◎住吉行宮正印殿(墨江二ノ七)
軍服姿で馬に乗った明治天皇の姿を見て、女官たちは嘆いたという話が残っている。勇ましく荒々しい天子というのは、朝廷の歴史では不吉な記憶につながるからである。
忠臣顕家・正成も犠牲者
多くの犠牲を払ってつくられた「建武の中興」なるものが鎌倉時代よりも重い年貢、課役、税金で農民を苦しめ、ー方天皇とその寵児たちは、富貴を誇り、贅沢な暮らしをし酒宴、蹴鞠、歌舞遊山にあけくれていることを、厳しく指摘し諫言した北畠顕家は堺の南石津で戦死した。
同じ頃、楠木正成も、民衆の苦しみを省みず大内裏造営を強行したり、愛妃阿野廉子の云うことばかりをきいて政治の公平性を損なうことをやめよと諫言し、足利尊氏と和睦し以前のように公武一統の政治を行なえば平和になると献策を行なっているが、後醍醐天皇に一笑にふされ、敗北必至の戦いに追いやられ戦死している。
後醍醐の目指したのは「天皇こそ最高にして唯一の権力者である」という構図による日本国家の改造にあったのだが、北畠顕家や楠木正成という「大忠臣」にさえ、それが認められていなかったという点に、私たちはもっと注目すべきではないだろうか。
後醍醐の横暴で全て失う
まさに後醍醐の一生は、多数の女子に数十人の子供を生ませ、珍玉、王位に妄執したものであり、臨終に立合った忠雲僧正から「天子の位などはあの世に持っていけませんよ」とさとされても、尚「決してあきらめるな、戦って京都を回復せよ。さもなければわしの子ではない」と言い残した。この遣言により、その後南朝は「死ぬまで」戦うことになり、後醍醐の死後も半世紀にわたり戦争が続き国土は荒廃し、民衆は塗炭の苦しみをなめるのである。
南北朝内乱の末、今までまがりなりにもあった天皇の統治諸権能は根こそぎ幕府に奪われ、足利幕府は南朝を解消して、北朝の天皇を唯一のものとし、これを自己の王権の一環にとりこんだ。それは後の秀吉・家康に継承されていく。
住吉大社津守氏は南朝支持
さて、後醍醐の子で南朝の後継者であった後村上天皇が行宮ときめ約九年間にわたり滞在していたところが、住吉大社の南の地にあり今、住吉行宮正印殿として国の史跡に指定されている。
南朝方の中心人物楠木正成・正行、北畠親房,顕家父子はすでになく、足利尊氏も没し、義詮が替わって南朝方と戦っていた。しかし、足利方も内紛が続き諸将も戦意を失いつつあった。このような時期、河内長野の観心寺にあった後村上天皇は、住吉を行宮ときめ滞在した。正平十五年(一三六〇)九月である。
正印殿は住吉大社の神主である津守氏の邸内に創建したもので、壮麗な建物で南面の庭園には和歌浦から大小の名石を入れ、典雅であったという。
にわかづくりの十五神社
明治天皇は、後醍醐天皇以来実に五三三年ぶりに王政復古がとげられたとして、南朝に貢献した人物十五人を神として祭り上げることを行なった。後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮をはじめ楠木正成を祭る湊川神社(兵庫県)・北畠親房、顕家を祭る阿部野神社(大阪府)・楠木正行を祭る四条啜神社(大阪府)などである。
平成四年にこれらの神社により、「建武中興十五社会」が結成され「建武中興の偉業を偲び、その意義を改めて想い起こすと共に、これの宣揚を図るため、祭典及び事業を行なう」と気になる宣言をしていたが、最近、自画自賛の小冊子を参拝者に配り始めている。
憲法・教育基本法改悪の動きに便乗してのことであろうが、歴史から学んで十分な警戒が必要だと思う。
最後に、先日新しくなった「大阪春秋」平成十七年新年号を読んでいると、びっくりするような記事に出会った
枚方の「伝王仁墓」に疑い
それは私も十数年前に、夏休みの家族旅行の際、もっともらしい顔をして妻子に説明したこともある、枚方市にある「伝王仁墓」に関してである。
「『王仁』とはいわゆる漢字を日本にもたらしたとされる人物で、枚方市は毎年『漢字まつり』をひらくなど、地元市民との連携のもと、官民一体で観光拠点にすべく力を入れており、それに伴い遠く韓国からも多くの観光客が訪れ、日韓交流の場となっている」とのこと。
ところがこの「伝王仁墓」は「枚方市史」別冊によると、地元で「おに墓」と呼ばれていたものを、享保十六年(一七三一)京都の儒学者並川誠所が、おには王仁の訛りであると単純に決め付け、それを信じた領主が傍らに石碑を建立したものだという。
領主をたぶらかした並川の「王仁墓」説を、すでに幕末の段階で、当地の文化人グル-プの三浦蘭阪が論破していた。蘭阪は並川の説を疑い、古い書物や領主・村方の古文書、はたまた村に残る伝承に至まで徹底的に調査を行なったが、関係書類は一切見付からなかつたという。蘭阪はそのことを著書「雄花冊子」に記している。
私がおどろいたのは大阪府が詳細な調査もなく「伝王仁墓」を昭和十三年(ー九三八)に史跡指定し、戦後も指摘解除されることもなく、現在に至っている点だけではない。
阿倍野神社も並川発言が
実は阿部野神社も、現在の阿倍野区北畠公園にかつて大名塚という塚があり、享保十八年(一七三三)に儒学者並川誠所が突然「これは阿倍野で戦死した北畠顕家の墓だ」といいだし、墓標をたてさせたものである。そしてそれを根拠に明治になり阿部野神社が建立された。
しかし顕家は大名ではなかったし、戦死したのも堺石津であることは今では歴史の常識である。
ひよっとしたら並川は、王仁や顕家の墓だけではなく、もっとあちこちで「ニセ墓」づくりをしているのではないか、という疑惑も生まれてくる。やはり郷土史の見直しは必要なことである。
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