◎木津勘助ゆかりの―敷津松之宮神社
今日は、診療所近くの敷津松之宮神社(西成分社)の祭礼の日、それにちなんで、神社に関連する、知らぜざる義民のエピソードをひとつ。
私は二十三才で日本共産党の専従となり、今日に至るわけだが、最初の三年間は、当時浪速区にあった木津川地区委員会の事務所に市電で通っていた。降りる停留所の名前が勘助町」。昼休みによく立ち寄る「敷津松之宮大國主神社」の境内には、かつてこのあたりに住んでいたといわれる木津勘助翁銅像(昭和二十八年十月に再興)が建っていた。
神社の由緒略記によれば、「木津勘助は俗名で、中村勘助義久という。天正十四年(一五八六年)に相模國足柄山の郷士に生まれ、青年の頃より豊臣家に仕え、今の三軒家北岸に軍船の港づくりに従事し、また率先して木津川の開拓工事に尽瘁(じんすい)し大阪繁栄の基ともなる水運の便と堤防を強化して洪水の害を防ぐ」など、その功績は高く評価されている。銅像はこのときの活躍ぶりを示し、右手に設計図を持ち脚絆姿の威勢のよい姿である。
大飢饉に庶民救済のため命を賭けた
とくに勘助を有名にしたのは、寛永十六年(一六三九年、勘助五十三才)の大飢饉の義侠である。銅像の碑文を訳すと、「三代将軍家光の寛永十八年(一六四一年)は天候のせいで大凶作。徳川実記によると、餓死するもの道をふさぎ、ー衣覆うことなしに倒れ伏すもの巷に満ち、さながら生地獄の如し」とあり、飢饉がいかに物凄いものであったかを物語っている。
「この窮状をなんとか救わんもの」勘助は各村の庄屋らと奉行所に日参して貯蔵米の放出を陳情し続けるが、奉行は幕府の許しがないとの理由で応じてくれない。
勘助は、家財の一切を投げ出し救済にあたるが、遂に死を覚悟して、米蔵を襲い五千余俵を奪って窮民に分け与える。奉行所に自首した勘助を助けんと、各村の庄屋たちが減刑運動をおこし、その結果、死一等を減じ勘助島に流すという軽い処分であった。
翁は晩年に至まで黙々と川浚え工事や新田開発に精を出すなど、平穏な余生を送り、万治三年(一六六〇年)の十一月二十六日、七十五オの天寿を全うして没し、木津『唯専寺』に眠る、となっている。私は当時、こんなふうに地域に貢献できる生き方にあこがれたもので、先輩たちも「木津勘助は、いまでいう日本共産党や」などとよく話題にしていた。
権力の非情
しかし事実は、木津勘助は米蔵破りから十九年も過ぎた万治三年、幕府は「米蔵を破った罪科は極めて重い」との理由で斬死の刑を宣告、同年十一月二十二日遂に刑は執行されたのである。「西成郡史」にも、年表に「木津勘助斬られる」との見出しつきで載せている。
銅像が最初に建てられたのは、一九二一年(大正十一年)十一月、天皇制権力のもと、たとえ義民であっても処刑されたら犯罪者、その銅像は公然と建てられないとの配慮と、幕府といえども民衆の願いには逆らえなかった、という希望的観測の結果「平穏な余生を送り天寿を全うした」という歴史の事実とは違うものとなったのではないか。
処刑されたとする「西成郡史」のその日は十一月二十二日、天寿を全うし没したとする銅像のその日は十一月二十六日、この四日間に何があったのか謎である。
寛永の町人一揆、木津勘助の米蔵破りの物語は亨保六年(一七ニー年)道頓堀の角座で上演されている。木津勘助の没後六十一年目である。しかし、歴史的事実からみれば、寛永時代、堂島はまだ葦におおわれ、米会所ができたのも後のこと、南難波の御用蔵が造られたのも後のことであるという。
それでは木津勘助はいったいどこの米蔵を襲ったことになるのだろうか。
私は思う。木津勘助は一人ではなく何人もいたのではないか。世のため人のため、たとえ権力にたいしてでも勇敢に闘っていく人を、この地域では時代は変わっても木津勘助とよび、たたえたのではないか。
いま、日本共産党以外は「オ—ル保守」というなかで、かつて自民党一党ではやりたくてもやれなかった悪法を次ぎつぎつくり出し、国民に耐えがたい苦難を押しつけるという異常事態がおこっている。こんな時こそ、無数の木津勘助が大阪に、西成に求められている。
敷津松之宮神社西成分社が松二丁目にある。
(一九九六・二)
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