今昔西成百景(005)

◎紹鴻(じょうおう)の森

二月三日午後五時より、関西芸術座の新稽古場落成記念パ—ティ—が、岸里東二丁目三番地の住吉街道に面した新築ビルで行われるとのことで、少し早めに出掛けていった。
関芸は西日本を代表するプロの新劇の劇団で、永年阿倍野区の文の里にあったが、今度阪和線高架化の予定に伴い、西成区へ移転して来たのである。新稽古場は三階建で二・三階吹き抜けのステ—ジには二〇〇席の観客席もつくることが出来て、前のより約二倍の大きさだという。そして新稽古場の東側には有名な紹鴎の森と天神の森天満宮がある。

武野紹鸥の銅像は堺にある

天満宮を勧請した武野紹鷗は文亀二年(一五〇二)生まれ。父は堺の豪商、子供を何とか武士にしようとしたがむしろ学芸を好み、特に茶道には熱心でその才能抜群、二十九オのとき茶道に専念したいため惜し気もなく地位を捨て剃髪。その後住吉大社の北勝間新家に良水を求め茶室を設けた。その頃大阪から住吉大社へ通じる住吉街道は、この付近で大きな森に妨げられていた。そこで紹鷗は私財を投げ売ってこの森を二つに裂き街道を通すことに成功。人々は感謝してこの杜を紹鴎の森と呼ぶようになった。
紹鴎は茶の眼目に「和敬静寂」の理念を説いた反面、雪舟や一休の筆墨はじめ高麗茶碗や天目茶碗などの名器を収集し、その鑑識眼は大変なものだったという。また門人に千利休など茶道史の傑物がいた。しかし武野家は紹鴎が五十四オで没してからは、数奇な運命をたどる。武野宗瓦は、父の門人らに支えられ茶道の才能も父優りといわれ気骨と品位に恵まれた人だが、坊ちゃん育ちにつけこまれ、まず二十五才のとき織田信長に父の遺品「紹鴎茄子」と「松島茶壷」の名茶人・武野紹鴎ゆかりの紹鴎の森と天満宮(岸里東2丁目)器をとりあげられた上に追放処分となり、紹鴎の森に隠棲する。本能寺の変で信長が急死したため、二十九オでやっと茶道の宗家を継いだものの、天正十六年には豊臣秀吉に「備前水こぼし」「茄子盆」など父の秘蔵品すべてを没収され、再び追放となる。宗瓦は不遇のまま慶長十九年(一六一四)六十五才病没するが、その場所は定かでないという。(西成区史)
大阪府保存樹の大楠をはじめ、巨老木が天満宮の境内にうっそうとし、菅原道真公が現れ出ても不思議でないふんいき。私は少し夢をみてみる。

西成のロビンフッドか

まず武野親子は時の暴君らが無理難題をふっかけてくるのは予想済ではなかったか。むざむざと名器をすべて差出し、しかも追放を受けるのなら、偽物を提出し本物は秘匿する抵抗を行なったのてはないか。紹鴎の鑑識眼は最高のものだったはずである。宗瓦はこの紹鴎の森の奥深く、住民に守られながら権力者共の有為転変を冷やかに見て、案外気楽に生涯を送ったのではないか。そう思えば先日の地震で落ちた瓦のガレキにまじつていわくありげな古茶碗のかけらが足元にある。
私の夢はここで終わって、もう五時、そろそろ関芸のパ—ティ—に出席せねばと思ったとき、阪堺線天神ノ森停留所からこちらに二人の「刑事」が歩いてくる。雰囲気でわかる。ぼんやりと見ていると足早く過ぎて行った。
関芸の稽古場ビルは本当に立派なものだった。これだけのものを民間の力でつくり上げたことに敬意を表したい。そして、私達を入口に並んで迎えてくれた劇団員の幹部の中に先程の二人の「老刑事」も居たことにびっくりした。かってのテレビドラマ「七人の刑事」の出演者であったのだ。これで西成の新劇の劇団が「潮流」に続いて二つになった。私の理想である「文化・スポ—ツの盛んな街、西成」に一歩近づいたことになるように、みんなで協力しなければと思った。
(ー九九五・ニ)

付記1】今回も、当地にちなんだ動画を追加します。存分にお楽しみください。
付記2】2024年4月号の、大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」に紹鴻の森の紹介が載っていますのでお読みください。

注記】本文、画像、動画の二次使用はご遠慮ください。

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