南大阪歴史往来(012)

南大阪歴史往来(十二)

◎哀愍寺《あいみんじ》(上住吉二ノ十四)

 住吉大社の東、旧熊野街道に面して、ふるいお寺が今も多く残っているが、その中の一つ「哀愍寺」は、お寺の横に「ちぎり地蔵尊」があり、そのことでも目を引くお寺である。今も神仏両方をお祭りしている住吉神宮寺の名残り「西之坊」の向いにある。
 かって新聞に掲載されたことのある哀愍寺の三十七代目住職片山法道氏の話によると「哀愍寺」というお寺は、群馬県、滋賀県、住吉と三つあり、群馬県で玉念上人という方が開山。武田信玄の帰依を得て全国行脚に出かけ、住吉の地にとどまって永正十四年(一五一七)開山したもの。怜法院覆護山哀愍寺といい、本尊は鎌倉期作の阿弥陀如来である。

織田信長が寺にやってきた

 この哀愍寺が歴史の舞台になったのは、織田信長の天下統一の時。「往生集」という本には、次のように残っている。
 ある時、日蓮宗の信徒三人が「浄土宗では救われない」と言いだして論争が起きる。そこで信長は玉念上人を含む両宗の高僧を哀愍寺に集めて論争させ、みずから裁判官になり、浄土宗に軍配を上げ、日蓮宗の僧三人は破門、信徒三人は打首となつた。「浄土宗、日蓮宗のどちらがいい悪いという問題ではなく、信長は信仰の世界でも自分の勢力を誇示したかっただけでしょう」と片山住職の弁。
 しかし、これを読んで、私は疑問が生じてきた。というのは、そもそもこの時代は、信長が浄土真宗本願寺のある石山城の強奪を企み、十年間にわたる世に言う「石山戦争」元亀一年〜天正七年(一五七〇〜一五七九)の真っ最中。信長は本願寺の一向一揆の門徒に手こずり、さまざまな和平交渉を進めていたが、ー方浄土真宗にあらゆる点から一番近いのが、浄土宗であることを意識し、今もし浄土宗が反信長に立てば大変なことになると、わざと浄土宗に軍配を上げたのではないか。いや、ひょつとしたら両宗の争いも信長が最初から仕組んだのではないか、と私は推理する。

宗教団体に補助金出す米国

 しかし宗教界を支配するための、信長のアメとムチの政策も天正十年(一五八二)の本能寺の変ですべてご破算になってしまう。
 アメリカのブッシュ政権は原理主義色の強いキリスト教の教団に、年間二千三百億円からの補助金を出しているという。政教分離の憲法の立場を踏みにじって特定の教団を宗教戦争に駆り立てることは中東での石油の強奪というブッシュ政権の本質をごまかすためであり、国と時代は違つても独裁者のやり口は似たようなものである。そして、ブッシュのーの子分である小泉首相も創価学会という謀略を得意とする「宗教団体」を利用している。今や彼らそれぞれの「本能寺」が迫ってきていることを、歴史の予言として知るべきである。

公約を守らない自民・公明

 話は変わって、「哀愍寺」との関係を見てみよう。
 明治維新による「廃仏き釈」(寺院などの破壊運動)でどのお寺も大変な時、今の地にあった真言宗のお寺の尼さんが「自分はこの寺を維持することが出来ない、買ってほしい」という話をもちかけ、向かい側にあった哀愍寺がこの地に移ってきた。真言宗であれば地蔵尊のあるのは当然のことで、現存する「ちぎり地蔵」はその名残という。
 この地蔵尊は「ちぎり地蔵」「千切地蔵」また「十徳地蔵」とも呼ばれ、かつては独特のわら人形が売られ、縁日が出て多くの人で賑わった。「ちぎり」の意味は契約を結ぶ「契り」、信心すれば「十徳」を契約どおり実現してくれるという。「十徳」とは、「女人安産・水火安全・諸病消除・諸願成就・寿命長遠・衆人結縁・神明加護・旅路加護・極楽往生・悪夢退散」又、「ぬいぐるみ地蔵」とよばれる手づくりの素朴な地蔵さんの背中に願いを書いて、堂内に安置すればその願いが叶うという。ぬいぐるみはお寺で買えるとのこと。
 さて、選挙になれば各党は十徳(公約)を並べる。自民党のキヤツチフレーズは「改革なくして財政再建なし、改革には痛みがともなう」であり、公明党は「福祉の党」であった。ところが財政再建どころか国・地方の借金は一千兆円にもなり、福祉は後退するばかりで痛みだけが押しつけられた。国民にとつてはまさに十徳どころか十損である。

“南大阪歴史往来(012)” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です