西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(三)
◎大正区の「新田《しんでん》づくり
「大正区の土地は、江戸《えど》時代以前から続いてきた三軒家、難波島《なにわじま》と、江戸時代以後木津川、尻無《しりなし》川の河口に開発された新田と、さらに明治、大正時代に造成《ぞうせい》された埋め立て地によって形成《けいせい》されている。この、うち新田は泉尾《いずお》、炭屋《すみや》、千鳥《ちしま》、今木《いまき》、平尾《ひらお》、中口《なかお》、上田《うえだ》が江戸時代中期に、南|恩加島《おかじま》、北恩加島、小林、岡田《おかだ》、千歳《ちとせ》が同末期に開発されている。埋め立て地は船町《ふなまち》、鶴《つる》町、福《ふく》町の全地域と南恩加島、平尾の一部で、埋め立てが完了した大正末に、ほぼ今の大正区の区域が確定《かくてい》した。
当区は江戸時代、摂津国《せっつのくに》西成郡に属《ぞく》し、幕府の直轄地《ちょっかつち》として代官《だいかん》の支配下にあったが、明治|維新《いしん》後大阪府に所属、西成郡第二区に属《ぞく》した。
明治三十年四月大阪市に編入《へんにゅう》、西区の一部となり、大正十四年四月に港区が西区から分区の際、港区から分区独立し大正区が成立《せいりつ》した。すでにあった大正橋にちなんで、区名がつけられた」(「大正区史」)
江戸時代の新田開発
上町台地の西はむかし海であったが、淀川や大和川が流れ込み、河口に次第に土砂《どしゃ》を堆積《たいせき》させ、いくつかの砂州《さす》ができ、これらがいわゆる「難波《なにわ》八十島《やそしま》」を形成《けいせい》していった。
これらの砂州のさらに沖合に、堤防《ていぼう》を築いて新田がつくられた。新田は江戸時代幕府によって大いに奨励《しょうれい》され、当初《とうしょ》は、庄屋《しょうや》を中心に村人《むらびと》が共同で開いたが、江戸時代中期以後は、町人《ちょうにん》勢力《せいりょく》の台頭《たいとう》とともに、町人が幕府から請《う》け負《お》い独力《どくりょく》で開いた「町人請負新田」が多い。
各町名に新田請負人の名が残る
「大正区の町名は、ほぼ新田の名称《めいしょう》を継承《けいしょう》したものと、埋め立て地に新しくつけたものの二通りである。
三軒家(旧三軒家村)
三軒家はもと木津川尻の小島で、姫島《ひめしま》または丸《まる》島といわれていたが、慶長《けいちょう》十五年(一六一〇)に木津村の中村勘助が開発したので、勘助村と呼ばれるようになった。この地が三軒家と称されるようになったのは、勘助の開発当時、三軒の民家が建てられたからといわれている。
泉尾(泉尾新田)
元禄十一年(一六九八)和泉国《いずみのくに》大鳥郡《おおしまぐん》踞尾《つくのお》村(現堺市)の北村六右衛門が開墾《かいこん》し、当初三軒家浦新田といわれていたが、最初の検地が行われた元禄十五年(一七〇二)泉尾新田と改称《かいしょう》した。開発者の国名(和泉)と村名(踞尾)から一字づつ採り命名した。
北村(泉尾新田)
泉尾新田の開発者である北村六右衛門の苗字から命名した。
千島(千島新田)
開拓者の岡島嘉平次《おかじまかへいじ》が自分の居住村名(千林《せんばやし》村・現|旭《あさひ》区)の千と姓《せい》の岡島の島をつなぎ合わせて、千島新田と命名した。
小林(小林新田・岡田新田)
小林新田、岡田新田の名はともに開発者である、東成郡千林村の岡村嘉平次に係わるものであり、小林は千林から、岡田は岡島から採ったものである。岡田新田の方が広い面積を有したにもかかわらず「小林」を町名としたのは、小林新田にしか住民がいなかったことによる。
平尾(平尾新田)
大阪江戸堀の平尾|与左衛門《よざえもん》が開拓。与左衛門の姓をとり平尾新田と名付けた。
南・北恩加島
(南恩加島新田)
南恩加島新田は文政《ぶんせい》十二年(一八二九)二・三代岡島嘉平次によって開墾された。ときの代官岸本武太夫はその功績《こうせき》をたたえ、恩加島新田と称させた。岡島を恩加島と換用《かんよう》したのであるが、恩加島には後世《こうせい》に恩を加えるという意味があったという。
このあと明治四年まで数回にわたり増墾《ぞうこん》され、後に二分して南恩加島、北恩加島となった。
ちなみに初代嘉平次が宝暦《ほうれき》七年(一七五七)江戸|表《おもて》に出て幕府に直訴《じきそ》し許可されたときに納めた、木津川から尻無川までの開拓地百二十三町歩余の地代銀は四千三百五|両《りょう》であった。
鶴町・船町・福島
大正八年三月埋め立て地に町名が設定
され、鶴町、船町、福町が誕生《たんじょう》したが、町名決定の由来《ゆらい》は、万葉集《まんようしゅう》巻《かん》六の田辺福麻呂《たなべふくまろ》がよんだ「潮干《しおほす》ればあしべにさわぐあし鶴の妻《つま》よぶ声は宮《みや》もとどろに』の鶴と、おなじく「あり通う難波の宮は海近みあまおとめらが乗れる船見ゆ』の船と、詠者《えいしゃ》の福をとったものである」(「みんなのまち大正」)
現代の埋め立ては
大変な「借加《しゃっか》島」に
恩加島が後世の人に恩を感じてもらえるものになったかど、つかは別として、いま、大阪府や大阪市がすすめている大阪|湾《わん》を埋めつくすような巨大開発事業は、関空《かんくう》、りんくうタウン・夢州《ゆめしま》・舞州《まいしま》などいずれも後世の人に莫大な借金を残して、耐《た》えがたいまでの税負担《ぜいふたん》と住民サービスの低下《ていか》をまねくことは間違《まちが》いない。
大変《たいへん》な「借加島」をこれ以上増やさないためにも、住民本位の当たり前の府市政の確立がいそがれる。
“今昔木津川物語(025)” への1件の返信