西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(四)
◎大海《だいかい》神社 (住吉二)
生根神社の正面鳥居を南へ行けば、熊野街道と紀州街道を結ぶために、大正期に元の材木川を埋め立ててつくられた住吉|《しんみち》新道に出る。横切れば、目の前が大海神社の北の門。道路から高い分だけ数段登ると、そこはすでに平安《へいあん》の昔にかえっている。
浦島《うらしま》太郎のモデル
大海神社の祭神は海幸《うみさち》・山幸《やまさち》の神話《しんわ》で知られる豊玉彦命《とよたまひこのみこと》と豊玉姫命《とよたまひめのみこと》の親子で、私の小学生のときには教科書《きょうかしょ》に挿《さ》し絵《え》つきでのってあった。
兄の海幸彦が大切にしていた釣針《つりばり》を失ってしまった弟の山書は、海底《かいてい》にさがしに行き豊玉姫の協力を受ける。兄弟の争《あらそ》いはその後も激しくなり、山幸が危《あや》うくなったときに豊玉姫が持参の「潮満珠《しおみちのたま》」で海潮《かいちょう》を呼び寄せ難《なん》を逃《のが》れる。
その珠《たま》を沈《しず》めたところということでこの辺りを玉出島《たまでしま》とよび、住吉でも古来《こらい》より最《もっと》も早くひらけたところといわれている。仁治《にんじ》二年(ーニ四二)にこの玉出島出身の勝間大連《こつまおおむらじ》が勝間村(こつまむら・現西成区玉出)を開発した。
大海神社の本殿は住吉大社の本殿と同型同大《どうけいどうだい》の住吉造りで、重要文化財に指定されている。もともとは住吉大社の神主|津守氏《つもりし》の氏神《うじがみ》で、かって境内は藤《ふじ》と萩《はぎ》の名所であった。永年の間住吉大社の陰《かげ》にかくれていたので、浮世離《うきよばな》れしたおもむきを残している。人手があまり入らず樹木《じゅもく》がうっそうとしているのも都会ではめずらしい。
海幸・山幸の神話はお伽話《とぎばなし》「浦島太郎」のひとつだといわれており、かって近くに「玉手箱《たまてばこ》」という地名があったというのもおもしろい。
まぼろしのご本尊は天下茶屋へ
ここで特に記しておきたいことは、生根神社から大海神社までの間にかって三千佛堂という寺院があり、秘佛《ひぶつ》阿弥陀如来《あみだにょらい》が安置《あんち》されていたが、明治初年の廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》で廃寺《はいじ》となった。本尊は天下茶屋の安養《あんよう》寺に移転されたが、空襲《くうしゅう》で焼失《しょうしつ》してしまったという、いまでは世間からほとんど忘れさられているひとつの事実である。
大海神社を南に出ると通称「桜畠《さくらばたけ》」といわれる広場があり、終戦直後には毎年の様に盛大な盆踊りがやられ、私もよく見物に出かけた。
仮装《かそう》して踊る人もあり、敗戦の悲惨《ひさん》さと終戦の喜びとが交《ま》ざりあった複雑な雰囲気《ふんいき》のなかで、踊りの輪《わ》が幾重《いくえ》にもふくらんでいった光景《こうけい》を今でも、夢のなかの一場面のようにおぼえている。
実はこの「桜畠」にも明治までは、住吉神宮寺という天平宝字《てんぴょうほうじ》二年(七五八)に創建された豪壮《ごうそう》な寺院が存在していたのである。
本尊には薬師如来《やくしにょらい》が祀られ「新羅寺」ともいわれ、「古今著聞集《こんせきちょぶんしゅう》」にも名が見える格の高い寺でもあり、一休禅師《いっきゅうぜんじ》も応仁《おうじん》の乱《らん》を避《さ》け住吉に八年間居住した頃によく参籠《さんろう》したという。
廃佛毀釈《はいぶつきしゃく》は住吉大社にも
この寺も明治の廃佛毀釈で堂宇は《どうう》破壊《はかい》され廃寺となってしまった。「桜畠」の東側の森の中にある住吉大社の末社《まっしゃ》のひとつである招魂社《しょうこんしゃ》が元神宮寺の唯一《ゆいいつ》の遺物《いぶつ》で「旧護摩堂《きゅうごまどう》」であったという。その廂《ひさし》に葵《あおい》の紋《もん》が刻《きざ》まれているのが、神宮寺が天台宗《てんだいしゅう》東叡山《とうえいざん》に属していたことを物語っているといわれている。
ちなみに廃佛毀釈とは明治の新政府が、江戸時代における仏教中心の宗教政策をやめ、神道《しんどう》中心主義を採用《》さいよう、これにより政府《せいふ》の権威《けんい》を高めようとしたもの。神仏混淆《しんぶつこんこう》を排し神社からの仏教的|要素《ようそ》の一掃《いっそう》をはかるため、日吉《ひえ》神社、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》をはじめ各地で仏堂や仏像・仏具・仏画の破壊をほしいままにして多くの文化財を抹殺するという歴史に残る暴挙《ぼうきょ》を行ったのであったが、住吉大社でも例外《れいがい》ではなかったというわけである。
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