◎鉄砲町
編者注】大阪きづがわ医療福祉機関紙「みらい」掲載(2015年8月号)では、タイトルは、「鉄砲合戦」
天文十二年(一五四三)三人のポルトガル人が暴風にあい、薩南諸島の一つ種子島に漂着した。彼等は二本のニ~三尺の鉄筒を持っていて、その用法と威力を領主に教えた。鉄砲が日本に入ってきた最初である。
紀伊根来寺の杉坊妙算、これを求めるため種子島に渡って帰ってきた。当時根来寺のふもとにいた堺生まれの鍛工芝辻清右衛門が、その製法を学び堺で製造した。
戦国の日本は鉄砲保有大国
戦国大名にとって、馬と槍による従来の戦いが、鉄砲伝来で完全に塗り替えられることとなった。
芝辻らは商人でもあったので、鉄砲の製造と販売に力を注いだ。そのため鉄砲は全国的に一挙に普及し、たちまち日本は世界でも有数の鉄砲保有国となった。
織田信長は武田勝頼との長篠合戦で、三千挺の鉄砲を有効に使って勝利している。
芝辻文書によれば、明暦三年(一六五七)諸国諸大名からの注文の合計は四千五百三十五挺で、これが最高であったという。もちろん堺以外にも製造していたので、当時全国での年間の鉄砲製造数は、相当なものであったと想像できる。
大坂の陣は堺製の鉄砲合戦
慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に芝辻は豊臣方より五百挺、徳川方より千挺の注文を受けており、大坂の陣は堺の鉄砲の打ち合いであったことになる。
冬の陣は徳川方が二十万人の大軍で大坂城の周りを取り囲んだが、その前に立ちはだかったのが、秀吉の怨念の固まりのごとき「惣構」とよばれる、大河なみの外堀であった。秀吉はわが子秀頼のために晩年、大坂城を名実共に難攻不落の要塞にしようと思い立ち、外堀を広げ延ばし、堀の底にはさまざまな仕掛けをして、完全なものに仕上げていた。惣構工事の結果大坂城の面積は一挙に四〜五倍となり、冬の陣の最中にも城内では商人はいつものように商売をし、野菜は自給自足ができたという。
冬の陣では徳川方も大苦戦
当時の鉄砲は未だ七~八十メートル位しか弾は飛ばず、何千挺という数の徳川方の鉄砲もいくら射っても城内には達しない。手柄をあせって堀の中に入っていけば、底には妨害物が置かれており動けない。堀の中であがいていると、二階矢倉から狙い撃ちされる。徳川方の二十万の軍勢がひと月半の間、大坂城をびっしりと取り囲んだのはよかつたが、結局その間、一兵たりとも攻め入ることは出来なかった。
季節は真冬、二十万人の食糧も底をついてくる。掠奪ばかりしていると、背後に敵をつくることになる。しかしこのままでは、徳川方から先に、凍死・餓死者を出さないとも限らない。すでに各隊とも逃亡兵が続出している。
家康「まさか…」と動揺?
地下にトンネルを掘って本丸の下で爆発させる作戦も、山から人夫を呼び寄せやらせているが、これはあくまでも心理作戦で、二重三重の堀をくぐって行けるはずがない。
徳川方の圧勝という予想で始まった戦いだけに、もたもたしていると情勢が一変レ)しまうこともありうる。これは現代の選挙戦でも同じことが云える。「矢張り家康は城攻めは下手」との声も聞こえてくるようで、家康はふるえが止まらない程動揺していた。
そこで家康はさかんに和睦案を出して、豊臣方をゆさぶり出した。最終的には秀頼と淀殿はもとより、城内の浪人共の責任も一切問わない。条件は外堀の埋め立てのみという、本音をさらけだしたものとなった。
まぐれ弾が和睦案をのます
この和睦案を豊臣方が受け入れることになるのは、それまで一貫して徹底抗戦を主張し、高齢の家康が死ぬまでの籠城を云っていた淀殿の心変わりであった。手の平を返すように淀殿が態度を変えた謎を解くカギは堺にあった。
当時すでに鉄砲以上のものとして大筒がつくられていて、徳川方により大坂城のまわりにも数多く配備されていたが、約三センチ位の弾が飛び出すだけで、幕でも張っておけば、被害はあまりないという代物であった。
そこで攻撃の最後の手段として徳川方は、かねてより堺の芝辻に命じてつくらせていた、砲身一丈、口径一尺三寸、一貫五百匆の砲弾を打ち出す大大筒と、これ以外にもイギリスやオランダから本物の大砲を技術者付きで十数門買い入れ、京橋口の片桐且元の陣地から打ちまくった。これらの弾丸も城内には達せず、ただ万雷のごとき音響だけははるか京都にまで届いたというから、城内ではさぞや鳴り響いていたことであろう。しかし、内戦に外国の力を借りた徳川方のやり方は、今も就任後ただちにアメリカ参りをする、日本の首相に引継がれているというのであろうか。
ところが十二月十六日の朝、突然サッカーボール位の鉄の弾が、本丸内の淀殿の居間の櫓を打ち破って突入、侍女二人を死亡させてしまった。当時の弾丸は爆発するまでにはまだなっておらず、ただ打撃を与えるだけだが、直撃を受ければ被害は大きい。
このまぐれ当たりの一発で淀殿はびっくり仰天、一度に和睦論者に転向した。
その後徳川方は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで一気に埋めてしまい、裸になった大坂城はあわれー年後の夏の陣では、たったの三日間で落城、炎上してしまうのである。
日本の歴史を変えた大砲をつくった堺には今、鉄砲町という町名は残っているが、現地には鉄砲についての見るべき資料等を展示した施設もなく、本来はその役割を果たさなければならない高須神社が、早々と商売繁盛の稲荷神社に変身するなど、何か訳があるのか知りたいところである。
(二〇〇四.五)
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