今昔西成百景(001)

◎木津川

 師走のある日、知人の病気見舞いに境川の病院まで行き、帰りは大正区を西から東へ横断、西成区まで約二時間かけて歩いた。もちろん尻無川は甚兵衛渡船を、木津川は千本松渡船を利用した。
 尻無川は川幅も狭く、渡船はまるで横にすべるようにして対岸に着いた。木津川は川幅も広く水量も豊富で、渡船もー旦船首を立て直して、その後エンジンをふかせるという感じで、いかにも船に乗ったという気になった。中学生ら数人が乗り込んできたが、地図を片手にメガネ橋を見上げたりして、ちよつとした冒険旅行だったのかも知れない。
 大正区北村に大きなマリンテニスパークなるものを発見した。公園の南側に約五〇〇メートルの散歩道があり、途中二ヵ所に大きな べ ランダの様な広場が造られ、そこから大正内港の全景が展望できるようになっていた。
 大少数多くの船が停泊し、それに夕日の映えている様は、「大正区の新しい故郷づくり」を実感した。

木津川を知らない西成区民も多い

「西成には自然が無い」とよくいわれるが、木津川を忘れてはいませんか、といいたい。
 西成区の住民も都心に行くのに、地下鉄や南海電車、または国道二十六号線を使うので、区の西の極限である木津川を知らない人も相当いるのではないか。知っているが、最近は見ていないとか。
 市内を流れる川では、神崎川や大和川に比べればまだまだきれいな方で、市営の渡船も「落合上渡」「落合下渡」「千本松渡」と三ヵ所もあり、渡船人口も一日約三千人で立派に通勤・通学の足になっていると共に、大阪の風物詩の役割も果たしている。
 私は西成の街づくりにおいては、もっと川と川辺の在り方を快適にするよう見直すべきだと思う。
 木津川の由来は、聖徳太子が四天王寺建立の折に、諸国から集めた木材を荷揚げしたことからこの辺りを木材の浜、つまり木津と呼ぶ様になったとのことである。かつて天保三年(ー八三二)にはこの川の堤八七〇余間(一六〇〇メートル)に松を植えて、長い松並木が天橋立の様に絶景で、船遊びや潮干狩で賑わったということだが、いまでは千本という地名が残るだけ。
 経済の高度成長期には、造船・鉄鋼・金属・セメントなどの大・中・小の企業が集中し、約二万人の労働者の喧噪もあったが、今では往来する大型船の汽笛の音が「静寂」を破る状態になるまで様変わりしている。

名所千本松の復活を

 しかし、自然としての木津川は、川幅約一五〇メ—トル、長さは西成区内だけで約三〇〇〇メートル、約四五ヘクタールの空間を変わることなくしっかりと確保しているのである。河川敷は府有地で、それと市有地とを合わせて河川公園とすれば西成のイメ—ジは一変する。千本松も復活させ、桜も植えて名所にしよう。  高校にボ—卜部もつくって、大会も出来るのではないか。展望台をもうけ、中山製鋼所の背後に音もなく入っていく、巨大な太陽と大空と川と街との天下一品の夕景を、毎日みせてほしい。
 今西成区には、南海天下茶屋工場跡地(約四ヘクタ—ル)と南津守の市食肉市場跡地(約三ヘクタ—ル)の利用が、西成の街づくりのーーつの目玉といわれているが、ぜひとも木津川と区民との新しいかかわり方についても、一枚加えて検討する必要性を痛感する。
 人生を川の流れにたとえる歌もあるが、私は自分の人生は渡船になぞらえてみたい。色々な出会いと別れを繰り返しながら、大きな流れに沿って船を操り、黙々と多くの人を送り届ける。木津川地域で四十年、日本共産党員として政治革新に心を燃やし続けている者として、川に寄せる想いは深いものがある。

(一九九五・一)

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