今昔木津川物語(004)

西成・阿倍野歴史の回廊シリ—ズ(四)

◎阿倍野王子神社と晴明神社 (元町九)

 十一|世紀《せいき》前期以来|盛《さか》んになったものに、王朝《おうちょう》貴族の四天王寺詣《してんのうじもうで》、住吉《すみよし》神社詣、高野山《こうやさん》詣および熊野詣がある。
 その中でも最も遠路《えんろ》を行く熊野《くまの》詣は、淀川《よどがわ》を船で下り、天満八軒屋《てんまはちけんや》辺りで上陸し、四天王寺、住吉、堺、泉佐野《いずみさの》を経て田辺《たなべ》から山《やま》の辺《べ》の道を通り熊野本宮へ向かう、往復百七十里、約三週間のコースが一般的《いっぱんてき》であった。
 この熊野街道の沿道《えんどう》には「熊野|九十九《つくも》王子」と称《しょう》せられている多くの神社があり、熊野詣をする人々はこれらの王子を巡拝《じゅんぱい》しながら本宮へ詣でた。現大阪|市域《しいき》で元の位置にある王子社は安倍野王子神社のみで、他は合祀《ごうし》や移転《いてん》させられている。

皇族《こうぞく》の道中《どうちゅう》は農民への重税《じゅうぜい》

 延喜《えんぎ》七年(九〇七)宇多上皇《うだじょうこう》から始まつた熊野|御幸《ぎょこう》は、弘安四年《こうあん》までの三百七十余年間に白河《しらかわ》・鳥羽《とば》・崇徳《すとく》・後白河・後鳥羽・後嵯峨《ごさが》・亀山《かめやま》の上皇《じょうこう》や法皇《ほうおう》によって百回近くも行われたが、特に後白河法皇などは三十四回、後鳥羽上皇も三十ー回という記録《きろく》をつくっている。彼等の御幸は所々《ところどころ》の王子社で供奉《ぐぶ》の公卿《くぎょう》に和歌の詠進《えいしん》をさせるなど華《はな》やかでぜいたくな道中であった。
 源平《げんぺい》の争乱《そうらん》に加《くわ》えてこれら皇族の遊興《ゆうきょう》や旅行は、摂河泉《せっかせん》の農民に重い負担《ふたん》をかけ、このことが頼朝の死で元気付いた後鳥羽上皇が、院政《いんせい》を復活して幕府《ばくふ》を押さえようとした、承久《じょうきゅう》の乱の失敗《しっぱい》にもつながっていった。

庶民《しょみん》の熊野詣は幸福《こうふく》への悲願《ひがん》

 庶民にとっての熊野詣は苦しくて厳《きび》しいものであった。それにもかかわらず、華厳経《けごんきょう》による補陀落浄土《ふだらくじょうど》こそは熊野であるとして、「蟻《あり》の熊野詣」といわれる程、えんえんと行列をつくつて詣でたということは、うちつづく天災《てんさい》、大火《たいか》、疫病《えきびょう》そして戦火《せんか》を何とか逃《のが》れたいという、切《せつ》なる気持ちによるものであったのだろう。

空海《くうかい》ゆかりの阿倍野の氏神《うじがみ》

 阿倍野の氏神として今も親しまれている王子神社は極《きわめ》めて古い創建であるが、天長二年(八二六)のとき全国的に疫病《えきびょう》か流行《りゅうこう》した際《さい》、空海《くうかい》が一千部の薬師経《やくし》を読経《どきょう》し、一石《いっせき》に一字《いちじ》を書写《しょしゃ》して祈《いの》ったところ疫病がやみ「痾免《あめん》寺」の勅号《ちょくごう》と勅額《ちょくがく》を受けたとある。この痾免寺は当神社の神宮寺《じんぐうじ》として、今も印山寺《いんざんじ》と改称《かいしょう》しその法灯《ほうとう》が継《つ》がれている。
 阿倍野王子神社の祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオノ、ホンダワケノ命《みこと》、阿倍野王子そして男山八幡宮《おとこやまはちまんぐう》を合祠《ごうし》している。境内のくすのき三本が市指定保存樹《ししていほぞんじゅ》として往時《おうじ》の面影《おもかげ》を残している。
 阿倍野王子神社北側に阿倍晴明神社がある。祭神は平安中期の天文博士《てんもんはかせ》で阿倍|臣《おみ》の子孫。天慶《てんけい》七年(九四四)に当地で誕生し、陰陽道《おんようどう》にすぐれ天文博士、太膳太夫《だいぜんのだいぶ》、左京太夫《さきょうだゆう》、播磨守《はりまのかみ》を歴任《れきにん》寛弘《かんこう》二年(ー〇〇五)に没《ぼつ》した。
 境内に「産湯《うぶゆ》の井戸」があり、晴明の産湯《うぶゆ》を汲《く》んだところといわれている。また「恋しくば訪ね来てみよ和泉《いずみ》なる、信太《しのだ》の森のうらみ葛《くず》の葉」で有名な葛の葉|子別《こわかか》れの像もあり、都会の中にひとつ忘れられたような、こじんまりした静かな神社である。

塔心礎《とうしんそ》は出土の地へ

 往昔《おうせき》、四天王寺|庚申堂《こうしんどう》の巽方《たつみかた》に、大化の改新の際左大臣に任ぜられた阿倍内倉梯磨《あべのうちくらのはしまろ》建立《こんりゅう》の阿倍寺という広大な寺院があったという。
 この寺は阿倍寺|千軒《せんげん》といわれ極《きわめ》めて広大な地域を有《ゆう》していたらしいが、昭和十年松崎町二丁目の松長大明神の境内から古瓦《ふるかわら》(複弁八葉連華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦)、塔心礎が出土し、その塔心礎の大きさから、相当《そうとう》大きな堂塔伽藍《どうとうがらん》が存在《そんざい》したことが裏《うら》づけられ、白凰《はくおう》・天平《てんぴょう》時代(六四四―七九四)のものだろうと云われている。この塔心礎、現在はなぜか西成区の天下茶屋公園にあるが、貴重《きちょう》な大阪府指定の文化資料としても、本来《ほんらい》のしかるべきところへ移《うつ》すべきではないだろうか。

 今回も、その旧跡を撮影した動画を付けました。どうぞこちらも、お楽しみください。

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