今昔木津川物語(055)

◎万代池 (住吉区万代三)

 熊野街道沿いに南へ、阪堺電車上町線の帝塚山三丁目駅から帝塚山四丁目駅へ行くほぼ中間の東側に、万代池がある。
 今は人家が立て込んで、街道より少し東へ入ったところになっているため、見逃してしまうかもしれないから、注意が必要だ。
 しかし、発見するや初めての人なら、思わず目を見張って「ほお一」とか「あれ一」と声を上げてしまうだろう。市内ではめずらしい、周囲約七百蓊の巨大な楕円形の池で、真ん中に小島もある、堂々たる風格の代物だ。

感動のない人いらっしやい

 最近物事にあまり感動しなくなっている人は、ぜひとも訪れてみたらよい。後悔はしないと思う。
 池の畔に等間隔で植えられた染井吉野の桜の樹が、四月の初めに一斉に開花して、やがて満開となり、春の風に花吹雪となり、歩道にピンクのじゅうたんをつくる。鏡のような池の面はその情景を忠実に逆さまに映している。市街地の中の花見では、私は文句なしにここが「日本一」だと確信する。

桜の花には何の罪もないが

 しかし、万代池も池面に映る永い歴史を、さまざまな思いでみてきたのではないだろうか。池の北側の広場には、大きな「忠魂碑」がいまもある。戦中、多くの若者が、いや最後には父親までもが、この池を家族や親戚、友人たちとゆっくりと一回りして、万感の思いを胸に、あの侵略戦争に出征軍人としてかりだされていった。「桜の花のようにいさぎよく死んでこい」といわれ、かれらが 最後に仰いだ万代池の桜。池の北側に十年程前まであった、府立女子大の先輩たちもよく小旗を手に、出征の列を見送ったと聞く。

敗戦で花よりダンゴの時代

 戦後、池の柵は薪として持ち去られ、桜の花も忘れて人々は、池の魚に群がつた。どじょうの化け物のような大物を釣って、みんなで食べるといっていた人は果たして無事だったのか。
 しばらくして、池に貸しボートが登場した。地元の新制中学の生徒が、男女でボートに乗っていたことが大問題になり、友人たちは退学処分反対の対策を考えていたが、「厳重注意」だけで終わったということもあった。当時、流行歌では「湯の町エレジー」が大ヒットしていた。
 日本の経済成長にしたがって、花見もしだいに豪華になり、カラオケのセットも業者が出張してやるようになり、池面に歌声が響き渡ったりした。
 そして今は、大型開発による税金の無駄遣いで財政赤字の府は、女子大跡地をマンション用地に売り払うため、後に入っていた府立貿易専門学校を廃校にしようとしている。

古代は古墳か崖の割れ目か

 古代この池には大小の古墳がひしめきあっていた。今でも近くに帝塚山古墳が市内で唯一、前方後円墳の形のまま残っている位だ。
 万代池も古墳で中の小島が古墳で、池が周壕だという話もあり、小島が貧弱なのは長年の間に波に浸食されたというのだろうか。
 他に、上町台地の割れ目を塞いで池にしたという説もある。

曼陀羅経で退散させた魔物

 伝説として、この池には不思議な魔物が住んでいて往来の人々を苦しめるというので、聖徳太子がこの池で曼陀羅経をあげて魔物を退散させた。万代池の名前の由来はそれからきているということである。池の中央に今も、古池龍王が祀られているところをみると、魔物とはやはり龍であったのか。
 万代池の「まんだ」は奈良時代の「地名は好字二字にせよ」との勅令によるものと思うが、万代はその時の当て字だと思う。もともと「まんだ」とは古地名にありアイヌ語ではないか。一体、アイヌ語で「まんだ」とは何なのか。それがわかれば、魔物の正体も判明するかも知れない。

今昔木津川物語(054)

◎宝山寺・十三仏(住吉区住吉一ー 五)

 平安・鎌倉時代に盛んであった「蟻の熊野詣」の熊野街道も、今では路面電車や自動車の行き交う基幹道路となり、その面影は阿倍野区では阿倍清明神社や阿倍野王子神社辺りに少し残るだけである。
 しかも、住吉区に入れば帝塚山周辺はマンションがでこぼこに建ち並び、かつてのお屋敷町としての趣は無く、わずかにチンチン電車だけがすこしレトロな気分にさせてくれる位だ。

