◎西成・住吉歴史の街道シリ—ズ(一)
診療所から南方面へ街道を望む
診療所から北方面へ街道を望む
勝間街道
上町台地の西端を熊野三山めざして南北に伸びる熊野街道は、「蟻の熊野詣」といわれるほど庶民もよく歩いたとされているが、やはり王朝貴族らの華やかでぜいたくな道中が頭に浮かぶ。そしてタ日に映えて茜色あかねいろにすっぼりと染まった行列は、腐敗と陰謀の匂を残して夢ゆめの中の出来事のように、ゆらりゆらりと無言むごんで進んで行くのである。
上町台地の裾すそに熊野街道に並行へいこうして足利あしかが時代にできた紀州街道は、商人が交易こうえきのために利用したり住吉詣の道であると同時に、秀吉が堺政所さかいまんどころへ往来したり、紀州徳川家の参勤交代に使われた政治と経済の幹線かんせん道路であった。
江戸末期に住吉大社神主かんぬしの津守氏つもりしへ紀州徳川家の姫君が嫁とついできたときの盛大せいだいな行列や、堺事件で土佐藩士とさはんしが切腹せっぷくのため送られていった話なども伝えられている。
紀州街道にはいつも朝日がさしていた。
庶民の生活道路せいかつどうろ、歴史は古い
紀州街道から東へ熊野街道へ行くほぼ同じ距離きょりを西にとれば、勝間街道と出会であう。難波なんばを起点きてんとし南へ木津きづ・今宮いまみや・勝間・粉浜こはまの各村かくむらを経由けいゆして住吉大社の手前てまえで紀州街道と合流ごうりゅうする勝間街道は、農民や職人しょくにん・行商人ぎょうしょうにんの行き交う、真昼まひるの太陽が照りつける庶民の汗がしみついた生活の道路であった。
西成区史によれば勝間街道は江戸時代の初めに出現したというが、それはおかしい。例えば勝間村をとってみても、その開発かいはつは隣となりの粉浜村よりは少しおくれているが鎌倉時代とみられ、吉川英治著「私本太平記しほんたいへいき」にも南北朝時代に「木妻こつま百軒」とよばれるところに、具足師ぐそくしの武具工場ぶぐこうじょうとその下請仕事したうけしごとをやる者が数多く住んでいた、となっている。
天正時代に織田信長と本願寺の一向ー揆の門徒もんとが有名な石山合戦というのを行ったが、門徒は木津の願泉がんせん寺・出城でしろ・勝間と三つの砦とりでを構え戦たたかった。そのときすでに勝間には光福こうふく寺・誓源せいがん寺・善照ぜんしょう寺・長源ちょうげん寺という浄土真宗じょうどしんしゅうの四つの寺があったという。街道もなしにこんな活動がやれるはずがない。
幕末には「勝間千軒」とよばれるほどになっていた勝間村は、この村の綿わたで木綿を生産し「勝間木綿こつまもめん」として全国に出荷しゅっかし、関西の木綿相場もめんそうばを支配したときもあったという。畑地はたぢ八はちか村の中では「勝間なんきん」が有名になるなどにくわえて、諸国を行商ぎょうしょうする「勝間商人こつまあきんど」が活躍かつやくし、その経済力けいざいりょくで生根いくね神社の台だいがくを十四台も支ささええてきたのであろう。しかし大正四年の町制移行ちょうせいいこうのときに「勝間商人」はすばしっこいとの評判ひょうばんを嫌きらって「玉出町たまでちょう」にしたとの話も残っている。尚、玉出町の中心部分、元勝間千軒のほとんどがー九四五年三月十三・十四日の空襲くうしゅうで灰塵かいじん(ルビ訂正済み)に帰したことを付言ふげんしておく。
ル—卜に諸説しょせつあり
いま市販しはんの西成区の地図ちずをひらいてみても、勝間街道については国道二十六号線に沿って南下し、住吉区に入ったところで紀州街道と合流し終わってしまうようにしか書かれていない。これでは勝間村のはるかかなたを街道が通っていたことになり、粉浜村もすこしかすめているだけで「勝間・粉浜を経て紀州街道に合流」とする古文書こもんじょや、「勝間村中央を北へ今宮村に至る」という西成郡史ぐんしにも反はんすることになるのである。
地元の古老ころうは勝間街道は岸里きしのさと小学校の辺あたりから東へ曲がり南下なんかし、勝間村を経て西粉浜に入り東粉浜へと向かったという。
目的地への最短距離さいたんきょりを走る新幹線しんかんせん的街道ではなく、あくまでも各駅停車かくえきていしゃの生活道路だったのだということを行政ぎょうせいにも理解りかいさせ、勝間街道の再評価さいひょうか》をさせなければならない。
私は勝間街道は一旦いったん勝間村に入り、その後は粉浜村の真まん中を通って南海なんかい粉浜駅前から阪堺線はんかいせんの走る紀州街道と合流するもそこに止とどまらなかったと思う。ひきつづき旧道を閻魔地蔵堂えんまじぞうどうから奥おくの天神てんじん(生根神社)を経て大海神社たいかいじんじゃ、そして住吉神宮寺跡を横切よこぎって住吉大社に東側からお参りするという、地元の人たちが長年やってきた住吉詣の道こそが、本来の勝間街道だという説を支持したい。何となれば、街道には行き先の名前が付けられていてこそわかるのであり、熊野街道・紀州街道しかりである。勝間街道は決して勝間村だけの道路ではない、とすれば一体どういうことになるのかということであるが、実は終点の奥の天神や大海神社辺りの昔の地名が古妻・古間・木積などとよばれていたということである。玉出島とも言われていたという。西成区の勝間村、今の玉出は玉出島の里長さとおさが来て仁治にんじ年間(一ニ四〇)開拓したからという説がある。
勝間街道を歴史街道として残せ
いずれにしても今日、熊野街道は各所に立派な石碑せきひが建ち、大阪市のマンホールの蓋ふたにまで古地図こちずが刻み込まれて案内あんないされている。紀州街道も歴史の道として様々な標識ひょうしきが出され、だんじりの岸和田市などでは町並み保存までして大切に扱かわれている。
ひとり勝間街道のみ沿道にはただー枚の標識板もなく、このままでは歴史から抹殺まっさつされることはまさに時間の問題となっている。
勝間街道が無視されていくということは、この地域での庶民しょみんの歴史もないがしろにされることにつながり、結局は権力けんりょく者の行列だけが街道の記録きろくに残されていくということになるのではないだろうか。勝間街道ガンバレとみんなではげまそうではないか。
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編集者注】「勝間こつま街道は、西成民主診療所の正面を南北に伸びています。写真中央、右側は、現在の道路です。がもう健さんの言われるとおり、江戸時代にできたという街道には、道標もなく、人々が行き交い、日々の営みを送った昔を偲ぶよすがもありませんが、「郷土史」から見えてくるものがあり、感慨深いものがあります。診療所付属のデイケアには「こつま」と名称を付けました。(現在は休止中)介護施設再開の暁には、ふたたび「こつま」となづける予定です。
注記2】ルビ(ふりがな)の表記は、ruby タグを、太字部分は、b タグを、大きいフォントでは、font タグを用いています。