【はじめに】「今昔堺物語」「南大阪歴史往来」は、今まで刊行された二冊の冊子-「西成百景」「木津川物語」-には収録されなかった部分で、おもに日本共産党西成区委員会(当時)発行の「がもう健府政ニュースに連載されました。その記事を適時掲載してゆきます。
◎高須神社
先日、 私は大阪市内から堺市内にかけて走っている阪堺電車(チンチン電車)の大和川から南へ堺市内に入って二つ目の、高須神社駅に降り立っていた。
「駅」といっても、駅舎も屋根とベンチがあるだけの、 囲いもなにもないもちろん駅員もいない、昔の市電の停留所とあまり変わらないところだが、最近はこれらもみな「駅」と呼んでいるようだ。
時は平日のお昼前であったが、降りたのは私一人で乗る人もなく、たった一両の路面電車は、街の裏通りの感じの専用軌道部分を、ガタゴトと自己主張をしながら遠ざかって行った。
五十年ぶりに通学路を訪問
実は私は、このもの静かな場所に立つのは五十年ぶりのことになる。私は南海電車高野線浅香山駅前にある、堺市立商業高等学校に通学していた当時、登校は天下茶屋駅から高野線の各停に乗り、下校は友達の関係でよく阪堺線を利用していた。学校から西へ直線コースで約十五分位か、化学工場が垂れ流す汚水の異臭が漂うドブ川を渡ってしばらく行くと、高須神社駅に.到着する。
このドブ川を埋め立てて一九七〇年開催の大阪万博に向けて、高速道路が突貫工事で建設され今日に至っているわけだが、なにを隠そうこの川こそ「自治都市堺」の平和と安住を守るために、室町時代につくられた由緒ある環濠そのものでように感じられるのだ。
貴重な史跡をじやまもの扱いにして、どさくさまぎれに破壊して開発してしまうという行政のやり方は、私の地元で十三間堀川を高速道路に変えさせたのと同じだ。
危険な情勢は変わってない
さて「五十年ぶり』と表現したが、実は私にとってごの五十年は、まだ昨日のように感じられるのだ。
今も「坂の上の雲」を追っている私が変なのか、それとも最近同窓会がひんぱんにもたれ、永年会わなかった友人達の顔を見る機会か多くなったからか。いやそうではなく、十代の当時「再軍備反対」や「原水爆禁止」の運動を行いながら「もう五十年もすればこんなことは昔話になるだろう」と人類の英知と進歩を確信していたのに、最近自衛隊のイラク派兵、憲法改悪、徴兵制復活の動きが強まるなか、危険な情勢は昔とあまり変わっていないと痛感していたからではないか。「歴史は繰り返す」は許してはならない。
昔の看板が残る不思議な街
その日、駅前でまず最初に私の目を引いたのは、目の前にぽつんと一軒だけある商店のガラス戸である。その店は元は埋髮店であったようだが、永年営業してないどいうことは一目でわかる。しかし、私が目を皿のようにして見つめなおしたのは、ガラス戸の内側からぶら下げられた数枚の大きなブリキの看板だ。右側に浪花千恵子左側に大村昆がそれぞれオロナミンCドリンクと軟膏の宣伝をしている顏写真。真中には赤い分厚いふちのメガネをかけた少年が「赤影とゆけ」とさけんでいる。いずれも四十年位前のものであることにまちがいない。通行人をおどかすためにマニアがわざとやっている様でもなく、四十年間そのままというのも信じられない。
タイムスリップで堺めぐり
あぜんとして視線を他に移すと、どうもこの辺は空襲を免れたようで、家は密集しているが、ほとんどが古い二階建で、全体に落ち着いた雰囲気があり歴史を感じさせる。まるでタイムスリップしたような奇妙なわくわくする気持ちで、私の「今昔堺史跡めぐり」は始まった。
高須神社は鉄砲鍛冶が創建
さて、髙須神社であるが元々この神社は、「鉄砲鍛冶」の繁栄を祈願して、鉄砲鍛冶年寄の芝辻理右術門が創建した神社。理右術門は慶長十四年(一六〇九)徳川家康の命令を受けて銃身ー丈(約三メートル)ロ径ー尺三寸(約三十九センチ)砲弾一貫五百久(五・六キログラム)の大筒(大砲)を製造。これはわが国で造られだ最初の大筒である。さらに大阪冬の陣では五百丁の鉄砲を直ちに製造納入した。その功績によりこの地を拝領した」と、堺により神社外の東側に掲示されているが、正面の鳥居から入れば意識的に探さないかぎり目に付かない。
徳川幕府と堺市の特別なつながりを示す重要な神社であり、境内にかっての大筒を展示しておいてもよい位なのに、なぜか今は鉄砲とのかかわりを避けているように、私には思えた。
北側の拝殿では、現世利益の神々が八社も軒をつらねておられた。
(2004.4 府政ニュース No.202 から)
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