「神ノ木」から史跡ゾ—ン

 上町線の帝塚山四丁目駅から、たった一両の電車が左右に力—ブしながら、こころもとなげに坂を登り、次の「神ノ木」駅へと姿を消していくと、後には街道だけが残った。

 熊野街道はこの辺りから線路とは逆に少し下り坂となり、ー柄何の変哲もない道路を南下する。しかし、南海電車高野線の踏切を越えて左に曲がり少し行きだすと、沿道の雰囲気は段々に変わってくる。それもそのはず、この辺りは江戸時代から、足利、南北朝、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、古墳、そして神代の時代に至るまでの史跡が、大和川までの約半里(二キロ㍍) の熊野街道を中心にして「密集」しているのである。

誰でも「懐かしく思う町」

 郷土史愛好家がもしこの地に足を踏み入れたなら、「なぜ」「なぜ」の言葉を連発し、しばしぽうぜんとするにちがいない。なんとなれば、これだけ「一級品」の神社、仏閣、文化財、史跡が戦前の姿のまま現存して、しかもそれらの多くが今も活発に、何百年来の活動を続けている。また、それぞれが、おそらくは経済的には悪戦苦闘しながら、拝観料等は一 切取らず、万人に独自の景観を提供し、森や大樹を保護育成し、環境にも永年に わたり貢献してきている姿を見るからである。
 しかも、周辺の酒屋、米屋、味噌屋等の商店が、江戸時代のままの店舗を残してくれていることにも感激させられる。 しかもそれぞれが盛業中である。
 実は、これらの家には、かつて絶世の美少女がいたし、スポーツ万能のすこしはにかみやの好少年がいた。共に私の、 終戦直後の新制中学二期生の懐かしい同級生である。

いつか「大阪南部百景」を

 上町台地の北側には大阪城があるが、その以前は石山本願寺であり数多くの神社・仏閣がそれを取り巻いていた。今ある「寺町」は徳川幕府の戦略として、その後強制的に集められたものである。台地の中央部には四天王寺がそびえ建ち、前方の夕日が丘を中心にして、有名な神社や寺院が今も信者をあつめ、観光客を呼んでいる。
 そして、上町台地の南側には、住吉大社の背後を固めるようにして、空襲に会っていない何十という神社やお寺が適当な距離を置いて存在し、それぞれの地域に根付いて活動しているのである。中には住吉大社よりも古い歴史を持つものもあるという。
 私は機会があればぜひとも「上町台地南部百景」なるものを書いてみたいと真剣に思う。

十三仏は太閤の忘れ石から

 今回はその中から、宝山寺・十三仏を紹介する。
 この寺院は、万年山と号し、平野大念仏寺派末。寺伝によると、惠心僧都が四十ニオの厄除けのため、天元五年(九八二)に融通念仏宗の念仏堂を創建したことに始まる。本尊阿弥陀如来像は惠心自作と伝える。元亀二年(一五七ー)宝泉上人が本堂を建立、現在の寺名になった。堂宇は元和元年(一六一五)大阪<ママ 坂?>の陣で失、寛永十一年(一六三四)再建、その後修復を繰り返している、という。
 宝泉寺の前を行き過ぎようとして、ふと視線を感じて振り返ると、街道沿いにあるお堂のような中に人影がする。近付いてみるとお堂には「住吉名所十三仏」と書いてあり、等身大の石仏が十三体ずらりと街道に面して並んでいる。「立派な」と思わず声を上げてしまう程、見事な、傷一つない仏たちである。
 不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・楽師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦(しゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩等である。
 七福神が生きている間の守り神であるように、十三仏は死後の世界の救済者である。これだけの本尊を網羅すれば、救われること疑いなしとする気持ちのあらわれである。
 十三仏の石材は、この付近から出土したものと伝えられるが、一説には豊臣秀吉が大阪城築城に際して集めた巨石が、何かの事情で置き去りにされたのを、十三に割って活用したと云われている。十六世紀後半の作と推定される。

一度洗ってあげたい十三仏

 実は、十三仏が沿道のほこりにまみれて、 特に頭や肩の部分が黒くなっているのである。露天であれば雨で洗われるが、お堂の中なのでそうはいかない。仏像を洗うということは、いいことかわるいことかは知らないが、水掛け不動さんの例もあることだし、いつも由来書等を気安く下さる住職に、今度こそ勇気を出して聞いてみようと思う。

