西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(四)
◎渡船と私
大正区での渡船の歴史は江戸時代までさかのぼる。西成郡史によれば明治時代のはじめには、木津川筋には三軒家村の西側町渡、三軒家上ノ渡、三軒家渡、材木置場町の筋違渡、中口新田の中口渡、炭屋新田の落合下ノ渡、宮の前渡。尻無川筋には甚兵衛渡。昭和七年の渡船場見取図によれば木津川筋に千本松渡と五番渡が、尻無川筋に中ノ渡と福崎渡が加わっている。
昔は民営、世襲・有料
もともと渡船は、民営、有料で世襲の家業とされていた。
大阪府は明治二十四年、渡船業営業規則を定め、営業時間や料金の統一をはかった。同四十年に安治川・木津川・尻無川及び淀川筋の市内二十八渡船は危険防止のため大阪市営となった。
大正九年旧道路法の施行により渡が道路の付属物として、有料を廃止して無料とした。
さらに昭和七年請負制から直営方式に切り替えられたが、その当時市内の渡船三十二カ所、一日の利用者四万人、牛馬百七十頭、自転車ー万七千台、乳母車百二十台、人力車十九台、 荷車八百台との記録が残っている。この頃、船頭が組合を結成し、待遇改善を市に要求している。
その後戦時下での利用状況の激変や道路・橋梁の整備により減少し、現在では市建設局管理七ヵ所、市港湾局管理一ヵ所の合計八渡船になっている。大正区にはその内七カ所あり、あとの一ヵ所は港区の天保山渡である。
木津川と三軒屋川の落合
落合上ノ渡と下ノ渡は共にながい歴史をもっているが、私は乗船するたびになぜか、与謝蕪村の「やぶ入りや浪花を出て長柄川」「春風や堤長うて家遠し」の句がうかんでくるのである。高校を卒業してすぐに、店員見習いのような仕事で、毎日重い自転車を走らせていた体験からかもしれない。
今はその道も大変な「ダンプ銀座」に変わり、平日は危なくて歩けない状態である。
名勝千本松の名を残す
千本松渡船に乗れば、何か小林多喜二の小説「工場細胞」や「オルグ」の主人公になったような気になって、身構えてしまうから不思議である。私自身が三十才代は、日本共産党の専従活動家となり当時西成区南津守にあった木津川地区委員会の事務所から、大正区の工場にオル
グに出かけるのに、よくこの渡船を利用したからであろう。
かってはカ—フェリ—が
木津川渡船にはめったに行ったことがない。地下鉄北加賀屋駅から西へ二十分ほど歩いたところにあるが、注意が必要なのは、休日には一時間に一回位しか運行しないことである。他の渡船は平日・休日を問わず十五分毎に動くのに、そのつもりでいれば予定がずれてしまう。しかしそれだけに生活のにおいは薄く、時間つぶしにぼんやりと、幅広い木津川の河口と海の入り交じるようすを眺めていると、磯のかおりもただよってくる。対岸の工場群や倉庫の列も静まりかえっている。小野十三郎の詩に、ここ柴谷町をよんだのがいくつかあった。私が小野十三郎の「詩の教室」に通っていたのは二十才前後のこと。詩人というのをはじめてみてあこがれたものだった。
木津川渡が現在、唯一の市港湾局管理の渡船だが、かってはカーフェリーが就航にあたり、乗客と共にトラツクや乗用車も乗せていたという。
スリルとサスペンス
千歳渡がある尻無川の河口と大正内港のぶつかるところは、ほとんど大阪港である。そこを約四百メートルにわたり小さな渡船が横断するのだから、風の強い日などは相当にスリルがある。大阪平野をとりまく山々もはるかに見えるし、大きな貨物船が目の前を通り過ぎると、その後をカモメの群が追っていく。
頭上はるかに、高速道路の工事中の橋ケタが顔をのぞかせている。
南港側には、いま大阪市がかかえこんでいる巨大な赤字ビルが、突っ立っている。その横に港区の大観覧車がカラフルな姿を見せているが、何か蜃気楼のようにも映る。
子供の帽子が風で吹き飛ばされて、それからなにか大事件が起こりそうな雰囲気がする、不思議な空間。
森村誠一の「政・官・財癒着」の小説の舞台になりそうな渡船。などと勝手に空想していると船は早くも鶴町側に着いた。
歩いて約五時問、自転車で約三時間の「渡船と私の一人旅」、あなたもやってみませんか。

