◎首途八幡宮ー義経が津守にいた
今日の次郎と友子は京都市上京区知恵光院通今出川上ル桜井町にある、源義経縁の地に来ている。今から約八四〇年前、承安四年(ーー七四)三月三日未明、源九郎義経は、牛若丸時代、金売吉次の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と会い、屋敷近くにあったこの神社に奥州平泉の藤原秀衡のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願した。
「首途」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれる。
源九郎義経が生まれたのは平治元年(ーー五九)、父義朝が戦いに敗れた直後である。
次郎は語る「母常磐が平清盛の寵を受けた代償として、鞍馬山に預けられたこと、参拝に来た奥州の金商人吉次なるものに助けられ、奥州平泉において藤原秀衡に歓迎されたこと…などは史実だろう」
「天狗に武芸を習ったり、五条橋で弁慶を相手に技を見せたり…はお伽話なのね」と友子。「伝説に包まれた幼年時代の霧の中から、突如として抜け出した若者が、わずか一年半の間に、当時まだ西日本を完全に支配し、強力な海軍を持つ平家を、追い詰め追い詰め、あっという間に壇ノ浦で滅ぼしてしまったのは(ーー八五)史実である」と次郎。
青年武将義経の名は天下にとどろくわけだが、兄頼朝にしてみれば面白くない。かねてから出すぎた弟の態度を不快におもっていたのだから、平家が滅亡してしまった以上、もはや義経の力は不要。目障りなだけである。「大手柄を立てながら、鎌倉に入ることを頼朝に許されなかった義経は、空しく京に追い返されるのね。これはひどい」と友子憤慨。
その後、朝廷は平家追討の功を賞して、義経を伊予守に任じたが、頼朝は伊予に地頭を置いて義経の実権を奪ったのみならず、ついには義経討伐の為、自ら諸将を率いて鎌倉を発した。
次郎は語る「義経はひとまず、西国において兵を集めようとし、十一月三日京を離れて摂津に向かった。尼崎浦から舟に乗ったが、たまたま暴風にあい舟はちりぢりになり、義経はわづか数名と共に行方不明となった」「義経には部隊はなかったの」と友子。
「それが問題なんだ」と次郎が語る。「義経が使っていたのは全て頼朝の部隊で、義経には部隊と呼べる程の家来はいなかったんだ」
その後、義経は大和に逃れ、吉野山に隠れ、京師近辺に出没しているが、結局は再び平泉に落ち着き、秀衡に変わらぬ好遇を受けた。秀衡にしてみれば、天下の覇権をにぎった頼朝が奥州に攻めてくるのは時間の問題だ。その時に義経を味方にしておけば有利と判断したのであろう。だが、残念ながら秀衡はその後まもなく病に倒れた。父亡き後、藤原三兄弟は争い、長男泰衡は父の遺言に背いて義経を衣川の館に急襲し、義経は持彿堂に入って自害、三十一歳の悲運の生涯を閉じた。頼朝は約束を守らず奥州藤原氏を滅亡させた。
次郎は語る「しかし、肉親や功臣の全てを疑うという性格の頼朝は、実質一代で源氏の幕府は終わらせ、実権は平氏の出である北条氏にわたってしまったとは歴史の皮肉か」
突然、次郎が得意げに「最後に、友ちゃんにだけ特別に話すけど、西成区の津守町の江戸時代迄は海辺だった処に『はい上がり』という字がある。つねづね、突然に周辺とは異なる調子の字なので不審に感じてはいたが、義経が京を離れて摂津に向かう中で、乗った舟が暴風にあい命からがら、はい上がった岸が津守だということ。これは『史実』だよ」
「認知症の兄は頼朝的長男だから。義経の気持ちわかる」と次郎。「自分が選んだ老々介護の道でしょう。愚痴は聞いて上げるから」と友子。やさしいね!
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」 2016年6月、7月号収載