西成—大正歴史のかけ橋シリ—ズ(二)
◎ 近代紡績工業発祥の地(三軒家東二—十二)
—三野家公園内—
知人の坂本氏に以前から聞いていた話であるが、大正区三軒家で毎年一月に「朗読会」がやられ、坂本氏はその主役格で参加されているとのこと。テキストは森鴎外の小説「最後の一句」である。
また、坂本氏からの資料によれば、「詩、小説、童話、歌詞など、どんな本でもかまわない。声を出して読むだけだから、誰でも簡単にできる。想像力を働かせ、役を演じることがストレスの発散につながるだけでなく、長い息継ぎで自然に腹式呼吸を覚え、脳も刺激する」とのことで、各地の文化サークルで朗読の会が催されている。
「最後の一句」に三軒家が
さて、三軒家で朗読会を主催している主婦の大牧比佐子さんは「大正区が文学にめったに登場しない」のは寂しいことだと考えていたところ、大好きな森鷗外の「最後の一句」という短編小説に今の三軒家あたりをモデルにした部分を見つけたのである。この小説は大正四年十月一日の中央公論に載ったもので、あらすじは、「元文元年(一七三六)の秋、大阪船乗り業桂屋太郎兵衛の船が途中風波に合い、積み荷の半分以上が流出、船頭が残った米を金にして帰ってきたが、その金を秋田の米主に返さなかった」「太郎兵衛は入牢し、木津川口で三日間さらした上、死罪に処せられることになった。
その時、太郎兵衛の長女いち(十六歳)が自ら願書を書いて町奉行に父のふ命乞いを迫り、ついにその願いを貫徹させた」というものである。
山辺丈夫と森鴎外
大牧さんは大正区の歴史を調べていくなかで、鴎外と、かつて「木津川口」にあたる三軒家に紡績工場を開いた山辺丈夫が共に石州津和野亀井藩出身であることを知る。「鷗外が木津川口を登場させたのは山辺と関係があるかも知れない」と二人のつながりを調べたところ、阿倍野墓地の山辺の墓の碑文を鷗外が書いていること、西成郡三軒家尋常小学校(現大正東中)に「龍一教室」があったことを知った。実際、山辺丈夫の墓をたずねると、龍一の墓が中央にあり一番立派でそのわきに丈夫らの墓があった。
山辺丈夫はロンドン大学で経済学を学んでいるところを、国立第一銀行頭取の渋沢栄一に請われてマンチェスタ—に移り紡績技術を身につけた。帰国二年後の明治十五年に完成した大阪紡績(後の東洋紡績)の工務支配人になり二十四時間操業のために発電機を輸入。六百五十灯の電灯を見るために三日間で六万人の見物があったという。明治三十一年社長になる。その三軒家工場で明治二十二年十二月九日、当時八歳九カ月の長男龍一が事故で死に、翌年、丈夫夫妻は龍一が通っていた三軒家小に二階建五十平方メートルほどの「龍一教室」を贈った。
工場並ぶ町で人間史発掘
しかし、紡績工場も「龍一教室」も昭和二十年三月十三日の空襲で消滅。当時の面影は、ただ、三軒家公園に「近代紡績工場発祥の地」の記念碑が立つのみ。森鷗外が木津川口三軒家あたりを小説の舞台にしたのは、山辺家との交流があったからではないか。
また、子どもたちを主人公に選んだのは龍一への鎮魂の思いからではないかと、私は推理するが、大牧さんはそこまでは語っていない。
「高層ビルが並ぶ都心よりも工場や倉庫が多い大正区のようなところの方が、何やらほっとする、という人もいます。一見、文学とは無縁に見えるこの町にも人間くさい歴史があったと知って私もほっとしています」と、大牧さんはかって新聞に話していた。
実は、この大牧比佐子さんは、約四十年前、私がある病院で働いていた頃、新卒の栄養士として病院に赴任してきた人。なつかしい人の近況を知らせてくれた坂本氏にも感謝しておきたい。
参考】
・青空文庫・森鴎外「最後の一句」新字新仮名
・同 旧字旧仮名