南大阪歴史往来(013)

◎神南辺大道心

 住吉大社の南に延びる旧街道の東側に、浅沢神社、大歳神社と古い神社がつづくが、西側にも地蔵寺という小さなお寺がある。
 この寺は、松野山と号し天台宗正覚寺末である。創建は不詳、承応三年(一六五四)僧承円が再興した。以前は現墨江丘中学校付近にあったが明治十八年当地に移転した。
 本尊の子安地蔵は、伝教大師作と伝えられている。伝教大師は弘仁三年(ハ一二)三月、九州から比叡山へ帰る途中、住吉大社に参詣し、その時像をつくり、翌四年五月開眼供養した。地元では「子安さん」と親しまれ、安産祈願で知られている。

インドの神が仏教へ五大力

 門前には百度石を兼ねた五大力碑がある。本堂右にはその五大が菩薩尊堂がある。その他宝物として五大力尊版木を蔵している。これらはもともと住吉神宮寺にあったものである。
 また、この五大力碑は、文政二年(ー八一九)に神南辺隆光が寄進したものである。神南辺は神南辺大道心または単に神南辺の名で各所に道標や案内標識、鳥居や神輿台、橋まで寄進している、と住吉区史は記す。
 慈恩寺という、代々住吉大社の神主を勤めた津守氏の菩提所であって、明治維新後廃寺になった真言宗の寺院が浅沢神社の近くにあったが、境内には有名な「車返しの桜」があり、この道標も神南辺の寄進である。現在これは縁もゆかりもない、浪速区元町一丁目の法照寺前に残る。「車返しの桜」とは、後醍醐天皇が住吉行幸の時、あまりの美しさにもう一度車を返して名残を惜しんだ、という話からきている。

神南辺大道心は燗鍋の職人

 住吉大社を中心とするこの地域の、大海神社の神興台、浅沢神社と大歳神社の鳥居なども、全て神南辺の寄進である。
 それでは神南辺とはいかなる豪商か大地主か。といえばさにあらず、住吉区史によれば「奈良県王寺町神南(じんなん)の生まれで弥助という燗鍋作りにかけては腕の立つ職人であった。しかし素行が修まらず人からは嫌われていた。息子は小さいときから寺の小僧にやられていたが子供からその不行跡をたしなめられて改心、一念発起して仏門に入り、燗鍋作りから『神南辺』と改め諸国を行脚、人に役立つようにと、道標・百度石の建立や架橋までした。堺市には、神南辺町、神南辺橋などが残っている。天保十二年(一八四八)堺で没す」と、お役所作成の文章にしてはめずらしく「伝説」まで書いているので、私はある日、堺に出かけて行った。
 南海電車堺駅と七道駅のほほ中間に、目的の神南辺町があった。しかし、町の大部分が、高層の民間マンションと自動車販売会社に占められ、おめあての「郷土史漂う」という雰囲(追加 気)があまり感じられない。どうしたことかと、自転車屋の前にいた、七十オ位の男性に聞いてみた。しかし、彼は,「神南辺の名の由来など考えたこともない」と。私の方から「神の南だから住吉大社の南方という意味でしょうか」と、誘いをかけてみると「住吉は北だ」と、宿院にある住吉大社のお旅所の方角をゆびさすので、郷土史に全く無関心でもないらしい。

堺で神南辺を知る人少なし

 近くに公園と野球場があり何か神南辺道心の「顕彰碑」でもないかと探したが見当らない。今度は、公園の前の酒屋さんが、丁度自販機に詰替え中で、表に出ていたので、又聞いてみた。しかし、返事は「約五十年ここに住んでいるが、そんな話は聞いたことがない。おやじでも生きていれば知っていたかも」と親切に答えてくれた。
 堺の旧市内をとりかこむ環濠のあとを内川として残しているが、それにかかる橋のーつとして、 神南辺橋は現存していたが、鉄とセメントの普通の橋で、特にこれという説明板も付いていなかった。自分の住んでいる町の少なくとも名前の由来位は、誰かが知っているはず。当日は炎昼下でもあり、私も次の機会を期して引き上げた。後日、知人から「あの辺は堺の空襲と戦後の臨海工業地帯の造成で大きく変わってしまった」と聞かされた。
 一世紀もたてば人間の記憶もうすらいでいく。ましてー般庶民の善行の場合は特にそうである。

伝説・伝承の必然性は存在

 伝説として残るのは、主として極めて残酷な結末をみた事件である。例えば、聖徳太子・菅原道真・平家物語・源義経・赤穂浪士・堺事件など忘れたくても忘れられない暗くて恐ろしい事件について人々はそれに愛国とか忠義、義理や人情、美談、愛憎などの様々なベールをかけて少しでも現実を中和しようとする。そこにときどきの権力者のおもわくと、お金儲けが加わって、話がとんでもない方向に進んだり、とてつもない大きな物になったり、架空の人物が大活躍するという面白可笑しい物語に変わっていくのである。
 燗鍋職人の弥助さんも、住吉で多くの寄進をしたために伝説が残り、堺では無形文化財ともいうべき、地名にその名を残した。庶民の幸せな生涯を示した、めずらしい郷土史の明るい一ページといえるのではないか。
 後日、私は、住吉区史の疑問点を質すために、もう一度現場を踏んで、現物を詳しく点検する、自称「行動する郷土史家」としての行動にでてみた。すると鳥居とか大海神社に三基もある神輿台というような大きな物は、大坂や堺の豪商が願主となり、神南辺は取次や執次として名をだしているということが判った。道標や百度石は神南辺単独の寄進である。燗鍋職人で全部もてるはずがないのである。これで一応納得のいく話になるのではないか。
 もう一つ、これも住吉区史に、慈恩寺の「車返しの桜」の道標が浪速区元町一丁目十番の法照寺の門前に現存すると書かれていたので訪ねてみた。実際は墓地の片偶に、半分うづもれて、じゃまもの扱いされていた。あそこに何年置かれていてもなんの値打ちもないであろう、というのがわたしの率直な感想である。
 こんなところに棄てておくのではなく住吉大社南の「神南辺街道」に帰してやれば、どれだけ輝くことか。独特の字体で深々と彫りこまれた立派な作品だけに余計に残念に思った次第である。

編者注】この記事をもって、「南大阪歴史住来」の項は終了です。

“南大阪歴史往来(013)” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です