◎大阪港
大阪湾は紀淡海峡で太平洋に、明石海峡で瀬戸内につながっている。西の方からは強い風が常に吹き付ける。そのため入船にはよかったが、出船は風向きを見なければならなかった。川底は上流からの土砂で常に浅くなっていく。
昔は船体が大きな船は一旦、河口で停泊し、そこから小船に積み替えて、河岸や掘割りに並ぶ蔵屋敷に持ち込んだ。
明治に入ってからも、隣の神戸と比べると大阪港には大きな船はほとんど入っていない。大阪港は神戸港におくれをとってしまった。
大阪港の大改造で大阪発展
大阪港を根本的に改造するには、強い西風を避けるため、海の方に突き出た防潮堤を築いて港のふところを大きくし、接岸設備を思い切って増設しなければならない。
大阪市は、明治二十五、六年頃から調査にかかったが、日清戦争で中断し、新淀川の完成を控えた三十年にやっと築港事業が議会を通過した。
工事は予定より遅れて、大正十四年に完了した。昔の天保山は取り払われ公園となり、そこから幅二十七㍍、長さ四百五十㍍の大桟橋が造られた。その他に護岸・上屋・臨港鉄道などが整備された。
この築港に接する西大阪地域は、その当時まだあまり開かれていない空き地の多い地域であったが、市電が真つ先に敷設され「魚つり電車」といわれながら、がら空きで走っていた。
その後この地域一体は、工場や住宅の用地として埋め立てられ、「港区」の誕生となる。
大桟橋が「大出征基地に」
大栈橋から日露戦争に大量”の兵器を船出させたのを皮切りに、その後敗戦までの間全国各地から軍隊が集結、それぞれ戦場に向け船出していった。
築港工事と共に計画された国鉄臨港線は、関西線今宮駅から分岐し、尻無川沿いに下って港区西端の天保山運河近くまで達し、途中振り分けられた貨車は、そのまま各岸壁のプラットホー厶に直接横付けできるというものであった。
戦時中は軍事輸送一色となり取扱量も急増、各地から集められた軍隊は、なぜか途中の浪速駅で下車し、人家のあまりない海岸通りを行進して船に乗り込んでいった。
「国防婦人会」発祥の地に
出征していく夫や息子の無事を祈って、家族が戸別訪問や駅に立って、ひと目ひと目結んでもらった「千人針」をなんとか手渡したいと、近くの旅館に泊り、最後の機会を「海岸迥りの行進」にかける人もあったのではないか。この兵士や家族たちの何か役に立ちたいと、地元港区の女性たちが自然と活躍したのを、軍部は「国防婦人隊」という戦争協力団体につくりかえ全国にひろめさせた。
後に港区は空襲でほぼ全域が焼きつくされ、港区戦没者慰霊碑の過去帳に記載されているだけで犠牲者は二千八十人にのぼる。この過去帳は西栄寺の住職が昭和三十年頃、港区役所の地下倉庫にあった「埋葬許可書」から丹念に拾いだした貴重なものである。
港区が「大出征基地」にされたために大空襲の標的になったと、地元では毎年欠かすことなく、反戦平和を誓いあうあつまりをもって、戦争の悲惨さを語り継いでいる。