◎天下茶屋の仇討
「この地で慶長十四年備前の人林源次郎が父・兄の怨敵当麻三郎衛門を討ち本意を遂げたことは、後世天下茶屋の仇討として人口に膾炙されたものである。源次郎の父玄蕃は城主宇喜多秀家に主家の安危を諌めたが、奸臣長船紀伊守の忌むところとなり、長船は当麻三郎衛門をして夜ひそかに玄番の帰途を要して殺害せしめた。長船の悪計は露れて切腹を命ぜられたが、三郎衛門は出奔した。玄番に重三郎・源次郎のニ子あり、父の仇を報ぜんがため、母と下僕二人をつれて仇を求めて国を出たが、母は病んで没し、兄もまた下僕の裏切りから三郎衛門のために殺害された。源次郎は嘗て母の情けにより助命せられたもと同藩の士で、伏見の人形師幸右衛門に頼った。幸右衛門はひそかに木村重成に訴えた。重成これを憐れみ、たまたま淀君の住吉神社参拝の挙あり、大野治長これに従い、その臣となっていた三郎衛門もこれに倍していたので、その知らせを受けた源次郎は幸右衛門とともにその帰路を要して天下茶屋の地に父・兄の仇を報じたものであると伝えられている」(西成区政誌)
武士の「美徳」
かたち討ち、あだ討ちとも呼ぶが、江戸時代は忠孝の精神にもとづく慣習として手続きをふめば公認された。儒教の影響で、武士の道徳的義務にもなっていた。江戸時代だけでも件数は百件以上に達したといわれているが、実際にははるかに多かったと思われる。
天下茶屋の仇討ちは、関ヶ原の合戦で西軍が敗北して、豊臣家は二百万石から六十五万石に転落し、一方徳川家康は朝廷から征夷大将軍を贈られ、江戸に幕府を開いて六年目に起こっている。木村重成と大野治長は共に慶長一九年の大阪冬の陣慶長二十年の夏の陣でも一貫して豊臣方の総大将となり、淀君・秀頼と運命を同じくした最も忠実な西国大名である。
豊臣家の復権に
天下茶屋の仇討ちのあった時は、豊臣家は転落はしたものの、関ヶ原の合戦はいちおう豊臣家は無関係ということで逃げられたとしており、お家再興に幻想をまだもっていたころであった。木村重成と大野治長はこの仇討ちを最大限に利用して、豊臣秀吉ゆかりの殿下茶屋-天下茶屋の名を一世に風靡させると同時に、仇討ちに実質的に助太刀した豊臣グループのイメージアップを計ろうとしたことは、十分考えられることだと思う。事実天下茶屋の名は仇討ち事件によ って一層有名になったといわれている。
仇役が立派な墓に
ところが意外なことに、今日現場に残されているのは悪人・当麻三郎右衛門の墓だと伝えられる立派な宝塔なのである。場所は天神の森天満宮の境内だが、説明によれば、昭和三十三年まで南へ五 十米の住吉街道沿い「くやし橋」のたも とに建てられていたのが、道路拡張のた め移転したとのこと。「くやし」というのも、当麻三郎右衛門が思わず叫んだ言葉から由来しているとのことだ。
しかも不思議なことに、「墓」の建立されたのは文政十二(一八二八)と文政十三年のことであり、事件からは実に二二〇年後なのである。
庶民こそ被害者
結局徳川幕府としては、天下茶屋の仇 討ちが豊臣グループによって演出されたことが、気にいらないということなのだろう。仇討ちは美徳なり、が徳川幕府の 方針だとすれば矛盾は余計に大きくなってくる。
徳川側による豊臣の残党にたいする追討は、徹底して冷酷なものだった。豊臣びいきは大阪に多く残った。弱いものに 味方する判官びいきの感情は、庶民に共通するものである。しかし、織田・豊臣・ 徳川という三人の独裁者によって命を奪われた、無数の名もなき人々にこそ、哀悼の意が表されるべきではないか。
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