は友子の明るさに助けられたようだ。
“がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 二十九” への1件の返信