今昔木津川物語(002)

西成・阿倍野歴史の回廊シリーズ(二)

天下茶屋あと紹鴎じょうおうの森 (岸里東二-一〇・二-三)

 私が西成の郷土史に興味を持ち始めたきっかけは、太閤秀吉の殿下でんか茶屋が天下茶屋になったという 、至極しごくおめでたい話に疑問を感じ始めたことからである。
 秀吉は農民出身であるだけに、わずかな隠し田も摘発てきはつし、家・納屋なやの敷地にまで年貢ねんぐをかけたという。米二俵を納められなかった農民のうみん夫婦と子供二人を殺させたのを、当時の外国人宣教師せんきょうしが書き残している。
 その秀吉が、景色が良い水がうまいというだけで、毎年三十俵からの米を、西成郡勝間かつま新家しんけの一茶屋に支給する約束をなぜしたのか。それではまるで好々爺こうこうやではないか。何かウラがあるぞ、というのが私の直感だった。

茶道中興ちゃどうちゅうこう武野たけの紹鴎

 この地に天文てんぶん年間(一五三二〜五五)から茶屋を出していた茶人武野紹鴎は、茶の眼目がんもくに「和敬静寂わけいせいじゃく」の理念りねんを説いた反面、雪舟せっしゅう一休いっきゅう筆墨ひつぼくはじめ高麗茶碗こうらいちゃわんなどの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休せんりきゅうなど茶道史さどうしの傑物がいた。
 武野紹鴎はそれだけではなく紀州街道(住吉街道)が、当時深い森でさまたげられ、勝間街道か熊野街道まで回り道をしなければならないというなかで、私財をなげうって森をきりひらくという偉業いぎょうをなしとげていた。そのため今日にいたるまで、紹鴎の勧請かんじょうした天満宮のことを天神の森天満宮とも紹鴎の森天満宮とも呼ぶのである。
 紹鴎はまた、道行く人々に無料で茶をもてなすなどして茶道の大衆化にもつとめ、世人はこれを紹鴎の施行茶せこうちゃ、日本一の茶屋とたたえた。これらのことからして、秀吉の殿下茶屋の以前から、紹鴎の茶屋はすでに天下茶屋と呼ばれていたと私は推理すいりするのだが、明治三十六年発行の大阪府が編者となった大阪府誌第五編にも「然して此の天下茶屋のしょうは、あるひは秀吉の堺政所まんどころへ往復の際立ち寄りてその風景を賞せしより起こるといひ、或るひは紹鴎の茶亭さていより出たといひ、その他或るひは其の以前よりありといひ詳かならず」とある。

非運ひうんの人武野宗瓦そうが

 武野家は紹鴎が五十四オでぼつしてからは数奇すうき運命うんめいをたどる。長男の武野宗瓦は茶道さどうの才能も父まさりといわれ気骨と品位ひんいにも恵まれた人だったが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五オのとき、織田信長おだのぶながに父の遺品いひん「紹鴎茄子なす」と「松島茶つぼ」の名器を取り上げられたうえに追放処分ついほうしょぶんとなり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家そうけを継いだものの、天正てんしょう十六年には父の弟子の手引きで秀吉に「備前びぜん水こぼし」「茄子ぼん」など父の秘蔵ひぞう物約七十点すべてを没収ぼっしゅうされ再び追放となる。宗瓦は不遇ふぐうのままその後病没びょうぼつするが、その場所もさだかでないという。
 一説には、宗瓦は直前にすべてを持って家康いえやすのもとに妻子さいしと共に身を寄せ北野大茶会きたのだいちゃかいに欠席し、秀吉に大恥おおはじをかかせたともある。
 紹鴎秘蔵の品といえば、当時は茶器ちゃきーつでしろ一つに匹敵ひってきするといわれた程のものであり、現在げんざいならいずれも国宝級こくほうきゅう逸品いっぴんであったろう。
 地元の尊敬そんけいを受けていた武野家を白昼強盗はくちゅうごうとうのようにして抹殺してしまった秀吉に、世間のきびしい批判の目が向けられたことは、当然のなりゆきだったと思われる。

秀吉の隠蔽工作いんぺいこうさく

徳川とくがわ家康にえず厳重げんじゅうな警戒をはらいいながら、諸大名には褒美ほうびをおくりやっと天下人てんかびとになった秀吉にとっては、大坂おおさかでの悪評あくひょうのどんな一つでも、命取りになりかねないとの思いがあったのではないか。
 河内屋の芽木小兵衛めきしょうべいにたいして、井戸には「恵水けいすい」の名と毎年米三十俵を与えるとのおたっしが華々はなばなしくやられたのは、武野宗瓦追放劇の直後であったことからしても、殿下茶屋発祥はっしょう劇はその隠蔽工作とみるのが歴史の常識じょうしきではないだろうか。

紹鴎の名を残した小兵衛

突然とつぜん太閤秀吉にほめちぎられた、芽木小兵衛の心中は複雑ふくざつであったろう。恩人武野家のことを思えばむねははりさけんばかりである。
 しかしそれは絶対におもてには出せない。しかしこのままでは、後世の人は何と思うだろう。自分の意志いしを残しておきたい……。
南北朝なんぼくちょうの「忠臣ちゅうしん」楠木正成まさしげの子正行まさゆきの十代目、正長まさながの三男昌立まさたてとしての誇りにかけても。
 今、紹鴎の森天満宮の住吉街道側の鳥居とりいから入るとすぐ右手に、子供の背丈位せたけぐらい表面ひょうめんがぼろぼろになった石が一つ建っている。まるで路傍ろぼうの石のようなこれこそが、三代目芽木小兵衛昌立が万感ばんかんの思いをこめて、四代目小兵衛昌包まさほうに「紹鴎のもり」と深々と刻ませた歴史の証人しょうにんなのではないだろうか。石に手を置けば頭上ずじょう高くで、樹齢じゅれい六百年のくすのきが風でざわめいていた。

【注記】
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【参考】
Wikipedia 武野紹鴎
Wikipedia 武野宗瓦

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