今昔木津川物語(007)

西成、住吉歴史の街道シリ—ズ(二)

粉浜こはま閻魔えんま地蔵堂じぞうどう(東粉浜三-五)


 勝間街道の住吉側からの出発地点は東粉浜三丁目にある、地元では「六道りくどうつじの閻魔さん」とよばれて親しまれている、閻魔地蔵尊のお堂であった。場所は上町台地の西の坂を下りたところで、道路が六方向に集中する一角にあったが、戦後交差こうさ部分が拡張かくちょうされたため七方向の道路が集まるところになった。
 交通の要所ようしょにもかかわらず、裏道うらみちになってしまったために自動車がほとんど通らず、町並みも戦前の建物が八割方を占め、現代の奇跡きせきを見ているような、不思議な空間と時間を生んでいる。

四百年間、 勝間を守って

 閻魔大王だいおうという恐ろしい冥界を支配する死の神と、地蔵菩薩ぼさつという一番優しい仏さんが一体となっている閻魔地蔵尊のお顔は、自然石しぜんいしに彫られた大人のそれ位で、黒光りに変色していた。こまごました細工さいくは一切なく、粗削りの中にも現代の抽象画ちゅうしょうがのような、見る人に様々さまざまにかんがえさせるものであった。
 掲示されたものによれば「本尊閻魔地蔵は難波の浜辺におわしましたが、われを住吉大社へとのおげにより背負せおわれて、住吉へはこばれました。ところがこの地までくるとどうしたことかにわかに重くなられ、ここにとどめてまつられるようになりました。
尊像そんぞうには天文七年(一五三八)のめいが刻まれていますから、四百三十五年前で戦国争乱せんごくそうらんの世でした。内陣ないじん本尊ほんぞん石造いしづくり座像ざぞうで、お姿は閻魔大王の憤怒ふんぬ形相ぎょうそうでしやくをもっ ておられ、お地蔵さまというイメージとはちがっていますが、閻魔は地蔵菩薩の化身けしんといわれていますので、いつしか近郷近在きんごうきんざいの人びとに霊験あらたかな閻魔地蔵として、崇められるようになりました」とある。
 天文七年とは大坂では十一年におよんだ、織田信長と一向宗いっこうしゅうの本山石山本願寺ほんがんじとの石山合戦が終わりをつげ、顕如けんにょらが大坂を退去した後、石山本願寺は三日三ばんえつづけ、すべての堂舎どうしゃけ落ちた前の年のことである。この仏像が難波にあったということであれば、当然石山合戦とは無関係ではあり得ず、あわただしい情勢の中で、作者は粗削りな作品の中に後世こうせいの平和を願ったとよみとれないだろうか。

心のいやされる時空

 がたがたと戸を開けて中に入ると、右手のちよつとしたたたみの間に女の方がお堂の守をされていた。近頃は神社でも無人むじんのところが多いのに、ここはいつ来てもだれかがおられるので、ローソクや線香せんこうのたえることがない。掃除そうじがゆきとどいて柱や板もすべて黒光りしている。床にも打水うちみずがされていて気分が落ち着く。白いカバーのかけられた小さな座布団ざぶとん腰掛こしかけて、いろいろお聞きすると親切しんせつに答えてくださる。先日も縁起書えんぎしょを少し余分よぶんにおねがいすると、わざわざさがして、追いかけてきて下さった。今時いまどきこんなところはちょっとなく、閻魔堂でのひとときは本当に心のいやされる時間だといえる。
 実は私の一家は戦後疎開先から引き上げてきて、この閻魔堂の近くに住み、私はここで少年時代をごしたのであった。その家は今も地元のお母さんたちが運営うんえいする乳児にゅうじの共同保育所としてそのままの姿で残っている。東粉浜での思い出は語りつくせない程あるが、例えば戦後いち早く地蔵盆が盛大せいだいに復活され、この辻で盆踊りや演芸えんげい大会が何日もやられ、大人おとなたちが目の色をかえて取り組んでいたこと。縁日えんにちには数多くの露店ろてんも出てにぎやかな中で、お堂の中では山伏やまぶしたちが、ほのおを天井に吹き上げながら護摩をたくのを、石の玉垣たまがきにぶらさがって顔を真つ赤にして見ていた子供たち。
夾竹桃きょうちくとうの木の下に毎日来た紙芝居かみしばい。タ焼けの中に友達が一人づつ家から「ごはんやでー」とよばれてきえていき、やがてだれもいなくなったお堂の前の小さな広場……。
 堂内に掛けられた地獄絵じごくえは大正時代に信者しんじゃいて持ってきたものだそうで、昔と同じところに今もあったが、子供の頃の印象いんしょうからすればうんと小さく感じられた。子供心に夢にまで見たこんな絵を、昨今さっこん世間を騒がせている官僚かんりょうや銀行のエリート・自民党らの政治屋は見て育ったのだろうかと、おまいりに来ていた人たちと話し合った。

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