今昔木津川物語(053)

◎阪堺電車 上町線

 平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、王朝貴族から庶民にいたるまで盛んであった、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は、京都の永観堂を発ち船で天満の渡辺の津(松坂屋付近)に着いて、四天王寺、阿倍野王子神社、住吉大社、遠里小野を通過して、堺から和歌山に至るものであった。
 今では、この熊野街道も住吉区に入る少し前から、府下に残る唯一の路面電車である阪堺電車上町線と平行して、しばらくは幅広い道路を南下する。

チンチン電車元は馬車鉄道

 上町線は天王寺から住吉公園の間の約五㌔を途中九つの駅に止まりながら、約二十分かけて走り抜ける、一両編成のチンチン電車である。しかし今ではチンチンと発車の合図を送る車掌のいないワンマンカーである。
 上町線は明治三十年五月に、四天王寺〜上住吉間を馬が車両を引き軌道を走る大阪馬車鉄道として発足した。明治四十年に電化、大正二年六月住吉公園まで開通した。

船場商人が帝塚山宅地造成

 当時の沿線の状況は「住吉の岸の姫松」という、松林の茂った昼でも薄暗い場所であった。船場の繊維関係の経営者らが、このあたり一円を住宅地にしようと「東成土地建物株式会社」をつくったが、イメージが悪くて売れない。そこでエリー卜教育を目指すグループと組んで、帝塚山古墳の東側に帝塚山学院を創設、大正六年五月に開校した。
 土地会社の思惑は当たって、以後「高級住宅地の帝塚山」として発展して行った。
 浪華の南ひと筋に
 連なる丘のここかしこ
 みどりの森の影清く
自然の恵みゆたかなる
野こそ我らの庭なれや
   (庄野貞一詞)
 これは昔の帝塚山学院の校歌だが、開校当時の付近の状況がよく現わされている。もちろん今は、大邸宅に替わって中小のマンションが林立し、帝塚山古墳や万代池等の名所旧跡も電車の車窓からでは瞬間的に見えるだけである。

上町線の魅力の秘密とは

 ところが上町線の魅力の秘密は、実は最後の五分間位から始まるのである。
 帝塚山四丁目駅から終点の住吉公園駅までは、枕木を敷いた専用のレールの上を電車は走る。先ず、駅を離れると電車はゆるい上り坂を左へ曲がりながらコトコトと確かめるように登りだす。両側には草花も咲いている。終戦直後にはここで野菜をつくる人もいた。そんな思いにひたっていると、突然前方に青空が広がり始め、電車が半分飛び出したような錯覚に陥りはっとすると、電車は右に急回転して停車していた。神ノ木駅である。目の下には南海高野線が十両近く連結して驀進している。しかし、神ノ木駅は高架ではなく土手の上にしっかりと造られている。

タイムトンネルの中を行く

 電車は今、上町台地の西端に爪先で立っているみたいだ。前方には急な坂が曲がりくねって待っている。地形的に高い建物は建てられないのか、風景は三十年位あまり変わっていないように思う。生根神社の鎮守の森の背景に、住吉大社の鬱蒼とした森が見える。
 神ノ木とは住吉大社では松ノ木を神木としており、近くに明治二十年頃まで樹齢千年余の松の大木があったことから付けられたものである。

百年のジェットコ—スター

 さて、電車は意を決したかのようにブレーキを外した。最初はゆっくりとすべるように動きだしたが、すぐに加速し始めた。沿線の緑が赤が黄が目に飛び込んでくる、電車は右へ大きく力—ブしてその反動を使って左へまた大きくカープを切った。ゆれる乗客、きしむ車体、レールが光って流れる。そして気が付くと、電車は住吉大社の北側の参道の前の「住吉駅」に無事着いていた。賢明な読者の皆さんはすでに感じておられる通り、これは間違いなく昔のジエツトコースタ—である。百年前に我々の先輩達はこんな素敵なものを残しておいてくれていた。毎日の生活の気分転換に、一度乗ってみては。ひよっとしたら、あなたと車内でお会いするかも知れない。
 さて熊野街道の方は、帝塚山四丁目駅から上町線と離れて坂を徐々に下がり始め住吉大社の裏口、東側に達する。この辺りには歴史的な神社や仏閣が数多くあり、それぞれがほぼ昔のままの姿で今も人々に訴えていることはすごい事だと思う。また、街道の面影を残す代表的な地域でもある。