今昔西成百景(011)

◎出城通り

 出城通りという地名は、天正年間、本願寺の一向一揆の門徒が織田信長と戦ったとき、木津川口の防衛のために城を築いたのが由来であるという。

権力とたたかった一向一揆

 天正四年(一五七六年)五月七日、信長は出城通りの戦いで、足に鉄砲を受け、天王寺にかけ入っている。もし、本願寺の門徒の射撃がもう少し正確であれば、出城通りで日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 大阪では東西の道路を「〇〇通り」とよび、南北の道路を「〇〇筋」とよぶ、ということは、四十年前に、関目の自動車教習所の教官より聞いた。この教皆所では同時に、警察官である試験官に賄賂を贈らなければ合格をしないことも公然と教えられ、一人反発して退所した思い出がある。
 出城通、長橋通、鶴見橋北通、鶴見橋通、旭北通、旭南通、梅通、梅南通、松通、橘通、桜通、柳通、潮路通、新開通、千本通、田端通、玉出新町通、玉出本通、姫松通、などが西成にあるが、地名の由来からして出城通りが、相当古いのではないかと思う。
 柳通りから浪速区までの北半分は、大正時代にはすでに碁盤の目のように区画整理がされていて、地名も梅、松、桜と華やかで、まるで「小京都」だという人もあれば、その辺に花札の「いの、しか、ちょう」がひそんでいないかと茶化す人もいる。

木津城を築いて織田勢を撃退する

 次に願泉寺(浪速区大国二)に伝わる古文書より、出城砦に関する部分を紹介しておく。
 「信長の本願寺と出入りの節は敵勢を紀州鷺の森の御堂へ推寄せ申さぬ様木津総門葉老若男女は各我家を棄てて西の海の浜に四方八町の埒を結び門戸厳しく小屋建て籠居す高櫓の石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き取りて石垣とす昼は男子は田畑に出でて耕作す其時は刀或は槍を以て用心をす夜は女子番を勤む月の夜は竹の末を切りとぎりて水にひたし立て掛けて城内を守るに月の光に映じて槍と見ゆ夜戦にて其竹にて寄手のもの多数を殺す其他陥穴を以て数百名を殺す寄手は天王寺茶臼山に陣を取り出でて戦ふなりある夜葱び者木津城に入り来る其時大将定龍之を知りて夜半の鐘を明け七つ寅刻に撞きしにより忍びのものとく帰るこの鐘持ち帰りたるに寛永年中火災の早鐘によりて破れ損ず件の城今は畑となれり宇して出城という」
 その後、この辺りより墓石が掘り出されることがあると、木津川城を築いたとき、飛田墓地より運び来て石垣に利用したものではないか、と云われてきていたと伝えられている。

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