がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第10回、第11回

◎千本釈迦堂は「おかめ堂」?か

 次郎と友子は今日は、京都市上京区五辻通にある、京都市内としては最も古い、貴重な遺構である大報恩寺(千本釈迦堂)に来ている。
 次郎は数年前に、年末の大根焚きの行列に並んだことはあったが、本堂の拝観は出来ていなかった。友子は初めてだ。
 市バス「上七軒」で下車、七本松通りを南に突き当たったところが千本釈迦堂だ。全体は町の中にある氏神さんのような感じだが、国宝の本堂はやはり堂々として、歴史の重みを感じさせる。
 寺の沿革によれば「今から約八百年前に鎌倉初期安貞元年(ーニニ七)義空上人によって開設された。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも奇跡的に戦火を免れ、京洛最古の建造物として国宝に指定されている。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、十九歳で叡山澄憲僧都に師事、十数年の後この千本の地を得て、苦難の末本堂を始め諸伽藍を建立した」。
 突然、友子が大きな声を上げた。「本堂に向かって右の塚におかめが座っている。こんな相撲取りのようなおかめを見るのは初めてや」
 「おかめ塚」の由来については寺の沿革では「本堂建立の際、棟梁である高次が、かけ替えのない柱の寸法を切り誤ってしまった。これを見た妻のおかめがいっそ『ますぐみ』をほどこせば」というひと言。この着想が結果として成功をおさめた。
 安貞元年十二月二十六日、厳粛な上棟式が行なわれたが、この日を待たずして、妻は自ら自刃して果てた。女の提言によって棟梁としての大任を果たし得たということが、世間にもれ聞こえては…。『この身をいっそ夫の名声に捧げましょう』と。
 次郎が語る。「しかし結果としては、実は妻の提言だったということを今日までの八百
年間、おかめは世間に知らせ続けてきたことになっている。おかめが一番恐れていたことを、寺はなぜやっているのか。本当に不思議なことだ」
 友子も語る。「棟梁の妻たる者が、上棟式という祝いの日を目前にして自刃するなどとは考えられない話だ。『おかめよくやつた』とは到底誉めてやれない」
 二人は本堂に入ると、御本尊の釈迦如来像は扉を閉じておられたようだが、本堂の前にもおかめ像。しかも本堂の横の部屋にはまたおかめの巨大像。その前には各地から集められた各種のおかめ人形がびっしりと置かれている。
 「これではまるで、おかめ堂だ…」次郎は思わず叫んだ。友子は再びおかめ塚に行っていたが帰ってきて「昭和五十四年建立と書かれていた。最近なのだ」と不思議そうにつぶやいた。
 次郎は語った。「伝説というものは何かしらうさんくさくて、背後にも、よからぬたくらみがあって、それで不当に得をする者の世論誘導の印象を受けるのだが。今回の『おかめ伝説』の場合はどうだろうか」
 次郎は友子の手をとって。
 「でも、大根焚きに集まった女性たちはみんな元気で明るかったから、一方的に夫の犠牲になるような時代錯誤はもうとっくに過去の遺物になっているのではないかなあ…」
 「友ちゃん帰りに京名物の『にしんそば』でもたべよう」「賛成です」友子の声は明るかった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2016年12月、2017年2月号掲載